日原古道探索計画 第1回

公開日 2007.2.16
探索日 2007.1.16
東京都西多摩郡奥多摩町

 新たなる目的地は定まった。

苦難の果てに辿り着いた都道204号日原鍾乳洞線の旧道最奥部から、千尋の谷を成す日原川の対岸に目撃された複数の道らしき痕跡。
旧都道突破の美酒に酔うはずだった私を一瞬で素面に戻してしまった、「伝説」を超える……道。

 後日、図書館に行って「奥多摩町史」を調たところ、この道らしき影は確かに道であった。
氷川から日原へ向かう古来“日原みち”と呼ばれたそれの険しさは、町史としても特筆すべきところがあったらしく、かなり詳しい記載があったのだ。


 それによれば、私がいままで辿った旧都道でさえ、日原みちとしては6代目の道であるらしい。
日原に人が住み始めたのは遅くとも室町時代に遡るそうで、以来、道中で最も険しいこの岩場…“とぼう岩”(日原の戸口という意味だそうだ)の“越え方”を中心にして、何度も道が変遷してきている。

 断崖の中腹をほぼ水平に通る姿が、かなり鮮明に見えるそれは、大正4年に開削されたという第4代(第5代とも重複)の道。
そして、正直道とは信じたくない… 崖を斜めに横断する影……それは、第3代の道。
江戸時代末期の文化年間(1804-1817)に、それまでのとぼう岩を迂回する尾根越えの道に替わって開削され、以来、明治期を通じて“日原の生命線”となった道だという事まで、判明してしまったのである。

 日原みち、その未知の古道をめぐる捜索と冒険が、始まる。





まずは、旧都道を引き返す

 大崩崖の踏み跡


 12:55

 旧都道の石灰採石場に望む末端部分から、来た道を振り返る。採石場の昼休みが終わる前に撤収することにする。
対岸の景色に呆然としていたのも、時計を見れば3分足らずだったらしい。
このあと日原古道の探索は是非したいが、チャリやリュックも置き去りにしてきた手前、まずは戻らねばなるまい。
喉ももうカラカラだ。



 まずは、人呼んで「伝説の百メートル」が現れた。
対岸の絶壁の道にもし辿り着けたなら、果たしてどんな景色が待ち受けているのだろうか…。
私の頭の中は、もうそのことで一杯だった。

 「伝説」も、上の空のままクリアー。






   つづいて難関「小崩崖」。

 ここも、慎重にクリアー。



 13:10

 終点から約15分をかけて日原隧道の東口まで戻った。
生還までは残り500m足らずだが、再び「大崩崖」に挑まねばならない。
来るときには必要以上に高巻きしてしまった印象があったので、今後のためにも、帰りはより安全で効率的なルートを探してみようと思った。

 坑口前から、もはや殆ど道の痕跡を失った旧々道へと入る。(カーブミラーの奧)



 坑口前からの旧々道は、そこにコンクリート吹きつけの法面があることでやっと分かる程度に続いている。
既に路盤は判然とせず若木が林のようになっている。
その先には、やはり何度見ても気圧される白亜の斜面が近付いてきた。

 また、挑まねばならないのか…。

 そうだ。書き忘れそうだったので今言おう。
奥多摩町史によれば、第6世代の日原みちであるこの旧都道(大崩崖や登竜橋においては旧々道部分)は、前回まで昭和30年代の竣功であろうと想像していたのを覆し、実は昭和27年の開通であった。工事自体は昭和17年より始めたらしいが、色々あって開通は戦後しばらくたった27年になったとのこと。言うまでもなく、これが日原のモータリゼーションの夜明けであった。(余談だが、旧倉沢橋はたった7年間しか使われなかった事になるのか…)



 間もなく、大崩崖の東の外れに到達。
あたりまえだが、1時間前と何も変わっていない。

 しかし、ここを楽に超える方法は無いのだろうか…?
そんな期待をすること自体が馬鹿らしいか…。
やはり、上に行くしかないか…?

 そう諦めかけたとき、私は見た。

 見えたのだ。

 一本の。
この斜面を真っ直ぐ横切るラインが!



 それは、奇跡などではなかった。
来るときも、道は確かに存在していたのだ。
ただ、それがあまりにもか細く、そして正面突端だったので、全く想定の範囲外だっただけのこと。

 わずか幅30cm程度の踏み跡が、斜面を横切るようにして続いていた。
場所によってはよく見ないと分からないほど些末な踏み跡なのだが、それでも、無いのとあるのとでは大違い。
もしこの踏み跡が無ければ、正面突破は考えなかっただろう。

 写真は、踏み跡から見上げた大崩崖随一の難所、「平滑斜面」。
足場の傾斜は、これよりもほんの少しだけ緩くなっていた。



 踏み跡の存在は、私に進路のみならず、勇気もくれた。
喉も渇ききって、いまさら100mも登るような大迂遠をどうしても避けたかった私にとって、この踏み跡は、天から降ろされた蜘蛛の糸の様に思えた。

 私は、万が一にもその踏み跡が崖の向こうまで続いていない事など疑わず、慎重かつ速やかに踏み跡をなぞった。
しかし、踏み跡はしょせん、踏み跡。
道路じゃないのだから、繰り返し人が通ることなど想定していない。いままさに私が崖の踏み跡を突き破り、転落してしまう危険性もあっただろう。

 写真は、平滑斜面を越えて振り返る。
背後には、崖にへばり付く旧々道が、路肩の石垣と共に僅かに見える。
肝心の踏み跡は… 写真では見えない。
それはあまりに頼りなく、とても図示出来るものではないのだ。



 そして、大崩崖第二の難所「大ガリー」。
来るときには、ここよりも数十メートル上部をようやく横断しているのだが、今度は低い位置にいる分、その谷幅は格段に広い。
そして… なんという無責任!!

 踏み跡、無くなりやがった!

 だが… もう今さら引き返すのも癪に障る。
とりあえず、ここさえ超えられれば対岸の傾斜は踏み跡無しでも何とかなると思うので、強引なガリー突破を狙い、その極限まで崩れやすい砂地の斜面を下った。
ボロボロと礫片を頃がしながら。

 そして、反対側の斜面を無理矢理よじ登った!



 踏み跡は、ガリーを超えるとまたちゃっかり復活していた。
私は、踏み跡はおそらくここ数年内に出来たものではないかと予想している。
例の女性バラバラ遺体発見の事件の後に、警察が付近の大規模な山狩りをしているはずだからだ。
当然、日原隧道やらその先の旧道は遺体遺棄現場として怪しんだだろうし、執拗な彼らならばこの大崩崖に呑み込まれた旧々道でさえ捜索したと思うのだ。(確かにこの斜面に遺体を遺棄すれば、呑み込まれて二度と出てこないかも…)

 さておき、大崩崖の突破は間もなくだ。
ここに要した時間は約10分。
その気になればこの半分でも超えることが出来そうである。

 が、賢明な読者であればお察しの通り、踏み跡も全く安全ではない。
気軽に立ち入るのはやめておいた方がよいと思う。


 さらに数分後、私は遂に日原隧道の西口。
チャリやリュックを置き去りにしてきた地点へと戻ってきた。
予想を超える数々の発見は、腰の小さなポシェットだけでは入りきらず、飲みかけだったジュースもすっかり空になっていた。



 んぐんぐんぐッ…

  んぐんぐ… ごっくん


 う うめー。



 謎の小道へ…


 ふたたびチャリに跨った私は、因縁深い旧道を後にした。
日原トンネルを潜り(今度は下りなので気持ちのよいトンネルに思えた)、氷川鉱山の入口を横目に駆け抜け、倉沢の大鉄橋を渡り、途中の片側交互通行もスルリとかわして、やがて、曳鉄線の鉄橋の下まで戻ってきた。
相変わらず、ガラガラと岩の鳴る音を響かせながら、無人のトロッコが往来していた。

 無論私は、日原への古道を探索する目的を忘れてはいない。
だが、まだこの段階ではどこから古道へと接近できるのかが分かっていなかった。
故に、手持ちの地形図上にて日原川対岸に怪しげな点線が描かれている下流の集落、小菅へと向かっていたのだ。
そして、いまその一歩手前の鉄橋下まで来たわけである。



 ここいらで、この後の私の計画を紹介したい。
が、まずその前にひとつ、前提を言わせていただきたい。
先ほどまでの旧道探索の時点では、事前調査時も含め、対岸により古い時代の道があると言うことを知らなかった。
私がこの南岸沿いの古道の存在をはっきりと理解したのは、数日後に図書館で町史を紐解いてからである。
よって、まだこの段階では「古道なのか鉱山の道か、あるいは林道かは分からないが、ともかく対岸に見えたあの“すさまじい道”へ行きたい!」というだけであった。
このことから、若干探索時の心境と矛盾してしまう懸念はあるが、以降のレポートは「これが古道である」と知っている“今”の観察によって述べさせていただくことにする。

 前置きが長くなってしまった。
現在地点は鉄橋の真下にある。
ここから、来るときにこの写真を撮った分岐へ戻り、いよいよ日原川右岸へ入る。
そこにはまず大沢と小菅の集落があるはずで、あの山の小高いところに見えていたのは小菅集落だったのだろう。古道は、あんな高いところから始まるのだろうか。
そのさき地形図だと、地下の曳鉄線のほぼ真上に、点線の道が描かれている。この道の現状は全く不明であり、今いる県道からもその様子は窺い知れないが、ともかくこれを北上し、氷川鉱山の対岸へ向かう事にする。
その場所には神社の記号が描かれており、橋もあるようだ。ただしこの橋は、旧道末端で遠望した吊り橋であろうと思われ、だとすれば既に落橋している可能性が高い。
肝心の「神懸かり的な道」は、その神社の辺りからずっと南岸をへつって続いているのだろう。
地図には描かれていないが…。
そして、さらに1kmほど上流からは、思い出したように点線が復活し、やがて川を渡って(この橋だろうか)日原集落へ達している。
今になって地図を見てみれば、例の“とぼう岩”を挟んで南岸に道が存在しており、これらを一本に結ぶ古道の現実性は低くないことが分かる。
あくまでも、とぼう岩をどうにかして超えねばならないわけだが…。

 



 さあ、鉄橋をくぐっていざ進もう!


 が・・・。

 私にはまだ、古道の前に通らねばならない道があった・・・。

 全てはこの動画から始まる。 そして、次回へと続く。






 その行く手には、古道に寄り添って暮らす村が待ち受けていた。

しかし、暮らさざる私にとってそこは、魔境のようだった…。