無残な残骸を晒している兎峰(とぼう)橋。
私がその名を知ることが出来たのは、ある方の助言により、「月刊土木技術」の昭和25年9月号を目にすることが出来たからだ。
そこには「東京都兎峰橋工事報告」という一節があり、その書き出しは次の通り。
本橋は、東京西多摩郡氷川町日原地内多摩川支流、日原川に沿う景勝の地戸望岩の断涯に架かるもので(中略)、倉沢橋と同一路線にして林道開発事業の一環として施工せるものである。
現在「旧都道」と呼ばれている道は、昭和18年に着工した林道で、戦時中の中止をはさんで同25年、この兎峰橋の完成を以て全通した。
当時は対岸の道が都道(戦前は東京府道)に指定されており、路線指定変更の年度は不明だが、おそらく全通後まもなくと思われる。
なぜなら、倉沢橋および兎峰橋の施工をおこない、この「工事報告」を残したのが東京都建設局道路課だからだ。
しかしともかく、当初は林道という名目で建設されていたのは事実である。
それでは今回はこの「工事報告」をベースにして、兎峰橋の在りし日の姿を振り返ってみようと思う。
「月刊土木技術 昭和25年9月号」より転載
残念ながら架設後の写真は見あたらなかったが、工場制作時に仮組立をした時の写真があった。
それが右の写真である。
やはり橋の形式は「上路トラスドアーチ」で、このうち手前側の半分ほどが残骸を晒している。
奥の半分はどうなってしまったのか…、おそらく地中にバラバラになって眠っているのだろうが、はっきりしたことは分からない。
「月刊土木技術 昭和25年9月号」より転載
←これも同じく仮組立中の写真で、人物が写っているので大きさの比較が出来るだろう。
現地でひしゃげた残骸を見ても、かなり大きな橋だとは思ったが、それでも全体の半分以下しか見ていなかったことになる。
今回この資料によって竣功年が昭和25年であったことも明らかとなったが、戦後間もない鉄不足の時期でありながら、敢えて永久橋である鉄橋を選んだところに、日原開発への強い意欲と期待が感じられるのである。
もっとも、当時想定されていたのはあくまでも林業開発のみであり、昭和20年に採掘が開始されていた氷川鉱山の鉱石運搬や、日原地区での観光客増などは全く考慮していなかった。
本橋としては日原地区の林産物搬出用のトラックの交通以外将来に於いても交通量の増加なきものと思われ、今後此の地区の発展は殆ど考えられない処である
確かに当時としては、氷川鉱山の鉱石は索道による運搬が開始されていたし、日原鍾乳洞も観光化されていなかった。
そしてこれは今も変わらないが、日原は周囲を山に囲まれた袋小路の行き止まりである。
そのため、当初橋版のみ木造にする計画であったが、これは施工中の材料調達の都合で、コンクリート床版に変更されたのであった。
「月刊土木技術 昭和25年9月号」より転載
橋のスペックは上の図の通りで、全長51mにも及ぶ長大橋であった。
(これは昭和21年に完成していた初代倉沢橋(木造ハウトラス:橋長47.6m)よりも長く、昭和34年に現在の倉沢橋(鋼製ワーレントラス:橋長58m)が完成するまで、日原線最長の橋だったようだ。ただし図で見る限り、高さはさほどでもなかった(20m程度?)ようだ。)
なお本橋の工夫のひとつとして、次のようなことが書かれている。
本橋の有効幅員は3.50mにして幅員に対して橋長、構高が大きいものになるため、拱(アーチ)の安定を増し、振動を軽減する意味にて、構は 1:15 の taper を附した。
難しい説明はよく分からないが、上の図で橋の断面形が台形をしているのは、このtaper(テーパー)があるせいである。
当たり前なことだが、こんな無残な末路を辿った橋といえども完成当時は大いに工夫され、期待され、喜ばれたのである。
「月刊土木技術 昭和25年9月号」より転載
元画像が不鮮明なのが残念だが、これが現地架設中の写真である。
このアングルから見て、対岸の旧々道から撮影したものであろう。
工場で仮組立後に解体された材料は鉄道で氷川駅に下ろされ、その先はトラックで現地まで運ばれた。
そして写真を見る限り、現地に2本のトレッスル橋脚形仮足場を設け、両側から組み立てたようである。
なお、この写真に写っている背後の風景が、まだ削られ尽くす前の戸望岩ということになる。
平成19年に撮影した写真と比較してみよう。
同じ範囲の写真で比較するまえに、もっと広い範囲を写した右の写真を見て貰わないと、意味が分からないと思う。
(それほど地形が変わってしまっているということ)
赤い矢印は今も旧都道が存在する領域で、その先端から先は採掘のため、地表もろとも道は削り取られて消滅してしまっている。
そして四角い枠の範囲が、次の写真で比較する範囲である。
上の2枚の写真は、大体同じ範囲を撮影しているはずだ。
が、信じてはもらえないかも知れない。
まず何度も言うように、橋だけではなく、橋の前後の路盤さえも消滅しているから、地表に何かの痕跡を求めるのは無理があるのだ。それは、これだけ大きな橋でありながら橋台さえ発見できないことからも、明らかである。
なんか作図していても、のれんに腕を押すような空しさを感じたので、対岸からの写真比較はこのくらいにしよう。
平成19年に撮影した写真
ところで、対岸からの写真を紹介したついでに、右の写真も見て欲しい。
これも平成19年の探索で撮影したものだが、谷底に写ってますね。
橋が。
……。
この写真を撮影しておきながら、つい最近まで「あれは鉄塔だ」と思いこんでいたんですから、思いこみって怖い。
ほんと、怖い。
石は投げないで!
2枚とも「月刊土木技術 昭和25年9月号」より転載
左の写真は2枚とも現地架設中のもので、まだ床版が載せられる前の段階だ。
こんな感じで命懸けの工事が進められ、昭和25年内に全て完成したのであった。
…といったここまでの内容を、平成22年6月のトークイベントで発表したところ、参加者のKDKK氏より、衝撃的な情報がもたらされたのだった。
KDKK氏が数年前、私達と同じようにこの地を探索していたところ、兎峰橋の残骸の近くで偶然見つけたというのだ。
一本の親柱を。
その情報は、夕暮れという事情もあったにせよ、橋を見ただけで満足して撤収してきた自身に対する、強烈な宣戦布告であった。
これはもう、行くしかない。
再々々…訪だ!!