道路レポート 宮古市道 沼の浜青の滝線 第1回

所在地 岩手県宮古市
探索日 2020.03.26
公開日 2020.04.18

岩手県の三陸海岸中央部に、宮古市田老地区がある。
そこは平成17(2005)年まで、人口4500人あまりを抱える田老町という独立した町で、中心市街地を守る巨大な防潮堤が有名な「津波防災の町」だった。

田老地区の北部、岩泉町に隣接する辺りを乙部(おとべ)地区という。
この一帯の海岸線は、三陸海岸北部の象徴的風景ともいえる隆起性の巨大な崖の連続で、全ての集落は崖の上の丘に点在している。

右図は平成17年の地形図だが、前述したような地形や集落配置の特徴がよく描かれている。

海岸沿いにはいくつかの漁港はあったが、集落は全て高い位置にあった。
小さな川の河口部には、小規模な沖積平野があったが、そういう所に人はほとんど住んでいなかった。
なぜなら、大きな津波が数十年おきに押し寄せてきて、低地の住居を押し流してしまうからだ。人々は先人の犠牲に学習して丘の上に住んでいた。

昭和45年から51年にかけて、旧田老町はこの乙部地区の生活向上や観光振興を目的に、海岸道路を建設した。
小港漁港付近の前須賀を起点に、沼の浜、重津部(おもつべ)沢を経由して、青野滝漁港へと至る、全長約2180mの「町道沼の浜青の滝線」である。

途中3箇所にトンネル(地図の矢印の位置)を設けるなどした大掛かりな工事の完成によって、一帯は袋小路から脱却できた。
元来の風景の美しさを活用して、沿道の沼の浜には海水浴場やキャンプ場、真崎にはロッジや公園が整備された。

私も、平成15(2003)年7月17日にサイクリングの途中でここを通っている。
ただし、時刻は夜8時過ぎだったので風景はほとんど見えなかったが、トンネルが3本あるというのが気になったので、宮古から岩泉へ向かう途中で、わざわざ遠回りして通ったのだ。
(この日の夜は岩泉駅で駅寝し、翌朝に押角峠を走った。その模様は、初期作である「道路レポート第20弾」で紹介した)

あの日、見えない風景の代わりに印象に残ったのは、すぐ足元から聞こえてくる波の音の底知れないような恐ろしさだった。
月の出の前の暗い晩で、海面もろくに見えなかったが、周囲の崖に反響している波の音が全方位的で喧しく、聞いていると道路と海の境目が怪しくなるような気がして、今よりもいくらか臆病で純粋だった私を震えさせた。
そんな道だった。


この3枚の写真はその時のもので、ガードレールはなく駒止だけが並ぶ海岸道路、地形図の3本のトンネルの他にあったロックシェッド、最後の青野滝漁港で海上に昇ってきた月の情景だ。

そんな想い出の道が、平成23(2011)年3月11日の後でどうなったのか。

秘かに気にしていた。

東日本大震災の津波は、海面高10mを誇っていた日本一の田老防潮堤を突破して、多くの犠牲者を出した。
もとより防波堤を持たなかった件の市道が、完全に海面下に呑み込まれたことは想像に難くないが、その後の状況はなかなか耳に届かなかった。

自分で見に行くことも何度か考えたが、私が見たいのは災害によって壊された直後の道ではなかったし、ある程度時間が経過してからは、現在進行形で復旧工事が行なわれているものであろうと、訪問を遠慮していた。

右図は、最新の地理院地図だ。
これを見ると、市道沼の浜青の滝線の北側3分の2に相当する大部分が、ごっそり消滅しているのが分かる。

ああ……やっぱり……。
そう思った。
この道の地図から消された部分は、致命的なダメージを受けたのだろうと察した。
2本のトンネルやロックシェッドも、道ごと消えていた。

そして、ようやく最近になって、岩手県発表の資料によって、この市道が「どうなるのか」を知ることが出来た。
この市道を復旧させるのか、させないのか、分かった。

市道は、ちゃんと復旧させるという。

ただし!



「二級市道沼の浜青の滝線道路災害復旧(23災663号)工事 工事概要」より

査定時は現道復旧で計画を行なっていたが、現道の復旧工事は波浪の影響を受けやすいため施工が非常に困難であることや、道路を山側へ振るバイパス案の方が事業費を削減できることから現道復旧ではなく、バイパスでの復旧を行なう。

「二級市道沼の浜青の滝線道路災害復旧(23災663号)工事 工事概要」より

大部分は現道復旧ではない。

右図の赤線の部分は現道復旧(=地理院地図に道が描かれている区間)させるが、青線の部分は放棄して(=地理院地図の消滅区間)、代わりに緑と黄色の区間を建設・整備するという。

従来よりも遙かに距離も高低差も迂回の大きなルートだが、施工の容易性や事業費削減のために、この代替ルートでの市道復旧を行なうことが、既に決定していて、工事が進められているという。

というわけで、私があの晩通り抜けたトンネルのうち2本までは、廃道が確定してしまった。
このことを把握できたタイミングで、いよいよ探索を行なうことにした。
前回走行から17年後、被災から9年後となる、2020(令和2)年3月26日、探索決行!




根こそぎにされた前須賀


2020/3/26 15:40 《周辺地図(マピオン)》《現在地》

スタート地点である前須賀の実景を見る前に、震災前後の航空写真を紹介する。
市道沼の浜青の滝線の起点は、田老の中心市街地から山を越えて来た市道が、
小港漁港・真崎方面と、沼の浜・青野滝方面に分岐する地点だった。

私が前回通った時は夜だったので覚えていないが、震災前、前須賀には多くの家屋があったようだ。
おそらく集落というよりは、海の家や漁具倉庫ではなかったかと思う。確かバス停もあった。

震災直後の写真を見ると、一帯は低地伝いに相当上流まで浸水しており、家屋は全て流失している。
道路も大量の海岸堆積物に埋立てられており、広い範囲で見分けられなくなっている。
これからご覧頂くのは、この9年後の風景である。




こざっぱり。目の前の風景の印象を聞かれたら、そう答えるだろう。

昔の景色の面影を、景色から見出すことが難しい。
辺りにあった人工物は、ほとんど整理されて更地になった。
道路だけが元の位置に甦っているが、どこもかしこも真新しい舗装ばかりで、沿道になにもないので、空虚だった。この地が歴史を刻むのはこれからだという印象を受けた。

赤ペンキの「遊泳禁止」看板が、乾いた潮風に淋しく棒立ちをしている分岐地点。ここは以前は砂浜で、前須賀海水浴場と呼ばれていた。
左の道を向くと(チェンジ後の画像)、目指す市道がまっさらな姿で待っていた。
特に行き先の表示や、通行止めの予告もなかったが、出発だ。



沼の浜青の滝線に進入すると、すぐに波打ち際の崖下を埋立てて作った道になった。
かつては波の合間を縫ってやっと人が通じるくらいの場所だったろうが、立派な道が付けられていた。

残念ながら17年前の夜の景色は思い出せないが、たぶん路面のコンクリート舗装も、路肩の防波堤も、全て作り直されていると思う。どれも一様に真新しく見えた。

そして、この出発直後の時点で、約2.1kmの「ゴール」、青野滝漁港辺りが、海上遙かに見通せた。
途中には3本のトンネルがあったはずだが、1本目はすぐ先にもう見える。
さらに、目的地近くの海岸線(青い枠の辺り)に目を凝らしてみると――




廃道区間に取り残されたトンネルが!!

あの場所は、間違いなく3本目のトンネルだ……。

地理院地図からは抹消された廃道確定区間に眠るトンネルである。

そんなトンネル前後の道は、ここから見ても荒廃しているのが分かる。
荒廃どころか、まったく押し流されてしまった部分もありそうに見える。
もともと険しかった断崖絶壁が、さらに荒々しく研がれたような感じがある。

それほど長い距離ではないが、前回のように自転車で走破するのは、大変かも知れない。

危険な匂いがする……。




トンネルズームアップ!

たしか名前は……、「鵜の巣トンネル」だった。
17年前、潮騒に怯みながら、夜よりも暗い闇を通り抜けた曰くの場所。
ここから見る限り、坑門は破壊されていないようだが、
直接、津波の衝撃を受けた、地上の道路施設や法面の荒廃が著しい。

宮古市がまとめた被害状況(pdf)によると、真崎地区の海岸線の浸水高は20mにも達したらしい。
20mといえば、トンネル上の痩せた岩尾根が、ぎりぎり乗り越えられないくらいだろう。
現に、岩尾根の上のマツが枯れたり、岩場が崩れたりした形跡が見て取れた。

恐ろしい、光景だった。



沼の浜の変貌


15:42 《現在地》

1本目の隧道が間近に迫った。
隧道は3本あったが、この1本目だけが廃止を免れている。
他の2本と命運を分けた理由が、どこにあったのかは分からない。
ただはっきり言えることは、この隧道もあの日、一度は完全に波の底に呑み込まれているという驚異的な事実だ。

なぜそれが分かるかと言えば、理由は樹木だ。
津波の浸水を受けた部分の植生を見ると、9年間で下草は甦ったが、樹木はまだ育っていない。
参考までに【この写真】は、17年前に撮影した宮古市の浄土ヶ浜遊歩道の風景だが、当時はどこでも土さえあれば渚の近くまで樹木が生えていた。津波で表土と一緒に押し流され、或いは塩害で枯れ果てて、今の風景になった。

隧道の天井よりだいぶ上に津波の浸水線があったことは、この風景から一目瞭然なのである。




生き物はひとたまりもなかった津波だが、隧道は耐え抜いていた。

見たところ、坑口はおろか、内部についても大掛かりに補修された様子はなく、おそらく【17年前】と同じ姿で貫通していたのである。
唯一廃止を免れた隧道ということで、大修繕を受けているかと思ったが、そんなこともなかった。

津波が襲来した瞬間、道路ではなく、天然の海蝕洞のように振る舞うことで、耐え抜いたのだろう。
自然の刃(やいば)は、人界生まれの隧道を執拗に打ち壊そうとしただろうが、疑似石として人類が発明したコンクリートは負けなかった。
そしていま、車道として見事に復活を遂げた。

金属製の扁額には、「沼の浜隧道」と刻まれていた。
津波のせいで錆び付いた訳ではないだろうが、もしかしたら国内で最も深く津波に浸水した経験を持つ、現役トンネルの可能性があった。
もともと三陸地方の道路は海岸よりかなり高いところを通る場合が多く、波打ち際の隧道は意外に少ないので、本当にあり得そうだ。




沼の浜隧道のスペックは、『平成16年度道路施設現況調査』に掲載がある。
主なデータは以下の通り。

名称: 沼の浜トンネル
 竣功:昭和42(1967)年 全長:53m 全幅:6.0m 限界高:3.8m
『平成16年度道路施設現況調査』より

気になるのは、竣功年だ。
冒頭で引用した紹介した「復旧工事概要」には、昭和45年から51年にかけて沼の浜青の滝線が建設されたとあったが、「道路施設現況調査」だと、3本のトンネルはいずれも昭和42年か43年の開通になっている。

裏付けを取るために、昭和43年10月3日の航空写真を見たが、1本目と2本目のトンネルは既にあり、3本目はなさそうだった。そして昭和52年版になると、3本とも間違いなく存在していた。
少なくとも、1〜2本目のトンネルの竣功年は、「道路施設現況調査」の数字が正しいようである。




沼の浜隧道で小さな岬を潜り抜けると、新しい防波堤越しに、新しい眺めが一気に開けた。

隧道名や路線名の元になった沼の浜地区が、初めて見えた。

そこには、先ほどから見えていた3本目に加え、新たに2本目の隧道の姿も。

事前の調べによれば、あの2本目の隧道はもう、廃道区間に入っているはずだが…。




ここから見る限り、2本目も1本目と同じで、普通に使われているように見える。

とりあえず、坑口が封鎖されていなさそうなのは、探索するうえで大きな好材料だ。



15:45 《現在地》

沼の浜、到着。

恐ろしく飄々とした砂浜だ。

前須賀よりも広いが、前須賀と同じく、ここにあるのも、道だけだ。建物なし。




震災以前、ここには沼の浜海水浴場があった。

航空写真を見ると、広い駐車場や、数軒のレジャー施設、広い芝生広場を持った公園などがあったようだ。

また、この公園の他に、広い谷戸を地形を活かして水田の耕作もなされていたようである。



いまの沼の浜は、葦が生い茂る沼地になっている。

素朴な地名をそのまま再現したようなこの風景が、有史以前の沼の浜本来の風景だろう。
谷戸に沿って上流へ伸びる林道の名は「沼の浜新田線」といい、ここに新田開発があったことを物語る。
数十年に一度のペースで繰り返し押し寄せてきた三陸地方の大津波は、
この沼の浜の芦原にも、幾度となく滅亡と、再開発をもたらしてきたはずだ。

果たして、再び開発される日は来るのだろうか。



行く手に2本の道が見えてきた。

事前情報では、左の道が、右の道を迂回するための新道へ通じている。

いよいよ、地図から抹消された廃道区間へ差し掛かろうとしているわけだが、

その門戸のような位置にある2本目の隧道は、全く来るものを拒む様子がなくて…

拍子抜けだった。


……震災から9年も経つが、未だに行政には通行止めを案内する程度の“余力”も、ないというのか……?

それともまさか、私が仕入れた情報に誤りがあり、通行止め区間はもっと先?!

そんな疑いさえ私は持ったが……。




15:48 《現在地》

トンネル前の 橋が無い!



橋が



無い



無造作すぎて、

ぐうの音も出ない!



――廃道、スタート。