生鼻崎を巡る自転車道は、もう二度と復旧されることはないだろう。
彼の地から見られる水平線と松原海岸の景色は、いずれオブローダーの手にさえ届かなくなる日が来るかも知れない。
だが、消えていく海岸道路の旁らで、1本から2本になったトンネルが頑張っている。
生鼻崎トンネルである。
もはや秋田〜男鹿間の幹線道路として不動の地位を手にした、片側2車線の国道だ。
先日、県立図書館で秋田魁新報のバックナンバーを閲覧中、この生鼻崎トンネルと海岸道路誕生の経緯を知る事が出来たので、おそらく地元の人も忘れつつあるだろうエピソードを紹介したい。
私が拾った関係記事は全4本ある。最も新しいのが昭和54年4月、古いのが昭和42年10月で、生鼻崎トンネルは概ねこの期間内に誕生史を持っていた。
秋田魁新報 昭和54年4月22日号 の記事
“男鹿市の生鼻崎バイパス 完成は間近、だが開通はいつ? 接続バイパスいまだに着工できず”
生鼻崎トンネルは、現場にある工事銘板に昭和53年竣工とあるが、実際に供用されたのは翌年以降であったらしい。
記事によれば…「生鼻崎バイパスは、県船川港湾事務所が船川港湾事業の一環として建設したもので(中略)海岸線を走りながら脇本漁港へ抜ける道路。全長二千六百五十メートルで、全線に幅3メートルのサイクリング道路が付設されている。(中略)五十年に着工し、既にトンネルなど主要工事は全部完成している。(中略)
」とあって、脇本〜羽立間の生鼻崎バイパスは当初道路法による県道ではなく、港湾法による臨港道路として県が整備していたことが判明した。道理で、開通後明らかに国道より交通量があるのに、なかなか国道昇格しなかったわけだ。道路の制度面の楽しみ方は、ヨッキれん著『大研究 日本の道路120万キロ』を見てね!
そしてこの記事の主題は、既に生鼻崎トンネルが完成しているにも拘わらず、これに接続すべく県の秋田土木事務所が施工していた「脇本バイパス」が、用地買収の遅れなどから未だ開通の目処が立たず、折角の新道が無用の長物となって放置されているという内容だ。今ならば私が「未成道ウマウマ」って言いながら飛びついただろうネタだ。
…まあ、こんな事があったけど、数年以内には問題も解決して供用されたのだろう。その記事は確認していないが…。
秋田魁新報 昭和52年10月6日号 の記事
“茶臼峠の難所解消 生鼻崎バイパス53年度に完成 脇本 自転車道路も併設”
続いては、臨港道路「生鼻崎バイパス」が盛んに建設されている最中の記事である。
記事によれば…「生鼻崎バイパス工事は、船川港湾事業の一つで四十九年から五ヶ年計画で始まった。(中略)全線に幅三メートルのサイクリング道路が併設される。この海岸線には一度やはり港湾道路が通されたが日本海の荒波で削り取られいたる所で陥没。…
」
!!
「…今回のバイパスはこの旧道を利用しながら難所では四百メートルにわたってトンネルを掘るなど、海岸道路として面目を一新する計画。
」
なんか暑く(熱く)なってきたと思わない?
ただの自転車道じゃなかった臭いぞこれ。かつて一度建設されたが日本海の荒波で削り取られたという港湾道路が、生鼻崎トンネルを迂回する自転車道の原点っぽいぞ。
もっと古い記事が見たい! 次だ次だ!
秋田魁新報 昭和50年4月23日号 の記事
“難工事の道路建設が進む 54年までには完成 全面鋪装、自転車道も”
おそらくこれが、「生鼻崎バイパス」建設を報じる最初の記事だと思う。
記事によれば…「男鹿市船川港への入り口にあたる“難所”茶臼峠のう回路づくりが進められている。生鼻崎を通っての護岸道路を一般車も通れる正規の道路に改良しようというもので、市民にとっては長い間の念願だっただけに早期完成が望まれている。
」
“初代の港湾道路=護岸道路”らしい。さらに記事を見ていこう。
「…脇本から生鼻崎の先を通り羽立地区に抜ける護岸は十一年ほど前に完成、現在その内側に砂利道が通っている。しかし数ヵ所で堤防にキ裂ができたり陥没したりして車両の通行は不能の状態。これまで再三県では手を加えてきたが一時的な改良のため、道路と言っても名ばかりだった。
」
記事に現場の写真があるが、背景にうっすらと脇本側の陸地が見えている気がするので、これは今回探索した自転車道区間のどこかであろう。
それにしても、自転車道という余興的な道路が、最初からそのために作られたわけではなかったというのは興奮できる。
私の好みの問題だろうが、どうしても自転車道というとテンションが下がってしまう。それよりは、産業道路とか林道とか、経済活動と密接に結び付いている道の方がスキ。
生鼻崎の自転車道が最初は臨港道路や護岸道路であったというのは嬉しいなぁ。
秋田魁新報 昭和42年10月9日号 の記事
“将来は観光道路に 生鼻崎からの海岸道路”
そして最後に紹介するのが、生鼻崎“護岸道路”誕生当時のこの記事だ。少し長いが、記事全文を転載する。
当時の“風”を、感じて欲しい。
「脇本・生鼻崎の上から海岸線のながめはまだ、地元の人しか知らない。ここから西へ船川港を展望するとき、羽立までの護岸が目を引く。脇本から羽立まで約三キロの海岸線は護岸で固められ、その内側に道路がくねっている。
」
この道路は、昔は脇本から船川に至る通路となっていたが、激浪に浸食され、その後、茶臼峠が開通してからは人の往来はなくなった。
ところがさる三十八年、難工事の末に護岸が完成、近く護岸の内側に海岸道路を通す計画という。現在は、車の通れない所もあるが、波の音を聞きながら若い人たちの散策ルートになっている。
鋪装が完成したら快適なドライブウエーとなるだろうし新しい観光路線にもなる。と地元では期待をかけている。それも船川木材コンビナートの誕生を考え合わせれば遠いことではないようだ。
生鼻崎海岸の道は、近いことと平坦であることにおいて、茶臼峠越えに勝る。ただし、海蝕や土砂崩れといった自然災害への脆弱性が難点だった。
そのために人々はかつて一度この道を放棄したが、確かな土木技術を手にして戻り、昭和38年に道を取り戻した。
船川街道の難所、茶臼峠の車道開通は、資料によれば明治10年である。
この記事と重ね合わせれば、生鼻崎に人々の往来が戻るまでに86年もかかったことになる。
今ある4車線のバイパスだけは、先人に受け継がれた人類の財産として、絶対に死守しなければならない。
4車線化の完成と共に置き去りとされた生鼻崎の自転車道、そしてその元となった護岸道路の魂は、そう願っているに違いない。
……え?
悦に入る前に大切な事を忘れてるって?
建設の経緯は分かったけど、いったいいつから廃止されたのかって?
それは、まだよく分かっていないのです。
地元に詳しい数人に聞いてみたが、おそらくは平成19年に生鼻崎トンネルが4車線になったのと、それに伴いトンネル内にちゃんとした歩道が整備されたのに合わせて、それまでも頻繁に崩れていた海岸の自転車道の修繕を諦め、放置プレイに入ったんじゃないかというのが有力な説。
でも、あんなに激しく崩れ放題になっていた割に、何年何月の災害でこうなったというような決定的情報は入ってこなかった。
たぶん、自転車道じゃなかったら、もっとみんな気にして憶えていたんだろうし、報道もされたんだろうけどなぁ。
ああ、自転車道悲哀。