生鼻崎の自転車道 後編

所在地 秋田県男鹿市
探索日 2014.09.01
公開日 2014.09.06

続・思ひでのサイクリングロードは今


2014/9/1 14:33 《現在地》

生鼻崎突端を回り込むカーブの直前で、ようやく路面と再開した。

乾いた泥が路面に堆積しているが、当然のように自転車の轍は無い。
自転車道だけに、自転車の轍が無いのは寂しい。
私は今までの進路であった防波堤の天端から自転車を下ろし、この路面に着地させた。
これでお前は再び、“自転車道”だ。

気になるのは、このカーブの先だ。
残りはあと300mくらいだと思うが、カーブの向こう側がどんなふうになっているのかが凄く気になる。
このまま自転車道として、残りは全うされることを希望する…。




生鼻崎の自転車道は本当に単純な線形をしていて、直線→カーブ→直線しかない。
これはその唯一のカーブで、これを境にして見える風景は一新される。

自転車道とは言いつつも、その気になれば自動車も通れるくらいの幅があるのは、どこの自転車道も一緒か。
でも、路肩の防波堤の古び方は一様ではなく、更新されて来たことが窺える。
これは自転車道が単なる交通やレクリエーションの場としてだけでなく、国土保全の最前線としても頑張ってきたことを意味する。




同カーブの頭上にあるのが、寒風山から茶臼峠を越えて下りてきた尾根の突端、生鼻の台地だ。

この脇本にも船川にも睨みを利かせることが出来る要地には、戦国時代に山城が築かれていた記録があり、現在も山中に痕跡が残るという。
ただ、戦国時代から今日までの500年間にも相当浸食が進み、突端は数百メートルほども後退したと言われる。一説には700mとも。
現在ある護岸の防波堤は、この浸食から大地を守っている。




さて、こっから後半戦。

路肩の白線が微かに残る思ひ出の自転車道、その行く先に注目したが、やはりこちら側も全くの無事ではないようだ。

整然と連なる防波堤とは裏腹に、それによって守られねばならない大地が勝手に崩れている。
地質には疎い私だが、如何にも浸食されやすそうな白っぽい地層は、やはり崩れやすいようだ。
そうでなければ、ものの十数年目を離しただけで、ここまで壊れはしないと思う。
この部分を現在の道路がトンネルで迂回しているのも、正鵠を射た道路計画というべきか。

いつかの私もこの景色を眺めた筈なんだが、どうにもピンと来なかった。
当時の私は、この生鼻崎の自転車道なんかは「簡単すぎて」、興味を引かれなかったのかも知れない。
ここから見える男鹿の中央に聳える山々にこそ興味があった。



カーブを曲がった時点で見えていた、道を半分だけ埋める土砂崩れはブラフで、本体はその向こう側にひそんでいた。

こっち側も完全に塞がっていたのである。

それを知った時点で、いまこの足元で先細りゆく、僅か150mほど取り残された路面が、一層愛おしく思えた。
崩落と崩落に挟まれた、そこだけを見れば現役さながらの顔をした路面が大好きだ。

ちなみに、防波堤寄りの路面が波打つように凹凸しているが、これは凹んだ所に排水口があるので、路面の排水のために当初から設けられていたもののようだ。
波浪の高い日には、防波堤を乗り越えて波が入る事もあるのだろうか。




14:35 《現在地》

蛇篭(じゃかご)という、河川などで良く見られる土留めが、道に覆い被さるように崩れていた。
彼らは道を守る最前線で戦い、そして援軍無く破れた死兵である。
憐れにも死骸は葬られることもなく、そのまま荒ぶる山に飲み込まれようとしている。

そしてその悲運の定めは、道と一蓮托生のものである。

これで私は再び、防波堤の上に進路を求めざるを得なかった。





穏やかな海の向こうには、船川港の木材コンビナートが寂しげに白煙をくゆらせていた。

私が生まれる少し前、この船川港は20km以上も離れた秋田港と一体の港湾として、新産都市の計画が進められたことがある。
当時の構想によれば、生鼻崎の沖合には3km四方もあるような巨大な人工島が生み出され、そこに新たな工業都市を作ることになっていた。
もし実現していれば生鼻崎はすべて切り崩され、その土が埋め立てに使われたかも知れない。




またしても、私の道は幅50cmに。

しかしこの防波堤には本当に救われた。

これがなければ、この草むした斜面をへつり進む事を強いられたし、自転車同伴はほとんど無理だっただろう。
こんなに綺麗に防波堤だけが残ったのは、奇跡的とさえ思える。
或いは多少、人の手が入ったのかも知れないが。


ほほう。
こんな風になっていたんだっけな。

昔も通った筈なのに、地下から出てくる生鼻崎トンネル坑口の鈍重な容姿に、新鮮な喜びを憶えた。
この十数年の間に私が興味の対象を少しずつ変えてきた証しだろうか。
道が好きという根本は変わっていないが、十数年前の私がこの生鼻崎トンネル坑口の風景を記憶していないのは、今の私からは意外なことである。

そのくらい良い感じだ。 廃道ならなお良かった(爆)。



ここに道があったと言っても、初見では信じて貰えなさそう。

はっきり言って最近崩れたようにも見えないが、絶対に十数年前には労せず通れたのだ。
余談だが、あのミリンダ細田氏も10年くらい前に歩いたことがあると言っていた。
当時から所々崩れていたような気がするとのことだが、はっきり憶えていないそうだ。

崩れるまでは全然印象が薄かったとか、そんなの可哀想だから…。
こんなに綺麗な道なのにね。
つうか、崩れてもっと綺麗になった。

…ハッ! それって単に、道が無い方が綺麗な景色っていうことか。
やばい。 この事からは以後目を背けようと思う。
道は正義だから。



現在進行形で崩れ続けている、路上の斜面。

開通以来ずっと崩れ続けているのだろうが、堆積した崩土の山である崖錐が落石防止フェンスを越えて路上まで流れ込むようになったのが数年前なのだろう。
昔はあったと思われるフェンスがまるで見あたらないし、もう一度道を復旧させるには相当大規模な工事が必要なんだろう。
治山効果が高いのはこの崖をガチガチにコンクリで固めてしまうことだろうが、それは避けたんだろうな。

昔から(私を含む)地元民には有名な話しだけど、地学の世界ではこの露頭が結構貴重なものだってんで、地学の教科書にも写真が掲載されたことがあるとか。
また、男鹿半島はこの露頭を含めて国が指定したジオパークにもなっていたはず。
それで自転車道ごとき低利用度の道を守る為に露頭を埋めたり壊したりするのは避けたんじゃないかと私は思っている。裏は取ってない。



道が復活しないまま、終わりの時だけが近付いてきた。

厳密には、道の一部が見えているのだが…。

お分かりだろうか。
遊歩道にありがちな擬木のガードフェンスが、半ば土砂に埋もれるようにして見えているのが。

しかし、勘違いしてはいけない。
私も最初勘違いしたが、道は私がいる側ではなく、擬木フェンスの向こう側なのだ。
つまり、路面は完全に埋没してしる。




14:42 《現在地》

優先順位は、生鼻崎トンネル > 露頭 > 自転車道 …なんだろうなぁ。

生鼻崎トンネルの西側坑口の構造物は、土砂が崩れてきても大丈夫な守りを固めている印象だ。
現に相当の土砂を被っていて、坑口の上を乗り越えた土砂が自転車道を埋めるまでになっているが、お構いなし。
まあ、道路管理者は相当気にしているんだろうけどね。ちょくちょくこのトンネルでは点検か何か知らないが、通行止めや片側交互通行が行われているし。

もともと坑口部分には明かり取りの横窓もあったっぽいが、これも補強や土砂流入防止の観点なのか、物々しく埋め殺されていた。
全般に、“戦う道路”っていう感じが出ていて好きだ。生鼻崎にこんな死闘が繰り広げられていたとは、地元民なのに知らなかったぜ。




そして、完抜! オメデトー

何時からあるのか知らないが、私はこれが出来る前の景色を知らない、生鼻崎の“波避け”が、快く出迎えてくれた。
この先の自転車道は、歩道と一体化していて、特に何事も無く終点の船川港へと通じている。
延々続く“波除け”の窓が、新幹線か飛行機みたいで格好いいなって昔から思ってる。うん懐かしい。



ちなみに、脇本側もそうだったが、こっちも特に「通行止」の表示は無い。
「見れば分かるでしょ。通れないよ。道無いもん。」ってことか。これは重症だ。

まあ、確かにこれを見て入る人は少ないだろう。

つうか、行政的には既に道の存在を認めていない可能性が大。そうなると正真正銘の廃道だな。




よくやった、12年前の俺!!

前編で紹介したこの写真に続いて、午前5時20分に生鼻崎トンネルを出た所で、この日は通らなかった自転車道をわざわざ振り返って、パチリとやっていた。

これが私の14年分の全撮影データの中にある唯一の、現役当時のこの道の写真である。
逆光と薄暗さのためにだいぶメイド明度を補正したので酷い写真だが、それでも――




現状の写真(→)と比較すれば、

かつてあった道が消えたことは明白である!(力説)




最後に少し離れた場所から振り返った生鼻崎を見てもらおう。

生鼻崎と言えばこの眺めだと記憶している人も多いと思う。

陸を鋭利なナイフで切り落としたような白い崖と、その断面に見えるバウムクーヘンみたな地層。

こんないかにもワルそうな所に道を通したのは、英断だったな。




生鼻崎を巡る自転車道は、もう二度と復旧されることはないだろう。
彼の地から見られる水平線と松原海岸の景色は、いずれオブローダーの手にさえ届かなくなる日が来るかも知れない。
だが、消えていく海岸道路の旁らで、1本から2本になったトンネルが頑張っている。
生鼻崎トンネルである。
もはや秋田〜男鹿間の幹線道路として不動の地位を手にした、片側2車線の国道だ。

先日、県立図書館で秋田魁新報のバックナンバーを閲覧中、この生鼻崎トンネルと海岸道路誕生の経緯を知る事が出来たので、おそらく地元の人も忘れつつあるだろうエピソードを紹介したい。
私が拾った関係記事は全4本ある。最も新しいのが昭和54年4月、古いのが昭和42年10月で、生鼻崎トンネルは概ねこの期間内に誕生史を持っていた。


秋田魁新報 昭和54年4月22日号 の記事

“男鹿市の生鼻崎バイパス 完成は間近、だが開通はいつ? 接続バイパスいまだに着工できず”

生鼻崎トンネルは、現場にある工事銘板に昭和53年竣工とあるが、実際に供用されたのは翌年以降であったらしい。

記事によれば…「生鼻崎バイパスは、県船川港湾事務所が船川港湾事業の一環として建設したもので(中略)海岸線を走りながら脇本漁港へ抜ける道路。全長二千六百五十メートルで、全線に幅3メートルのサイクリング道路が付設されている。(中略)五十年に着工し、既にトンネルなど主要工事は全部完成している。(中略)」とあって、脇本〜羽立間の生鼻崎バイパスは当初道路法による県道ではなく、港湾法による臨港道路として県が整備していたことが判明した。道理で、開通後明らかに国道より交通量があるのに、なかなか国道昇格しなかったわけだ。道路の制度面の楽しみ方は、ヨッキれん著『大研究 日本の道路120万キロ』を見てね!

そしてこの記事の主題は、既に生鼻崎トンネルが完成しているにも拘わらず、これに接続すべく県の秋田土木事務所が施工していた「脇本バイパス」が、用地買収の遅れなどから未だ開通の目処が立たず、折角の新道が無用の長物となって放置されているという内容だ。今ならば私が「未成道ウマウマ」って言いながら飛びついただろうネタだ。

…まあ、こんな事があったけど、数年以内には問題も解決して供用されたのだろう。その記事は確認していないが…。



秋田魁新報 昭和52年10月6日号 の記事

“茶臼峠の難所解消 生鼻崎バイパス53年度に完成 脇本 自転車道路も併設”

続いては、臨港道路「生鼻崎バイパス」が盛んに建設されている最中の記事である。

記事によれば…「生鼻崎バイパス工事は、船川港湾事業の一つで四十九年から五ヶ年計画で始まった。(中略)全線に幅三メートルのサイクリング道路が併設される。この海岸線には一度やはり港湾道路が通されたが日本海の荒波で削り取られいたる所で陥没。…

!! 

…今回のバイパスはこの旧道を利用しながら難所では四百メートルにわたってトンネルを掘るなど、海岸道路として面目を一新する計画。

なんか暑く(熱く)なってきたと思わない?
ただの自転車道じゃなかった臭いぞこれ。かつて一度建設されたが日本海の荒波で削り取られたという港湾道路が、生鼻崎トンネルを迂回する自転車道の原点っぽいぞ。

もっと古い記事が見たい! 次だ次だ!



秋田魁新報 昭和50年4月23日号 の記事

“難工事の道路建設が進む 54年までには完成 全面鋪装、自転車道も”

おそらくこれが、「生鼻崎バイパス」建設を報じる最初の記事だと思う。

記事によれば…「男鹿市船川港への入り口にあたる“難所”茶臼峠のう回路づくりが進められている。生鼻崎を通っての護岸道路を一般車も通れる正規の道路に改良しようというもので、市民にとっては長い間の念願だっただけに早期完成が望まれている。

“初代の港湾道路=護岸道路”らしい。さらに記事を見ていこう。

…脇本から生鼻崎の先を通り羽立地区に抜ける護岸は十一年ほど前に完成、現在その内側に砂利道が通っている。しかし数ヵ所で堤防にキ裂ができたり陥没したりして車両の通行は不能の状態。これまで再三県では手を加えてきたが一時的な改良のため、道路と言っても名ばかりだった。

記事に現場の写真があるが、背景にうっすらと脇本側の陸地が見えている気がするので、これは今回探索した自転車道区間のどこかであろう。
それにしても、自転車道という余興的な道路が、最初からそのために作られたわけではなかったというのは興奮できる。
私の好みの問題だろうが、どうしても自転車道というとテンションが下がってしまう。それよりは、産業道路とか林道とか、経済活動と密接に結び付いている道の方がスキ。
生鼻崎の自転車道が最初は臨港道路や護岸道路であったというのは嬉しいなぁ。



秋田魁新報 昭和42年10月9日号 の記事

“将来は観光道路に 生鼻崎からの海岸道路”

そして最後に紹介するのが、生鼻崎“護岸道路”誕生当時のこの記事だ。少し長いが、記事全文を転載する。
当時の“風”を、感じて欲しい。

脇本・生鼻崎の上から海岸線のながめはまだ、地元の人しか知らない。ここから西へ船川港を展望するとき、羽立までの護岸が目を引く。脇本から羽立まで約三キロの海岸線は護岸で固められ、その内側に道路がくねっている。
この道路は、昔は脇本から船川に至る通路となっていたが、激浪に浸食され、その後、茶臼峠が開通してからは人の往来はなくなった。
ところがさる三十八年、難工事の末に護岸が完成、近く護岸の内側に海岸道路を通す計画という。現在は、車の通れない所もあるが、波の音を聞きながら若い人たちの散策ルートになっている。
鋪装が完成したら快適なドライブウエーとなるだろうし新しい観光路線にもなる。と地元では期待をかけている。それも船川木材コンビナートの誕生を考え合わせれば遠いことではないようだ。

生鼻崎海岸の道は、近いことと平坦であることにおいて、茶臼峠越えに勝る。ただし、海蝕や土砂崩れといった自然災害への脆弱性が難点だった。
そのために人々はかつて一度この道を放棄したが、確かな土木技術を手にして戻り、昭和38年に道を取り戻した。
船川街道の難所、茶臼峠の車道開通は、資料によれば明治10年である。
この記事と重ね合わせれば、生鼻崎に人々の往来が戻るまでに86年もかかったことになる。
今ある4車線のバイパスだけは、先人に受け継がれた人類の財産として、絶対に死守しなければならない。
4車線化の完成と共に置き去りとされた生鼻崎の自転車道、そしてその元となった護岸道路の魂は、そう願っているに違いない。



……え?

悦に入る前に大切な事を忘れてるって?
建設の経緯は分かったけど、いったいいつから廃止されたのかって?

それは、まだよく分かっていないのです。
地元に詳しい数人に聞いてみたが、おそらくは平成19年に生鼻崎トンネルが4車線になったのと、それに伴いトンネル内にちゃんとした歩道が整備されたのに合わせて、それまでも頻繁に崩れていた海岸の自転車道の修繕を諦め、放置プレイに入ったんじゃないかというのが有力な説。
でも、あんなに激しく崩れ放題になっていた割に、何年何月の災害でこうなったというような決定的情報は入ってこなかった。
たぶん、自転車道じゃなかったら、もっとみんな気にして憶えていたんだろうし、報道もされたんだろうけどなぁ。
ああ、自転車道悲哀。