静岡県道416号静岡焼津線 大崩海岸 (旧・国道150号) 第1回

公開日 2008. 2.28
探索日 2008. 2.25

 大崩海岸。

 なんと直感的な名だろう。
誰しもがその名から容易に想像する険しい断崖絶壁は、“東海の親不知”とも呼ばれ、絶海を隔てて富士を眺める風流景勝の地であると同時に、交通の難所として日本の交通史に存在感を示し続けてきた。


 大崩海岸とよばれる約5kmの海岸線は、静岡県静岡市と焼津市の境にある。
南アルプスの南端が太平洋駿河灘に落ち込む、陸と海の鬩(せめ)ぎ合いの合戦場だ。
険しい場所ではあるが、内陸へ入ればそこには数千メートル級の山脈が連なっているため、沿岸地域は古くから東西日本を繋ぐ交通の要衝であり続けた。
日本武尊の時代から戦国、平安、そして江戸時代、明治・大正・昭和・平成まで、国の要となる大路がこの一帯を通過してきた。
徒道、そして鉄道、さらに自動車道へと形を変えながら。

 近世以降、日本最大の道であった「東海道」。
現在の国道1号は東海道をほぼ忠実になぞっており、海岸線から10kmほど内陸の宇津ノ谷峠に歴代の道を求めてきた。
 この東海道のより古い径路と考えられているのが、日本武尊が東征のおりに通過した伝説をもつという、その名も「日本坂」だ。
こちらは、海岸からわずか2kmの鞍部に、急勾配の隈路を撫でつけていた。
その険しさゆえ平安時代に東海道が宇津ノ谷越えに移ったと言われ、今もって徒歩以外で越える事の出来ない峠だが、東名高速や東海道新幹線、国道150号静岡バイパスといった戦後の新しい交通路は、本来の峠の上り下りとは全く無関係な長大トンネルを日本坂の地下に幾つも掘り抜いた。
これらを合わせた交通量は、東海道(国道1号)を大きく上回るようになっている。

 だが、最低でもトンネル長2km以上を要する日本坂にトンネルを掘る技術を持たなかった時代、大崩海岸沿いの絶壁に車道を求めた。
求めざるを得なかった。

 それが、旧国道150号である静岡県道416号「静岡焼津線」であり、鉄道の場合は東海道本線である。

 そしてこの両者には、大崩の名のもとに振り下ろされた痛烈な打撃の傷痕が、いまも補修されずに残っている。

 廃道、廃線として。





 2008年2月25日に私は念願の大崩海岸の探索を決行した。
この場所は、廃道と廃線のダブルターゲットとなっているが、探索の中心動線は旧国道である県道416号である。
よって、レポートはまず「道路レポ」から始めることとした。回を重ねるうちに途中で「廃線レポ」に切り替わる変則的構成となる予定だ。

 まずは、大崩海岸の道路の歴史を簡単にまとめてみよう。
実はこの地の道路の変遷は鉄道と無関係ではない(利用者の奪い合いのような間接的影響ではなくもっと直接的に)のだが、その部分は廃線レポとして触れることにする。

 最初、この大崩海岸に道らしい道がひらかれたのは明治18年で、志太郡静浜村(現:大井川町)の池谷政一郎という人物が中心になって3年かけて切り開いたとされる。この道を「静浜街道」と呼んだ。
 しかし、この静浜街道は海岸線を歩く道であったため、明治期に海岸線が浸蝕されたために通行が不可能となった。
改めて山腹を横断する道が必要とされたが、風化による亀裂が著しく発達した大崩の絶壁に道を拓くことは困難で、なかなか日の目を見なかった。
大正9年には旧・道路法下による県道「静岡川崎線」に指定されたが、なお現道は存在しなかったようだ。


 そして詳しい経緯は不明だが、昭和9年に「大山崩」の山腹を穿つ当目(とうめ)と小浜の二隧道が竣工している。おそらく、この時に現在の県道の焼津側区間が開通したのだろう。
さらに太平洋戦争下の昭和18年、静岡側に石部(せきべ)隧道が竣工した記録がある。
当時の地形図を見ても、おそらくこの時をもって、焼津〜静岡間の車道が開通したのだと考えられる。

 5万分の1地形図に初めて大崩海岸の車道が現れるのは、右に示した「昭和28年応急修正版(静岡)」からである。
昭和28年には現行道路法のもと、それまでの県道「静岡山崎線」が、二級国道150号「静岡浜松線」に昇格している。
これ以降の地形図を見ると、石部隧道付近に幾つもの落石覆いの記号が現れ、道が国道として改良されていった様子が伺える。
実際にこの道は、国道1号と相並ぶ東西日本の動脈として盛んに利用されたのである。

 昭和44年、日本坂峠の下に2本の日本坂トンネルが同時に現れる。東名高速道路の静岡〜岡崎間の開通による。

 同46年7月5日朝、“大崩”の名が遂に咆吼する。
6000m3もの膨大な岩石が、突如高さ100mから崩れ落ち、石部隧道の静岡側にあった第5洞門(全長101m)を直撃。
衝撃で42mあまりが完全に圧潰し、不幸にも通行中の車一台が埋没。運転手一名が犠牲となったのだ。
開通後、絶景のドライブコースとして世に囃された「石部海上橋」は、この尊い犠牲の上に築かれたものであった。

 昭和53年、国道や新幹線の日本坂トンネルに平行するように、国道150号「静岡バイパス」日本坂・石部の2トンネルが開通。
その後は旧道とバイパスの両方が国道として管理されていたが、平成15年に静岡バイパスの4車線化が完成したことをうけ、翌16年7月30日をもって旧道は一般県道416号「静岡焼津線」に“降格”したのである。



日本の頸動脈 

八隧相並ぶ地


 日本中探してみても、もしかしたら他にここまで交通の輻輳(ふくそう)した場所は無いかも知れない。
これまで日本坂の下に掘られたトンネルの数は、なんと6本。
少し離れる東海道本線のものも合わせれば、実に8本ものトンネルが花沢川沿いに口を開けていることになるのだ。
しかも、その内訳も錚々たるものである。

 東名高速道路の上下線合わせ7車線(トンネル3本)、国道150号の4車線(2本)、東海道新幹線(1本)、東海道本線(単線並列2本)という具合で、これはもう“日本の動脈”どころか、“日本の頸動脈”くらいの輻輳ぶりである。

 旧道・廃道の類は大好きだが、同じくらい現役の道路も好きな私は、旧国道の探索に入る前にまず、この頸動脈を押さえることにした。
もしこの地を手中に収めたなら、山行がの日本支配は決定的なものになることだろう。

 しかし、とりあえずネット上にはこの交通輻輳地を一望する視座についての情報がないようなので、等高線と睨めっこして自ら探す手間を要した。
ともかく、その視座に至った所からレポートを始めよう。




 8本の隧道が横並びに並んでいる光景を一望のもととするため私が目を付けたのは、花沢城跡という中世の城跡からほど近い場所だった。
 このあたりでは、南向き斜面一帯に茶畑もしくはミカン畑が広がっており、作業道路らしい小径が縦横に通っている。
ほとんど部外者が入り込む意味もないような、行き止まりやループの道が多いのだが、私が目を付けた小高い丘にも、そのような道の一つが続いていた。




 目指す丘の上は、奇麗に整えられた茶畑となっていた。
茶の収穫時期からはずれており、辺りに人影はない。
ミカンの収穫も終わったようだ。

 細い畝の間をすり抜けててっぺんに立つと、半分期待したとおりの風景が現れた。
半分と言ったのは、残念ながら坑口は一つも見えなかったためだが、それでも8本の隧道の主である道路や鉄道の全てを確認する好眺望を得たのである。

 最近、私のデジカメはいい加減寿命が来たのか、ズームがほとんど利かなくなってしまったのが残念だが、取りあえず日本有数の交通輻輳地の様子を捉えた。




 まさに圧巻である。

幅300mほどの谷間に、道が、鉄道が、行儀良く並んでいる。
しかも、どの道も幅が広く、そして交通量が多い。
一番手前は、おそらくこの中で一日の通行量が最も多い東名高速道路。
そこから少しの畑地を挟んで国道150号、見える車の数は一番多い。
並んで築堤上の複線レールは新幹線だ。
田舎者の私には新幹線は1時間に1本というイメージがあるのだが、ここでは全然それが当てはまらない。
一本行ったと思えばまた数分後には、シュンシュンシュンシュンシュンシュンシュン。
一番奥に見えるのが、これらの道の中で圧倒的に長い歴史を誇る東海道本線だ。
しかし、このなかでは明らかに一番閑散としていた。較べる相手が悪いためにローカル線に見えるが、そんなことを言っては地元の人に怒られそうだ。天下の東海道本線だ。

 この眺めを確認後、間近にこれらの交通網を見るべく里へと下った。




キターーー!!

ミカンの自動販売機である。
そして、「型外」と書かれたパックは、10コ入って50円の値札が付いている。
「ばッ 馬鹿な! 俺の主食であるミカンが、こんなに安いなんて…。」

正直、車を横付けして全て買っていきたかったが、今日はチャリ旅である。
しかも、財布の中には100円玉しかなかった。
2パック持ち帰りの権利を得たが、リュックの中がミカンだらけになってしまっては、このあとの探索に響く…。

私は泣く泣く50円は寄附として、100円で1バックを確保して立ち去ったのだった。

来年以降、ミカンシーズンは静岡方面の探索を優先的に行うことに決まった。

ちなみに、この型外のミカンだが、味はまったく申し分がなかった。




 東名高速、国道150号、東海道新幹線。
この3つをほぼ連続するガードでくぐる市道がある。(現在地

 写真は、この連続ガードの北口(東名高速側)である。
手前と向こうでガードの断面が違う事が分かると思うが、手前4車線分は昭和44年開通当初の東名高速。
奥の欠円アーチ部分は平成10年に開通した3車線の分だ。
現在は、前者が上り車線、後者が下り車線として割り当てている。
単純な7車線分以上の長大な暗渠となっている。



 そして、欠円アーチ部分まで行くと、少し先に国道150号の4車線分のガードが見えてくる。

 さらに国道の下を潜ると新幹線の築堤に突き当たり、市道は一旦右に折れるが、そのすぐ先でまた左折して新幹線の下を潜るガードがある。
これらを繋いで走れば、断続的ではあるが、日本の頸動脈を“くくった”事となるわけだ。

 ぶっちゃけ、頭上の全ての道は自転車禁止なので、これ以上どうすることも出来ない(涙)。




 やはり高いところから見下ろそうとしたのは正解だったようで、実際にこの“くびねっこ”に入り込んでしまうと、なんだかよく分からない景色である。
一応この写真は国道150号の歩道の終点(国道150号は4車線もあるくせに自転車と歩行者を禁止している。だから、いまや国道150号の全線を自転車で乗りつぶす事は出来ないのだ。余談)から、日本坂トンネル方向を撮影しているのだが、見えるトンネルは三本だけである。

 このあと私は、適当に道を選んで旧国道である県道416号へと向かった。



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 生き続ける古橋 当目橋



2008/2/25 10:54

 実は県道416号というのは、その全線が国道150号の旧道だという、いわゆる“お古”路線なのだが、その南半分は焼津市街地の幹線道路になっている。
今回は時間的な制約もあり、新旧道の分岐地点からというセオリーを曲げて、大崩海岸の南口にあたる焼津市浜当目(はまとうめ)地区の県道416号上から探索を始めることにした。

 ここに、如何にも歴戦をくぐり抜けてきた老兵の風格を有する、一本のコンクリート橋が架かっている。
旧仮名遣いの親柱には「た宇めはし」とある。




 この橋には、奇妙な点がある。

その一つが、親柱にある河川名「花澤川」と、新しい河川名看板の表記「石脇川」とが異なることだ。
川の名前が途中で変わったということなのか。
珍しいケースだ。

 しかも、この橋の不思議はまだある。


 親柱の橋名表示は「當(当)目橋」だが、新しい標識には「当目小橋」とあるのだ。

わざわざ“小”を加えた真意は不明だが、ともかくこの親柱の年季の入った表記が軽んじられている現状はよく分かるのである。


 もっとも、橋は廃止されてしまえば名前を変える事はない。
忘れ去られるのみである。
それを考えれば、こうして存続していることだけで、この古橋の“勝利”なのかも知れない。
残りの銘板には、「昭和三年十月竣工」という文字が、誇らしげに刻まれていた。




 現在、この橋は二車線の車道を乗せるだけでギリギリで、外側に歩道用の小橋を併設している。
もはや、本来の橋の上を歩行者が敢えて通ることはない。
県道に降格したとはいえ、それでも結構な交通量があるのだ。

 しかし、この橋には昭和3年頃の長閑な交通事情を今に伝えるものがひとつ、残されていた。
4本の親柱に加えて、橋の中央部の欄干にも、両側に一本ずつの柱が存在し、この柱の道路側に面して、文字が刻まれていたのだ。

 橋の両側は交差点で、信号がある。
私は、この両方の信号が赤になる僅かな隙を見計らって、低い位置に刻まれた薄い文字を解読しようとした。
それは容易ではなかったが、表面には縦書きで二行分の文字があること、そしてそのうちの一行が「至静岡市」であることを解読した。もう一行には漢数字が見えるような気がしたが、こちらは読み取れなかった。

 これが、高速で通り過ぎる車を相手にした文字ではないことは明らか。
橋が架けられた当時には、まだこの先の大崩海岸に車道は開通しておらず、引き潮時に古い静浜街道が辛うじて通れた程度だったに違いない。
この道の主役は、歩行者だったのだろう。




 地理的・精神的境界の存在 当目隧道


11:00  

 当目橋を渡ると、間もなく上り坂が始まる。
傍らに真新しい「416」のヘキサ。
行く手には虚空蔵山という釣り鐘形をした緑深い山と、その隣に背比べのように立ち並ぶ白いホテル群が目立つ。
この個性的な風景の向こう側は、もう太平洋だ。




 まだ生まれてからたった4年目の県道416号。
ヘキサの真新しさは、この道の中でひときわ浮いた存在である。
轍の形に大きく凹んだアスファルト、色褪せたセンターラインや傷の目立つガードレール。日焼けしてねずみ色に変化した法面の吹き付け。
そのどれもが、この道の決して短くない歴史を表現している。
そして何より、広大な焼津の町並みを背負うようにして登っていく風景自体、真新しい道では決して醸し出すことの出来ないムードを持っている。

 いままで、いろいろな峠の口を見てきたが… ここは、かなり心ひかれるものがあった。



 数百メートルほど進むと周りから民家が消えて、郊外の峠道らしい明るい雰囲気。
行く手の山の拍子抜けするほどの低さとか、海を連想させる空の青さとか、この峠道を鬱々とさせないファクターは沢山ある。

だが、一方でこの先の道が決して安穏としたものではないことを、ひしゃげた規制予告標識が物語る。



11:08 

 容易く峠… 隧道に辿り着く。

掘り割りの先に口を開けるのは、本当に2車線を飲み込めるのかと不安を感じさせるほど小さな坑口。
だが、普通車同士は普通に出入りしているので、問題ないのだろう。
遠くから見ても存在感のある古風な坑口の意匠や、道の左右にそれぞれ立つ交通規制予告の掲示板と、重厚な封鎖ゲート。

そういった様々な要素が相俟って、いまから通ろうとする者の内なる時間を重くさせるのだ。



 昭和9年に竣工した当目隧道である。
記録によれば、全長144m、路幅5.7m、高さ4.6m。
全面コンクリートによる隧道だが、坑門は極力石造を意識させるような意匠となっており、笠石および帯石については石造と見紛うほどに重厚だ。
また、掘り割りの中という狭い空間に作られた坑門でありながら壁柱を備えており、表面の文様は椿花をイメージさせる凝ったデザインとなっている。
風化や大車輌の衝突によるものか、アーチの意匠がことごとく破壊されているのが、画竜点睛を欠くようで残念である。、

 なお、この隧道から先は静岡市用宗(もちむね)まで、路線バス以外の大型車通行止め(これは国道時代から)である。
また、連続雨量100mmでの通行規制も課せられている。




 銘板も風化が著しく、せっかくの達筆な「當目隧道」の文字も細部が潰れている。
また、道の字の左の余白部分には、小さな文字で「廣太郎書」と刻まれている。
調べてみたところ、昭和9年の静岡県知事は田中廣太郎である。おそらく彼の揮毫によるものだろう。



 隧道内部は歩道もなく、2車線ギリギリの幅である。
また静岡側出口付近には、なぜか15mほど、巻立ての異なる箇所がある。
そこだけコンクリートの吹き付けとなっており、地肌の凹凸が分かるようになっているのだ。
また、前後のコンクリート巻きの区間とは、30cm以上の段差がある(もちろん、路面は平坦だが)。


 最後は、外の左カーブに擦り合わせるように坑口をやや左に振って外へ。







もの凄い景色の変貌だ!

街並みを背にして軽く登り、ホテル群の下にある小さなトンネルを一本くぐっただけなのに、

ゾクッ …ここまで変わるとは……。





次回早速、“東海の親不知”が牙を剥く?!