2008/2/25 13:42
非常に良く原形を留める「石部洞門」の西口。
記録によると、先ほどの「2号」と同じ昭和18年の建造で、石部隧道を含めたこの3つの構造物が、開通当初からのものと言うことになる。
坑門にはギリシアやローマの建築を彷彿とさせる手の込んだ意匠が施されており、石造で日本風な印象の石部隧道(の残された)坑口とは大きくイメージが異なっている。
特に、大きな白御影石を贅沢に用いた扁額は、コンクリートへの直彫りだった2号洞門との最大の相違点で、優雅ささえ感じさせる。周囲に赤いペイントの痕跡があり、これが純粋な装飾であったとしたら、同時期の意匠としては類例のないものではないだろうか。
全長104mの石部洞門。
現在ではこの程度の規模の洞門は少しも珍しくないが、戦前としては非常に規模の大きなものである。
洞門と隧道とでは、道路上を覆う構造物という点は共通するが、その性格は全く異なる。
隧道はそれがなければ道が成立しえないという、つまり道自体と等価なものであるが、洞門とは落石や雪崩から道を守るのが目的であるから、災害の発生を無視すれば無用のものである。
戦前に使用されていた道路の構造に関するルールにも橋や隧道に関する基準はあったが、洞門は単に建築限界(断面の大きさ)に規定があるのみで、さほど重要視されていなかったことが窺える。ガードレールや雪崩防止柵と同列に語られる、一道路付属物に過ぎない。
今日のように道路の保安対策に細かなルールが無く、言葉は悪いが「道は通れればそれでよい」とされていた時代に、洞門があった。
それも、後付されることが多い洞門が、開通当初から存在していた。
これはとりもなおさず、この場所の崩壊の危険性が高く評価されていたことを意味している。
瀟洒な意匠が施された坑門とは異なり、内部は機能一辺倒の無口なコンクリート構造物だ。
いかにも重く強そうな柱と梁によって外界から切り取られた空間に、冷たい海風が常時吹き抜けている。
多少“不慣れ”な感じを滲ませてはいるが、“軽やかに海を走る”という表現をしても良かろう現道との対感は、とても大きい。
重と軽、静と動のそれといっても良い。
右の写真は、まともな欄干が無く、路面からほとんどそのまま落ち込んでいる路肩から、海岸を見下ろした様子。
多数の柱が転落防止の役割を代用するのだろうが、人や自転車ならば転落は造作もない。
足元の路肩は、そのまま反りの付いた護岸壁となっている。
高潮や大風ともなれば、直接この壁に波が砕ける姿も想像できる。
そんなとき、この道を通行する者はどんな景色を目にしたのだろう。…想像するだけで興奮する。
海上橋の存在で海岸に打ち寄せる波が穏やかになった現在では二度と見られない、相当の修羅場があったに違いない。
これは、海上橋から見る石部洞門。
上り車線助手席側からだと、ガードレールの向こうにこの景色を鮮明に見ることが出来る。
逆に、運転手はちょっと見えないかも知れない。
洞門の上には、既に相当量の土砂が堆積し、そこに木々が育ち地山の一部のようになっているのが分かる。
この道の歴史を何も知らない人が見ても、異様さだけは十二分に伝わると思われる、そんな眺めだ。
それはまるで、陸と海の合戦場に陸の陣営が築いた、防塁のようである。もう役目を終えた…。
再び内部状況。
天井上に相当量の堆積を見るこの洞門だが、その重さによるものか、或いは繰り返された衝撃が引き起こしたのか、それとも洞門自体の自重がそうさせるのか。
極めて頑丈そうな洞門の柱が、なんと拉(ひしゃ)げていた。
この写真でも、手前に写る柱の数本が、明らかに海側に向かって傾斜しているのが分かるだろう。
ちなみに、路面の状況にも今日的な道路とは違いが見られる。
アスファルト舗装ではなく、コンクリートの板版による舗装である。
センターラインは描かれておらず、写真に写っている道路中央付近のラインは、ゴムの細いチューブだ。もちろん、現役当時にはなかったものだろう。
出口に近づくほど、柱の傷みは酷くなるばかりだった。
最後の数本など、もはやいつ崩れ落ちても不思議はないと思われるほど、痩せ細っている。
内部に埋め込まれていた沢山の鉄筋が完全に露出しており、しかもその一部は柱から外れて遊んでいる。
そう遠くない将来には、天井を支えきれなくなるに違いない。
壁よりも海に近い柱側が酷く痛んでいるのは、建設当初にはまだ余り研究されていなかった“鉄筋コンクリートの塩害”によると思われるが、なかでも東口に近づくほど崩れが進行していることは、崩壊のメカニズムがそれだけでないことを示している。
人死にのあった災害現場が、目前に近づく。
東口から先、再び明かり区間。
本来の路面は、崩壊土砂の岩斜面に埋まっており、全く所在が分からない。
いや、「見えない」と言った方が正しいか。
所在は明らかすぎるのだから。
坑内から行く手を見るには、この写真のように仰ぐより無い。
そこには、視界の半分を遮る灰色がかった大崖。
これまで、洞門によってその存在をやや遠くしていた、本来のこの道の隣人。
海上橋から見た、現在地付近の拡大写真。
石部洞門にしてみれば、これは“仕事をし損ねた”と言うべきなのか。
未曾有の土砂災害によって埋もれてしまったのは、この洞門が途切れたその場所から先だった。
それでも、かなりの量の土砂が洞門上と内部に雪崩れ込んだ様子が見て取れる。
だが、この現道から見る光景には、欠けているものがある。
前回の記述を思い出して欲しい。
昭和46年7月5日朝、山腹斜面に大崩壊が発生し、第5洞門101mの一部42.5mを圧潰、29.8mがひずみ、通行中の乗用車1台が埋没し1人の尊い犠牲者を出した。第5洞門付近は、3つの洞門が隙間無く連続するフルカバードな道だった。
欠けているものとは、石部洞門(1号洞門)と連続していた筈の、第5洞門の姿である。
石部5洞門は、どこへ行った?
これが、隣人が突然剥き出しにした牙の破壊力である…。
今回、「静岡県土木史」という正規の資料にあたらなければ、きっと見過ごしていただろう事実。
現状を見る限りでは、洞門がちょうど途絶えた場所を土砂崩れが襲ったように見えるが、事実は違っていたのだ。
この場所にも、ちゃんと道の護りは存在していた。
6000立方メートルという膨大な量の土砂は、鋼鉄の壁を押し切る超常的な破壊力を伴って、洞門ごと道と通行人を叩きつぶしたのだ。
現在、路盤はおおよそ幅70mにわたって完全に土砂に埋もれている。
その先に、30mほど残った5号洞門の残骸がある。
この埋没区間については、当然、危険な踏査となる。
滑落の場合、垂直になった護岸壁から転落する大怪我を免れないし、何よりも落石に遭遇すれば最悪の結末もあり得る。
そもそも、無理をしてまでここを突破しなくても、両側の現道から行き止まりまで詰めることは出来るし、完全に埋もれてしまった道に、新発見の遺構があるとも思われない。
いわば、この崩落区間の踏査は、意地に過ぎない。
意地を張って命を捨てるのは馬鹿げていると思われるだろうが、オブローダーにとっての“完全踏査”とは、路盤が埋没している場合、その上部地表面をなぞることで達成されるものであり、可能な限り達成したいと考えるのは自然なことなのだ。
無論、最低限の安全対策(ヘルメット)は装着済。
意を固めて斜面に取り付いた最序盤、早速に私を傷付けたのは…恐ろしい落石ではなく、斜面全てを埋め尽くすイバラの棘だった。
棘の茂みを乗り越えてやや高いところへ。
写真は1号洞門を振り返って撮影。
意外にも、坑口はほとんど無傷だった。
いよいよ現れた、崩崖の核心部分。
未だにほとんど植物も育っておらず荒涼とした光景だが、斜面の角度は見事に安息角45°となっている。
よって、瓦礫の斜面自体はさほど歩きにくいこともないし、滑落の危険に怯えることもなかった。
あとは、頭上の心配だけだが、まあ、こればかりは運である。さっさと通り抜けるだけだ。
「静岡県土木史」に掲載されていた崩壊直後の写真と現状とを比較することで、“どのような事後処理”が行われたのかがある程度予想できる。
崩壊直後の写真には、5号洞門のうち圧潰した42mを除く全てが(当然のことながら)写っている。
埋もれた車の救出作業などがこの後で当然行われたはずで、それとの関連性は分からないが、現在では5号洞門の内残っているのは被災を免れた東側の僅かな部分のみである。
“直後”には拉げた姿で残っている5号洞門の1号洞門と接する部分や、圧潰部の東に接する部分は撤去されている。
現状では、この撤去部分の路盤も完全に土砂に埋もれているのだが、それは後からの崩壊によるものなのだろう。
「埋没した犠牲者が発掘できず今でも埋もれている」などという話さえある。
これはおそらく、あまりの崩壊の凄まじさから出てきた噂に過ぎないだろうが、ただ、“直後“から今日に至るまで、圧潰部の土砂に除去されたような痕跡が…写真の上からでは認められないというのも、正直な感想である。
…これ以上確信もなく語るべき話題でもないと思うので、いずれ正確な情報を得られるまでこの話は置いておこう…。
南アルプスの3000m級の山頂の岩肌と、この海に面した絶壁とが、地質的には近いものであるらしい。
こうして見ると、確かにそんな峻嶺の山肌に似ていないこともない。
だが、それらと決定的に異なっているのは、潮騒を背後にしていると言うことと、ずっと上の方にまでコンクリートの吹き付けが続いていることだ。
道路が海上へ逃げたことで、いまではこの吹き付けに意味はない。
何十年も更新されず、風化して剥がれかけている現状からも、それがよく分かる。
だが、無意味となった過去の吹き付け工にも、先人に対する敬意を表さずにいられない。
いったい、どれだけの足場が築かれたのか、どんなに危険な現場だったろうか。
この道を一撃で無意味なものとした崩落の傷跡。崩落痕は、いま吹きつけのない斜面として鮮明に残っている。
現在地は、道を埋めた土砂の山の、もっとも盛り上がった部分。
海側の路肩でも数メートル。山側では10mくらいの厚みで堆積していると思う。
辺りに、道の存在を伝えるようなものは何もない。
圧潰した洞門の部材ががどうなっているのかも、不明である。(掘り出されていると私は思うが)
写真は、そんな場所から海上橋を見晴らす。
彼我の距離は、計算によって求められた約60mである。
これだけ離してやっと、断崖の崩壊というリスクから完全に解放されると考えたわけだ。