道路レポート 町道 半場神妻線 前編

公開日 2015.03.14
探索日 2013.03.15
所在地 静岡県浜松市天竜区



平成25(2013)年3月15日撮影の原田橋。平成27年1月31日に写真左の法面が大崩落し、主塔ごと橋を天竜川へと沈めた。原田橋は昭和31(1956)年に完成した古典的な自動車用吊橋で、事故当時も老朽化を理由に8t車以上通行禁止、片側交互通行などの制限が行われていた。また隣接地では新橋の建設が進められていたが、新橋も被災し、工事再開の見通しは立っていないという。

【周辺図(マピオン)】

今年(平成27(2015)年)1月31日、浜松市天竜区佐久間町にある国道473号の原田橋が土砂崩れのために突如落橋し、検査のため橋上にいた浜松市の職員2人が橋ごと川に転落して死亡するという大きな事故が起きた。

この事故によって国道473号の佐久間町中部と川合の間は全面通行止めになり、レポートを書いている3月13日現在でも本復旧に至っていない。
報道されているところによれば、事故から12日後の2月12日に仮設道路が開通して以来、普通車の通行は可能となっているようだが、未だに歩行者や二輪車および大型車は通行出来ず、例えば大型車が同区間を行き来するためには75km、2時間半もの大迂回を強いられるという。しかも本格的な復旧の見通しは未だ立っていないらしく、数年を要するのではないかと思う。


この不幸なニュースに触れたとき、私は2年前に探索した、とある小さな廃道のことを、真っ先に思い出していた。
あの道が今ももし“生きて”いたならば、大型車とまではさすがにいかないものの、歩行者や2輪車は便利に活用できていただろうなと思った。
或いは今頃、町にはこの道の復活を現実に考えている人がいるかも知れない。

その道の名を、「町道 半場神妻線」という。


町道半場神妻線は、現在の地形図(地理院地図)では破線で描かれているに過ぎないが、その位置は原田橋の迂回路として、これ以上を望めないほどに適しているように見える。
報道では迂回路として現在、天竜川南岸の遙か山上を経由する佐久間林道に白羽の矢が立っているようだが、どう考えても歩行者や自転車には優しくないルートであろう。

原田橋のある国道が、天竜川の北岸(左岸)から同川を渡って支流大千瀬川沿いの川合へ向かうのに対し、町道半場神妻線は天竜川の南岸(右岸)から神妻沢を渡って直線的に川合へ入っており、距離的にも国道より500mくらい短い。しかも地図を見る限りは、アップダウンもあまりない。
このルートは昭和9年に開業した三信鉄道(現:JR飯田線)も利用していることから、昔から原田橋に対する有力な比較ルートであったのかも知れない。

ところで、私がこの道の存在に気付いたのは、県道大嵐佐久間線の事前調査のために、昭和35(1960)年発行の地形図を入手したときだった。




左図が昭和35年発行の地形図だが、ここにはっきりと二重の線(図式によると「小型自動車道(1.6m以上)」)で、町道半場神妻線が描かれている。
しかも、途中に短い隧道が1本、描かれていたのである!!

これでもう文句なく探索候補のリスト入りを果たしたのであった。しかし実際の探索が大嵐佐久間線から4年も遅れてしまったのには、深い理由は無い。そして探索後もしばらくレポートを書かず寝かしていたことにも、やはり大した理由は思い当たらない。そんな中で原田橋の不幸な事故をきっかけに紹介するというのも、なんか道に悪い気がするが、前向きに“廃道復活のチャンス”と捉えて書き進めたい。
(この図だと原田橋が並んで2本描かれているが、昭和31(1956)年に架け替えられる以前の旧橋が残っていたのだろう)




中部天竜駅から自転車で出発


2013/3/15 6:06 《現在地》

ここはJR飯田線の中部天竜(ちゅうぶてんりゅう)駅前。
旧佐久間町中心部の最寄駅で、飯田線の静岡県内にある駅では唯一の有人駅であるらしいが、早朝のこの時間はまだ無人である。
駅の近くでクルマから自転車を下ろした私は、本日の最初の探索の舞台に、おおよそ4年越しの課題となっていた「町道」へのアプローチを速やかに開始する。

駅前から南へ向かう1車線の道へ入る。
現在は道になっているこの部分も、以前は貨物用の側線があったのだろうか。
アスファルトの道路に面している左側の木造家屋がある場所などは、明らかに貨物ホームのようである。




6:08 《現在地》

行き交う人影もまばらな線路沿いの道を250mほど進むと、道が二手に分かれた。

地形図では、右の道が「町道」に繋がっているように描かれているので、迷わず右を選ぶ。
右を指して「この先50M 車両は通り抜けできません」の注意書きあり。
しかし、この表示が指し示していたのは、「町道」のことではなかった。



右の道を選ぶとすぐに大きな吊り橋に突き当たった。しかし一本道で、地形図にあるような「町道」への分岐は見あたらない。或いは、分岐が見えなくなるほどに廃道化が進んでしまっているのか? 
地形図で道が破線で描かれている距離は2kmほどだが、もしそれほどに荒れているとなると、自転車で来たことは失敗だな…。さて、どうしよう…。

少し考えた末、とりあえず目の前にぶらさげられた餌に食いつくことにした。
この人道用としては相当立派で、文化財レベルの長い歴史を有する吊り橋の名前は、中部橋と書いて「なかっぺはし」と読む。銘板に刻まれた竣工時期は昭和12年3月であり、資料によると全長150mの鉄補剛トラス吊り橋であるという。

以前の何かのレポートでも書いた気がするが、中部天竜という駅名の「中部」も最初は「なかっぺ」と読ませていたが、昭和17年に「ちゅうぶ」という読みに変更している。また地名としての佐久間町中部の読みも、現在は「なかべ」と呼ばれている。したがって、「なかっぺ」は“死語”と化しているのであるが、橋までは改称されなかったようで、銘板も堂々としていた。



中部橋の壮健な勇姿を、天竜川左岸の中部地区から見る。
対岸が(直前まで私が居た)右岸の半場地区である。

中部天竜駅が置かれている半場の地名も「橋場」から来ているといわれ、
天竜川を挟んで対峙する中部と橋場が古くから佐久間の中心地として、
肩を取り合いながら栄えてきた歴史を、この橋は背負っている。
しかしまた、人道橋だけで現代を生ききることは難しい。



佐久間ダム建設に伴う鉄道の側線として昭和29(1954)年に開通したランガー桁橋は、
工事終結後に車道へ改築されて「中部大橋」となった。その壮麗な姿が500mほど下流に見えた。

地元ではそのシルエットから“B型鉄橋”と愛称されているらしいが、橋名を記す銘板を持たない
「中部大橋」の正式な読み方も、橋梁史年表によると、「なかっぺおおはし」であるようだ。



つい、天竜川を舞台にした古橋達の競演に意識を持っていかれてしまったが、本題はこっちだった。「町道」探しの続きをしなければならない。

直前の分岐地点に戻って、先ほど選ばなかった左の道の先を見てみると、なんか良い感じに私が行きたい方向へ伸びている。踏切で飯田線を渡った先で、川縁に進んでいくように見える。

果たして、地形図の表記は誤りであった。
実際には、右図のように道が繋がっていた。安易に藪へ突撃しないで済んで、助かった。




町道半場神妻線の前半戦


6:14 《現在地》

宮下踏切を渡って道なりに坂道を上ると、短い橋の先で飯田線のトンネルの坑門の上を越えていく。

この地点から道は早速にして未舗装の砂利道となるようだが、それだけではなく、今回の探索にとって非常に重要な内容を含む看板がここに設置されていた。

これにはかなり、「グッ」と来た。
オブローダーとして、この道に目を付けたことが誤りでなかったと確信した瞬間であった!




見よ!この愛すべき看板たちを!→→

2枚の看板は同時に設置されたのではない気がする。

より汚れていて古ぼけて見える看板には、
この道は 行き止り 佐久間町
と、突っぱねるように、“嘘”が書かれてあった。
「行き止り」ではあり得ないはずだ。歴史的に考えても、過去には確実に通じていたはず。単純な「行き止り」で利用者の興味を欺こうとするのは、道路管理者の方便だ。

その一方で、幾らか綺麗に見える看板には、
町道 半場神妻線、この先 一.三〇〇m地点 大月トンネルは
全面通行止 (通り抜けできません)  佐久間町

という風に、だいぶ利用者に寄り添う形で、親切な案内をしている。

こちらは同じ佐久間町の設置でありながら、非常に優秀だ。なにせ、ここに来るまで全く素性が分からなかった“探索対象の道”が、町道半場神妻線という名前であることも、隧道の名前が大月トンネルということも、全てこの1枚の看板が教えてくれたことなのだ。 とても優秀。 そして、ありがたい!



佐久間町の親切に敬意を表し、この道が「行き止り」でないことをちゃんと証明したいと思う。

スタートは、通行量がいかにも少なさそうな砂利の浮いた道であったが、幅は車道たるに十分で、1300m先にあることを町が自ら告白した「大月トンネル」がどんなものなのか、大いに期待が膨らむのであった。

なお、この地点から右を見ると―




―飯田線の中部天竜駅構内が一望された。

撮り鉄の皆さまならばこんな場所はとっくに既に把握していそうだが、佐久間ダム建設に伴う長大な旧線付替や、前述した工事用支線のことなど、私にとっても印象の深い駅の綺麗な姿に、胸がときめいた。
いま再び佐久間の地で廃道に挑むのだと思うと、見ず知らずの土地でやる以上に意欲が湧いてくるのを感じた。



看板の地点(≒起点)からほんの50m、最初のカーブを曲がった所で、バリケードが唐突に道を塞いでいた。

1300m先の大月トンネルが全面通行止めだとは教えられたが、早くもここで全面通行止めじゃないか?!
大月トンネルまでは問題無く進めるのかなと思っていただけに、何ヶ月…いや、もう何年も動かされてなさそうな気配を漂わせた木造バリケード群と朽ちた「通行止め」の標識に、いっそうテンションが上がった!

なお、何の疑いもなく「町道半場神妻線」の名前を採用しているが、この名前は現在は変わっているハズである。
というのも、町道の管理者である佐久間町が既に存在せず、平成17(2005)年以降は浜松市の一部になっている。
バリケードの中に浜松市と書かれたものがあるので、現在の管理者は市となり、道の名前も「市道半場神妻線」へ変わっていると思われるが、市道へ移行せずに廃止された可能性もあるので、何ともいえない。




なるほどと思った。

バリケードの直後である。
確かにこの路肩の状況では、悠長に解放したままにしておけなかったのは頷ける。
眼下に見えるのはもちろん天竜川で、きっかけは不明だが、路面から下の川縁まで地表にあった木々が全て失われるほどに崩れ落ちていた。
元々はコンクリートの擁壁が路肩にあったようだが、その一部が残骸となって部分的に残るだけで、もう一度崩れたら道幅は完全に失われてしまいそうだ。

元通りへの修理には、かなり大規模な工事が必要そうだった。
原田橋が幾ら老朽化していて不便(大型車通行止めや片側交互通行)だったからと言っても、こちらの道ほど危険ではないと(大崩落で落橋する直前まで)思われていたことだろう。



崩落地点を過ぎると、完全に集落を離れて山中の道になった。鬱蒼とした杉林が山手に広がっており、道との間には低い玉石の石垣が積まれていた。
天竜と言えば杉の特産地であるから、とにかく杉林が多い。どこの山も青々と茂っているイメージで、冬でも山の色を失わない。
バリケードをどかしてまで通る車も無いようで、路面には杉の枯れ枝が何年分か堆積していた。

此岸はこのように山中であるが、右手を見れば天竜川の向かいに地方都市的な中部の街並みが続いていた。




脊髄反射レベルで、はっ!とした。

が、直後にその黒く口を開けているものの正体が、

隣にある飯田線のトンネルだと理解されて、落ち着いた。

心臓に悪いぜ…、この道の隧道が出たかと思った…。



6:20 《現在地》

飯田線の線路はほんの一瞬だけ地上に出て、小さな渓流を橋で渡っていた。
我らが「町道」はといえば、線路の隣にやはり橋を架けて渡っていた。
それは良い。橋は簡単な作りではあるものの鉄製で、自転車で走るのによい。

だが、狭い。

これでは乗用車はむろん、軽トラだって無理だ。

「原田橋」の迂回路として、この町道を利用するのは、簡単ではないようだ。
崩落部分の路肩を補修するだけでなく、この橋を拡幅する必要がある。


見るからに、現在架かっている鉄橋と、玉石練積みの石垣が目立つ前後の道路の間には、素材にも道幅にも、大きな乖離が感じられた。

おそらく、元々は橋も小型自動車が通れる程度の幅を持っていたのだろう。
だが、それは多分木橋であったと思う。
木橋が老朽化して架け替えの必要に迫られた際、理想的にはちゃんとした車道用の永久橋に出来れば良かったのだろうが、町道という財政上の理由かは不明ながら、人道用かせいぜい2輪車が通れる程度の幅の鉄橋に掛け替えてしまった。
安易に廃道化を選択しなかったのは良かったが、結局自動車が通れない道が国道のように活躍するはずもなく、荒れてしまい…といったストーリーを想像した。




それでも今のところは廃道という感じを受けない。
元々の小型自動車道として使われていない点では確かに廃道なのだが、立地的にも林業関係者のほか、飯田線の保線関係者も通行しているのではないかと思う。

そのため路上に大きな障害物が放置されている事がなく、元々の勾配が少ない事も功を奏して、私が自転車で走るにはうってつけであった。
まさに無人の快走路を行く心持ちがして、木と岩の隙間を風きり進む、サイクリストの楽しみに酔った。



はぅっ!

あの黄色いお姿はッッッ!!!



道路標識キター!! しかも結構美品?

支柱に佐久間町の名前が書かれた「落石注意」の警戒標識が、ポツンと1本だけ立っていた。

別に道路標識は車道に限って設置される物というわけではないが、普通は歩きの山道で見る事は無い。
やはり元々車道であった証しと捉えて良いと思うが、現状では道幅が自然に変化してしまっていて、
到底車道のようには見えない所に、1本だけ目立つ色をして立っているのが、殊更に印象深かった。

これはいいものを見た。


6:32 《現在地》

道路標識に気分をさらによくして進んでいくと、再び橋が現れた。

これまた天竜川に直に注ぐ無名の小渓流を渡るものであるが、やはり鉄橋だ。
しかも前以上に狭く、自転車を押して並んで歩くのも難しいほどである(つまり乗って走ることになる)。

この谷では飯田線が地表に現れなかった。
だが、明らかに“中にあるんだろうな”と思わせる、床固め工が設けられていた。
飯田線は川の下だ。




狭いうえにシースルーの網目の踏み板が怖ろしげな、第2の橋。

しかし高さが大したことがないのと、腐っても鉄橋である。
自転車で走る分には問題は感じない。
ここも速やかにクリアして、先へ進む。
既に入口の看板のところから600mほど来ているので、問題の“大月トンネル”までは、あと半分といったところ。



6:35 《現在地》

さらに200mほど何事も無く進むと、この「町道」にはあまり似つかわしくない、巨大なコンクリートの塊が現れた。
内心その正体を確信しながらも、期待感を持って近付いていくと、案の定それは頑丈な飯田線の坑門だった。

そして地形図を見ると、ここから少しの間、町道は線路の極めて近くを並走しているようだが、 だ、 大丈夫かな?

町道を走る限りは何も後ろめたくないはずだが、線路が近いと緊張するのも、オブローダーの性だったりする。


―次回、大月トンネルに迫る!