2007/3/6 7:50
午前5時前、京王線の某駅始発に乗り込んだ私は、途中数回の乗り換えで都心を横断し一路東を目指した。
やがて私の乗る電車も朝のラッシュに飲み込まれたが、その頃は既に都心から外へと向かっていたので、私もチャリも無事だった。
そして、かなりの立ちを強いられはしたが、午前8時前にはJR内房線の木更津駅に到着し、そこで輪行を解いたのだった。
延々とビルと家並みだけの車窓で、これだけの長時間旅したというのは初めてかも知れない。
本当にこれから向かう先に緑の場所なんてあるのだろうか。
そんな疑心暗鬼に駆られてしまうほど、東京は(千葉も)大きな街だった。
大東京と地続きとなって海岸線に工業都市が連なっている。その一角に木更津市はある。
この時間、駅に降り立つ人波は高く、その流れに泳がされるようにして、大きな輪行バックを持った私は外へ出た。
チャリを組み上げて、まずはすぐ側を走る国道16号へ向かった。これから向かう127号は16号から分岐しているのだ。
そして出会った国道16号。そこには本線と側道が立体的に分離した、巨大な道路があった。
所々にある交差点には、写真のような訳の分からないほどに複雑な標識があって、よく見れば別に奇異な内容ではないのだが、初めて見たドライバーはギョッとするかも知れない。
いくらも行かず桜井交差点が現れた。
国道127号はここが終点であり、ここから起点である館山市まで半島の西海岸をひたすら南下する事になる。
右折するのが君津へ向かう国道16号であり、立体交差がここで途切れない事からも分かるとおり、交通量の中心はここで自然に16号から127号へバトンタッチされている。
実は、昭和38年まで国道127号はもっと長くて、千葉市まで指定されていた。
その年、国道16号がそれまでの横須賀市〜千葉市から両端をそれぞれ延長し、東京湾を取り囲むような環状線として再指定を受けたことから、千葉市〜木更津市間を127号から分捕ってしまったのだ。
“オイシイトコ捕り”された127号の無念がそうさせるのか、国道16号の海上区間の建設は暗礁に乗り上げたままだ。
しかし私はすごい光景を見た。
富津から来る16号に連なる色とりどりのダンプの列、列、列!
まるで富津という巣から散っていく兵隊アリのようだ。
信号が青に変わるたび、2車線一杯いっぱいのダンプは16号と127号に散っていった。
その量は遙かに127号へ行くものの方が多かった。
館山自動車道の工事現場に行くのだろうか。
交差点を直進して国道127号に入る。
間もなくおにぎりと行き先案内板が現れる。
そして長かった立体交差も降りてきて、片側2車線の広い道になる。
ここから旧道巡りの長い旅が始まる。
だが、木更津市街には旧道らしい遺構も期待できないことから駆け足で通り過ぎた。(一応旧道は辿ったが)
終点から約3.5kmほどで木更津市と君津市を隔てる低い丘陵にさしかかる。
市境を示す標識のすぐ君津側に、ダンプが出入りする三叉路があり、ここを右折すると、短いが風情のある旧道がある。
写真はその旧道のピークから君津方向を見たもので、前方遙か半島中央部の山々が見える。左の空き地の向こう側に4車線の現道が通じている。
この旧道は500mにも満たないが、現道より少しだけ高い分見晴らしが良く、日焼けしたアスファルトや霞んだ赤のセンターラインに、往時の幹線道路臭を感じるのである。山側には低いが堅牢な石垣も残っている。
おそらくは、房総国道(昭和20年前後)時代の道だろう。(更に古いとおぼしき道が東方に生活道路として残っている)
君津市は壺のような形をした市域を有しており、東京湾に面した部分は狭く壺の口になっている。一方で山側はまるまると太って広大だ。
行政機能はその両者を結ぶ細い部分にあって、国道127号と16号がその近くを南北に縦断している。
完全に4車線化された127号の周囲は、郊外立地型の大型店やガソリンスタンドが建ち並んでおり、ここまで来てようやく田舎の空気を感じ始めた。
行く手に現れ始めた緑色の背景も、それ自体はとても低いものだったが、私の気持ちを盛り上げるには十分だった。
まだまだ街中の景色に違和感ありありな標識が現れた。
示された地図にはここから館山までに、2カ所の事前通行規制区間が有ることを教えてくれる。
一つは南無谷崎、もう一つは明鐘岬の辺りをピンポイントに指示している。
これはいずれも、明治以前から房総往還の難所として知られてきた所である。明治期早々に隧道を含む新道工事が行われた所である。戦争に急かされてバイパスが切り開かれた所である。
彼の地は今もなお、難所であり続けているのか。
ピコ〜ン と、俺のフラグが立った。