国道127号 旧道及び隧道群 木更津〜富津編 前編(1−1)

所在地 千葉県木更津市・富津市・君津市
公開日 2007.5.15
探索日 2007.3. 6


 全長55km余りある国道127号線ほぼ全線の旧道を、たった一日で網羅しようという野望を抱き、約20年ぶりに千葉の土を踏んだ私。
全体を3つのパートに分けて進める本レポートにおける最初のパートは、国道127号の“終点”である木更津市桜井から始まり、房総半島における南北の境を越えて君津市上総湊までの、現道ベースでおおよそ22kmの区間である。

 ただ旧道を辿るとは言っても、前回の「導入」で示した年表の通り、複数代の道が過去存在している。
それらを大きく分ければ次の4つがあるわけで、一つは江戸時代から明治初頭までの「房総往還・房総西街道」、難所には新道を開削し全線に馬車が通じるようになった「県道千葉北条線」、戦前戦中から戦後間もなくにかけて軍事国道「特37号国道」として改築された道、更にその後の建設省及び国土交通省による改良によって生まれた道である。
このうち前者二つを現在もそのまま利用している区間は皆無であり、全てが後者二つに「上書き」もしくは「置換」されていると考えて良い。
すなわち、厳密に考えればほぼ全ての区間に何らかの旧道が想定されうるわけだが、この探索ではあまり難しく考えず、また事前情報収集も行わずに、新旧二枚の地形図だけを元にして、ある程度フィーリングに頼って探索した。
また、具体的にその旧道がどの年代のものかを特定できなかった箇所もあるが、それは今後の課題とした。

 一つだけルールというか、マイ目標としたのは、「この道に関する隧道は出来るだけ漏らさず巡る」という点だ。
これには最大限留意し、隧道が想定される場所ではかなりしつこく捜索もしたので、その成果をご覧頂きたいと思う。むろん取りこぼしもあろうから、ご指摘いただければ幸いである。


 それでは、木更津駅にて輪行を解いたところから、ロングレポートのスタートである!


旧道と旧隧道を探す旅

JR木更津駅より出発、国道127号へ


 2007/3/6 7:50

 午前5時前、京王線の某駅始発に乗り込んだ私は、途中数回の乗り換えで都心を横断し一路東を目指した。
やがて私の乗る電車も朝のラッシュに飲み込まれたが、その頃は既に都心から外へと向かっていたので、私もチャリも無事だった。
そして、かなりの立ちを強いられはしたが、午前8時前にはJR内房線の木更津駅に到着し、そこで輪行を解いたのだった。

 延々とビルと家並みだけの車窓で、これだけの長時間旅したというのは初めてかも知れない。
本当にこれから向かう先に緑の場所なんてあるのだろうか。
そんな疑心暗鬼に駆られてしまうほど、東京は(千葉も)大きな街だった。


 大東京と地続きとなって海岸線に工業都市が連なっている。その一角に木更津市はある。
この時間、駅に降り立つ人波は高く、その流れに泳がされるようにして、大きな輪行バックを持った私は外へ出た。
チャリを組み上げて、まずはすぐ側を走る国道16号へ向かった。これから向かう127号は16号から分岐しているのだ。

 そして出会った国道16号。そこには本線と側道が立体的に分離した、巨大な道路があった。
所々にある交差点には、写真のような訳の分からないほどに複雑な標識があって、よく見れば別に奇異な内容ではないのだが、初めて見たドライバーはギョッとするかも知れない。



 いくらも行かず桜井交差点が現れた。
国道127号はここが終点であり、ここから起点である館山市まで半島の西海岸をひたすら南下する事になる。
右折するのが君津へ向かう国道16号であり、立体交差がここで途切れない事からも分かるとおり、交通量の中心はここで自然に16号から127号へバトンタッチされている。
 実は、昭和38年まで国道127号はもっと長くて、千葉市まで指定されていた。
その年、国道16号がそれまでの横須賀市〜千葉市から両端をそれぞれ延長し、東京湾を取り囲むような環状線として再指定を受けたことから、千葉市〜木更津市間を127号から分捕ってしまったのだ。

 “オイシイトコ捕り”された127号の無念がそうさせるのか、国道16号の海上区間の建設は暗礁に乗り上げたままだ。


 しかし私はすごい光景を見た。

富津から来る16号に連なる色とりどりのダンプの列、列、列!

まるで富津という巣から散っていく兵隊アリのようだ。
信号が青に変わるたび、2車線一杯いっぱいのダンプは16号と127号に散っていった。
その量は遙かに127号へ行くものの方が多かった。
館山自動車道の工事現場に行くのだろうか。



 交差点を直進して国道127号に入る。
間もなくおにぎりと行き先案内板が現れる。
そして長かった立体交差も降りてきて、片側2車線の広い道になる。
ここから旧道巡りの長い旅が始まる。
だが、木更津市街には旧道らしい遺構も期待できないことから駆け足で通り過ぎた。(一応旧道は辿ったが)



 終点から約3.5kmほどで木更津市と君津市を隔てる低い丘陵にさしかかる。
市境を示す標識のすぐ君津側に、ダンプが出入りする三叉路があり、ここを右折すると、短いが風情のある旧道がある。
 写真はその旧道のピークから君津方向を見たもので、前方遙か半島中央部の山々が見える。左の空き地の向こう側に4車線の現道が通じている。
この旧道は500mにも満たないが、現道より少しだけ高い分見晴らしが良く、日焼けしたアスファルトや霞んだ赤のセンターラインに、往時の幹線道路臭を感じるのである。山側には低いが堅牢な石垣も残っている。
おそらくは、房総国道(昭和20年前後)時代の道だろう。(更に古いとおぼしき道が東方に生活道路として残っている)



 君津市は壺のような形をした市域を有しており、東京湾に面した部分は狭く壺の口になっている。一方で山側はまるまると太って広大だ。
行政機能はその両者を結ぶ細い部分にあって、国道127号と16号がその近くを南北に縦断している。
完全に4車線化された127号の周囲は、郊外立地型の大型店やガソリンスタンドが建ち並んでおり、ここまで来てようやく田舎の空気を感じ始めた。
行く手に現れ始めた緑色の背景も、それ自体はとても低いものだったが、私の気持ちを盛り上げるには十分だった。



 まだまだ街中の景色に違和感ありありな標識が現れた。
示された地図にはここから館山までに、2カ所の事前通行規制区間が有ることを教えてくれる。
一つは南無谷崎、もう一つは明鐘岬の辺りをピンポイントに指示している。
これはいずれも、明治以前から房総往還の難所として知られてきた所である。明治期早々に隧道を含む新道工事が行われた所である。戦争に急かされてバイパスが切り開かれた所である。

 彼の地は今もなお、難所であり続けているのか。

 ピコ〜ン   と、俺のフラグが立った。




古老が教えてくれた橋


 9:00 【現在地

 まだ3月上旬だというのに、中央分離帯に植えられた菜の花は早くも満開で、房総の春の早さを教えてくれた。
そのすばらしい4車線道路も、君津市街地を通り過ぎるとあっと言う間に2車線に減って、田舎国道の景色と変わる。
この先、いよいよ一つめの旧隧道である小山野隧道がある。

歩道のない国道を進んでいくと、まるで岩の片洞門をそのまま植物で再現したような、異様な光景が現れた。



 今も目の前でダンプがすれすれを通り過ぎていったその林は、人家の生け垣の一部である。
天下の公道に堂々と枝葉の一部を覆い被らせているが、なかなか他では見られない壮観な景色である。
しかし、チャリにとってはちょっと頂けない。
この道は大型車の通行が多い。特に並行する館山自動車道が、この君津から富津の間だけが未開通のため、行楽シーズンには頻繁に渋滞するほどの通行量を有する。
そこにあってこの状況は怖い。反対車線側にも路側帯さえないし…。
陸上でありながらも、さながら極狭隧道の中のような危険度である。



 更に進むと、道は細長い田んぼのただ中を真っ直ぐ進むようになる。
田んぼの両側には低い山が連なり、この田んぼが極まるところに君津市との市境を成す小川野の峠が有るのだと予想させる。
そんな景色の中で、一本の細道が国道から斜め左へ分かれていった。そしてその道は、しばらく併走した後、300mほどで再び合流するのであった。
これはまさしく旧道の線形と思われる。
普通乗用車がようやく通れるくらいの、一見畦道にしか見えない道路だが、この地図にも見落とされた小さな旧道が確かに旧道であると教えてくれる、重大な遺構があった。

 写真は、細道が再び現道に合流する部分(現道は奥、手前を横切る道は別の道)であるが、ここに小さな川が流れている。



 なんと、ここに架かっている小さな橋は、コンクリート製のアーチ橋なのである。
今日では間違いなく桁橋で十分と判断されるだろう極めて短い径間に過ぎないのだが、そこに重厚なコンクリートのアーチが設けられている。
華奢な欄干(殆ど用を成していない)に比較しても、その重厚さは特異だ。

 これだけでも、これがただの畦道などでは有り得ないことははっきりするが、そこに親柱を発見したことで、事態は更に大きくなったのである。
(なお、手前に写っている二本の細い橋脚は、そこにあった水路橋のものである)



 小さな親柱が残っていた。
しかし、四柱のうちこの一本のみである。
だが、そこには私が最も欲していた情報。竣工年とおぼしき年号が刻まれていたのである。
始め、「昭」の字が見えた気がした。 …ああ、昭和初期ね…
そう思った。 

 明治四十五

うぐっ!
 こいつは明治橋梁だ!



 明治45年という、これまで山行がが遭遇した中でも十指に入る古橋だが、現在でも立派に橋として機能しており、特に重量制限なども無い。(大丈夫なのか?)
親柱は一柱を残し失われ、欄干もかさ上げされた舗装のために埋没し、または落下してしまい消滅している。
おそらく夏場にはアーチ部分の大半が雑草に隠されてしまうだろう。まさに満身創痍。

 明治期のコンクリート橋は珍しい。(しかもアーチ部分はコンクリートブロックではなく「場所打ち」のようだ)




 ん?


  なんだあれ?




 親柱だ〜(涙)

  泣けるぜ… 落ちたまま川底で放置かよ…。

それでも、辛うじて読み取れる橋の名は、小松橋。
隣に架かっている現橋(昭和34年竣工)と同じ名である。




 旧小松橋の袂にあるシャッターの降りた商店の前で、花壇に水をあげていたおばあさんがいたので、声をかけてみた。
70歳代くらいの元気そうなおばあさんは、ご自身で数年前まではこの店をやっていたそうだ。
そして、旧小松橋は、お嫁入りのときから架かっていたと、教えてくれた。
当時は橋の傍(この写真で撮影者の私が立っている辺り)に松の木が生えていて、橋の名前の元にもなったとのことであった。
通りはとても良く賑わっていたそうである。

 明治期の橋がよもや現役で残されていようとは、驚いた。
私は丁寧に礼を言って、この場所を後にした。