2007/3/6 9:14
国道127号終点より現道ベースでちょうど10kmの地点に、新旧道の分岐地点がある。
ここは、君津市から富津市へと越える峠道の入り口である。
現道と旧道はそれぞれ別のトンネルを頂点として越えていく。そのための新旧道分岐である。
ここは当然右の旧道へ進む。
のどかな旧道の風景。
ゆったりとした登り坂が視界の果てまで続いているが、この見えている分で登りは殆ど全部だ。
隧道までは約500m、高低差20m。
ゲームボーイをプレーしながらでも攻略できてしまいそうな峠だ。
上の写真に写っている屋根。
正面にまわってみると、何とも立派な屋敷門であった。
ひとしきり登ると、あっけなく峠の暗がりが見えてきた。
この僅かな間にも、数台の車が勢いよく通りすぎていき、まだ道が生きていることを教えてくれた。
明かりの落とされた隧道もまた、現役である。
切り立った掘り割りに三方を囲まれた、圧迫感の大きな坑口。扁額には「小山野隧道」と、より小さな文字で「昭和十一年六月竣工」と刻まれている。
外見的な特徴としては、かなり扁平な断面が挙げられるだろう。
これは技術的には安定性の点で望ましくない形状なのだが、有効断面を大きく得るために採られた、道路トンネルならではの苦肉の策である。
各地の、ある程度古い幹線道路で稀に見られる形状である。今後新設される可能性の低い断面でもある。
資料に拠れば、その延長は68m、幅員5.3m、高さ3.5mである。
かつては、ガリガリと大型車の荷台に削られてしまうこともあっただろう天井も、綺麗に白く塗装し直され、気持ちの悪い印象を極力抑えている。
短い隧道だがかなりウェットで、手を加えなければ瞬く間に崩壊してきそうに思える。
そう思う理由はこのウェットさだけではない。
300mほど南方にある現道の同名トンネルは、平成2年に大規模な崩落事故を起こしているのだ。
幸い人身事故には繋がらなかったものの、現役の国道トンネルが突然崩落するという前代未聞の事故だった。(北海道の事故はその6年後だった)
この事故を受けてときの建設省は急遽、全国6000の道路トンネルを緊急点検したという。
この旧隧道とは直接関係がないのだが、小山野という名は業界で一躍有名になってしまったらしい。
何事もなく通過。ここから先は富津市である。
富津市側は、君津市側に増して深い掘り割りの中に坑口があるようだ。
坑口前はかなり広くなっており、大型車はここで待ち合わせしたのだろう。
反対側がブラインドコーナーに続いているので、交通の流れは相当に悪かったものと想像できる。
富津側の扁額は、一風変わった平仮名による銘板になっていた。
右書きの平仮名には、万葉の薫りとでも言おうか、なにやら優雅な雰囲気を感じた。
全体的に日陰にあって苔むした坑口もいい味を出している。
やや離れて振り返って富津側坑口。
隧道を少しでも短くするべく、相当深くまで掘り割りで開削していることが分かる。
ここまで切り開いたなら、思い切って全部開削してしまっても良かったのではないか、そう思えるほどだ。
扁額にも刻まれているとおり、一般には昭和11年の竣工とされているこの旧小山野隧道であるが、実は更に古い。
房総半島に関して最も古い五万分の一地形図は、明治34年に測図されたものがあるのだが、そこには既にこの隧道が描かれている。
国道127号の最古の前身である江戸時代までの「房総往還」は、この小山野を通らず、もっと海よりに通じていた。
おそらく明治初頭に「房総西街道」として開削されたのが、現在の小山野ルートの始まりであろう。
隧道を後に進む。
隧道から現道との合流までは約1kmほどだ。
少し下ると、写真のT字路がある。
この交差点も明治時代からのもので、西へ分岐する市道は大貫方面への抜け道として盛んに利用されている。
9:25 【現在地】
ホーロー看板がわびしさを醸し出す旧道は、再び登りとなる。
そして、行く手に二つの巨大な盛り上がりが見えてきた。
照緑樹特有の深緑を纏った山は、その標高以上に重苦しい存在感をもって、私の行く手に立ちはだかった。
!!
それは、物凄く深い掘り割りだった。
二つに見えた山は、この超弩級の掘り割りによって切り離された、一つの山の頂だったのだ。
道の両側は一面、薄暗いコンクリート吹きつけの壁で、そのてっぺんにはリーゼントの如きに照緑樹たちが張り出している。
ちょうどそこに一台の車が通りかかった。
唖然として見上げている私の背後にその車は停まり、どうかしたのかと声をかけてきた。
見ると、車には富津市の道路パトロールカーを示すペイントがあった。声をかけてきたおじさんもお役所馴染みのツナギ姿だ。
この掘り割りの辺りには、かつて日本海軍の地下要塞があったと教えてくれた。
今は塞がれているが、その入り口の跡はたくさん残っているという。
穴… か。
正直、防空壕の類はあまり興味をそそらないが、穴があるとなれば一目は見たい。
しかし、それは特別に探すという事もないまま、あっけなく発見された。
坑口を塗り込めた跡が、掘り割りの側面に一つ… そればかりか、相次いで二つ三つと発見されたのである。
(写真1、写真2)
しかし、それらは一様に塞がれており、一歩も踏み込めるものは無かった。
もっとも、それは道理というものだろう。
こんな目立つ場所にごろごろと穴が口を開けていたのでは、あまり興味のない人まで餌食になりかねない。(私のような)
無防備に口を開けた穴が無いことに内心ホッとしながらも、穴の隙間についつい首を突っ込んでしまう…。
全くもって、悲しい性である。
この強烈な掘り割りは私の印象に残り、帰宅後にも机上調査をさせた。
そして得られた情報の一つは、この地下に眠る宏大な地底要塞に関するものだ。
ここに富津市史(p.967)を引用したい。
昭和一九年十一月、空襲を逃れるため、岩根・八重原の航空廠の疎開が開始され(中略)、やがて地下への疎開が準備され、小山野山中に大規模なトンネル群が掘られ、第二段階の疎開が進められ、地下秘密工場が作られていった(図)。掲載されていた「図」を見ると、頭が痛くなってくる(笑)。
更に私が感激したのは、もう一つの情報である。
それは、歴代の地形図を見ていて気がついたのだが、明治34年版の五万分の一地形図にのみ、この掘り割りが隧道として描かれていたのである!
古い掘り割りにしてはオーバースペックだと思ったが、やはりはじめの頃は隧道だったのである。
次の昭和3年の版では、既に掘り割りとして描かれおり、名前さえ分からぬ、幻の明治隧道である。
オマケ
地底秘密基地の入り口は果たして全て埋め戻されているのだろうか?
答えは、否である。
周辺の藪の中をちょっとうろついてみたところ、あっけなく口を開けたままの穴を発見。
だが、ちっと狭すぎる。
しかも、辺りはブヨや藪蚊の巣窟となっているの感ありで、とても長居は無用の様相。
それでもせっかく見付けたからと、這い蹲って頭から突っ込んでは見たものの…
鑿の跡も生々しい内部には水が溜まっており、空気の流れも感じられない。
私が潜った穴は本来の通路ではないらしく、ライトで照らしてみる限り、10mほど奥で行き止まりのようだった。
極めて不快な雰囲気なうえ、換えの靴も持ってきていないことから、行き止まりまで行くことは断念した。
撤収である。
9:44
古くは隧道であったという掘り割りを抜けて進むと、間もなく現道にぶつかった。
これで小山野の旧道は終わりである。
一時現道を走り、次の旧道を目指す。
国道はこの地区の中心地である佐貫へと進む。
長閑な田園風景にも、集落の度に小規模な旧道があり、地図を見るまでもなく自然と誘導される。
そんな旧道を一つ二つと繋げていくと、いつの間にか佐貫の交差点に着いている。
そういう道だ。
そんな、たくさん有りはするが、特に印象に残らない旧道たちの中で、唯一印象深かったのは、最初に現れた旧道だった。
旧道自体には特に何の代わり映えも無かったのだが、その、現道に合流する直前の景色が、右の写真である。
左に並行する現道へ、本来ならば緩やかに合するところを、なにやら別の道に邪魔されている。
そして、この突き当たりの道が…怪しい!
突き当たりの道は、見るからに新しい2車線の舗装路なのだが、バリケードで片側が封鎖されている。
そのバリケードの奥にも、なにやら道が続いている気配。
そっちには、山しかないはずだが…?
うわー…
香ばしいな……。
これは国道127号と全く無関係であることが判明しておりますので、レポートは省きます。
10:27 【現在地】
45分後、私は再び館山へ向けて南下を再開していた。
それから間もなく佐貫の交差点(終点から現道ベースで13km地点)に着いた私は、ここからどの道を選ぶかで暫し悩んだ。
ここから次の経由地である上総湊まで、国道で行けば6km弱の道のりだが、前に「謎の自衛官氏」主催の「内房線岩富隧道」探索で通ったときの印象では、特に旧道も期待できない、車で通っても面白みの薄い区間だった。
私は、ちょっと127号からは外れるが、新舞子海岸沿いに進路をとることにした。
それでも距離は殆ど変わらず湊へ行くことが出来る。
それに、この新舞子海岸を通る道は、「房総往還」も選んだ、明治以前の主要ルートであった。
やや内陸に進路を選んだ現在の国道ルートは、明治以降のものだろう。
海岸線には鶴峰八幡宮をはじめ、古刹や神社が多くあり、また小さな集落を幾つも紡いで行く道の形は、歴史を感じさせるに十分である。
さて、私は佐貫交差点からまず国道465号に入り、佐貫駅前(左の写真)にて今度は一般県道新舞子海岸線(県道256号)へと左折した。
鶴峰八幡の辺りで道は数度直角に折れ、やがて高台の上に出た。
本日初めての海の眺め。
ああ気持ちいい。
浦賀水道にはたくさんの船が浮かんでいた。
対岸の重工業地帯が、うっすらと霞がかって見えた。
海の要衝を前にした、その陸の上の県道は、何とも長閑なものである。
如何にも街道の名残を感じさせるような小刻みなアップダウンと、次々に現れる小さな集落たち。
道は殆どが1車線のままで、海水浴場として著名な新舞子海岸も同様であった。
きっと真夏は大変な渋滞になるのだろうが、チャリで走るには今は一番いい時期だ。
写真は、笹毛地区の坂道。
無粋なコンクリートの吹きつけの壁にも、小さな地蔵堂が埋め込まれていたりして、とても和やか。
振り返ってもう一枚撮影。
こっちから見ると、海に下っていく坂道だ。
この景色がたいへん気に入った私だった。
こっちの道を選んで、良かった。
笹毛で小さな坂を越え、下るとそこに踏切が。
ここでJR内房線を跨ぎ、現道との合流地点のある長浜へと、今度は内陸へ向けて進路をとる。
そしてこの長浜にも、今は失われた隧道がある。
数年前に2車線に拡幅される前まで、長浜隧道があったのは、この切り通しだ。
現在は、ご覧の通り、全くその痕跡は失われている。
ただ、真夏は輻射熱のため、掘り割りの底がフライパンにでもなってしまいそうな、そんな殺風景な景色があるだけ。
明治34年の地形図にも、既にこの隧道は現れていた。
そのこともまた、このルートの由緒を感じさせる根拠である。
また別の資料に拠れば、ここに最後に残っていた隧道は、昭和40年に改築を受けた全長100m余りの、かなり狭いものであったようだ。
本日2本目の“失われた”隧道を(脳内で)潜り、ここまで登った分を一気に駆け下ると、やがて車通りの多い国道127号に合した。
合流地点を振り返って遠望。
左のガードレールの切れ目が、県道新舞子海岸線である。
再び前を向いて走り始めると、間もなく国道はJR上総湊駅のすぐ前を通過。
ここから、本探索は第二ステージに移行。
いよいよ現る嶮しき海崖と、廃隧道の宴へ。
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