2007/3/6 12:14 《現在地》
城山隧道の先で現道に合流した旧道は、海岸沿いにある萩生地区を通る。
この辺りにも、現道と隣り合ってたくさんの旧道らしき道がある。
しかし、本当にそれらが旧道なのか。
また、旧道であったとしても、それがいつの時代のものなのかを特定することは難しい。
たとえば、こんな感じの三叉路がたくさんある。
あまりに現道に近い旧道は、過去の地形図と見比べてみても変化が掴めず、特定は困難だ。
この写真の分岐は萩生地区の中心部の比較的まとまった距離のある旧道の入り口だ。
しかし、昭和20年代には既に旧道化していたことが地形図より分かった。
この日は、道中にあるこんな分岐に片っ端から入った。
殆ど地図を確認することもなく入り込んだ脇道も多いが、その殆どが、ちゃんと現道へと戻れた。
なお、竹岡という駅はこの萩生集落のただ中にある。
ここよりも遙かに人口の多い竹岡には、線路は通っていてもなぜか駅がない。
竹岡と萩生は1.5kmほどしか離れていないが、途中には城山が邪魔しており、町並みとしては全く別個のものだ。
大正時代からこの場所に竹岡駅は置かれていたが、なぜなのだろう。
旧道は、無人の竹岡駅前を通過し、暫し行くと一度現道に合流する。
ちょうどそこに「ヒカリゴケ」の群生地といわれる黄金井戸という名勝地がある。
旧道はその先でも数度、現道の右に左にと、まるで解れた糸のように現れる。
この写真の細道もそのような場面の一つである。
最後には、車が通れないほどの細道となって、空き地を介して現道に戻ることになった。
写真遠方に張り出した緑濃い尾根に、次なる隧道、次なる峠が待ち受けていた。
その名は打越隧道だ。
小さな尾根に大袈裟なほどの大断面で穴を空けた打越隧道。
本編「明鐘岬編」が紹介する、富津市上総湊から鋸南町保田までの国道127号約13km区間内に、現在は8本の隧道がある。
この打越隧道はその2本目となる。
そしてこの隧道は、この地域の最も古い詳細な地形図である明治36年版5万分の1図を見ても、当初から現在地に記載されていた。
そのまま現在まで拡幅を受けながら存続してきたのであろう。
全く時代を感じさせない外形にはなってしまっているが、元は極めて古い隧道なのである。
ちなみに、昭和18年竣工としている資料もある。
おそらく、その年に初めてコンクリートで巻き立てられたものであろう。
え、えええーー!
ナニコレ。
巨大な打越隧道の山側に、負けじと巨大な穴を発見!
だが、その穴は奥まで続いてはいない?
コンクリートの吹きつけで全てが覆われた、異様な穴に急接近!
でかい穴
その中に
小さい穴
いったいこれは何?!
教えて!! ピラムー!
だが、この穴への潜入踏査は、残念ながら断念せざるを得なかった。
ピラムの壁はあまりにも高かったのである。
ここにチャリを立てて… とか、悪巧みはしたものの、無理なものは無理。
脚立持って来ないと駄目だ。
まあ、これが旧隧道の類ではないことは、ほぼ間違いがない。
この方向に彫る意味が分からないし、反対側にも穴はない。
カメラの望遠プラス明度上げで撮影してみた左の画像からは、奥行き3mほどで行き止まりになっているようでもあるのだが…。
歯が立たぬマトリョーシカ穴は諦め、大人しく隧道をくぐって先へ進もうと思ったそのとき、穴とは道路を挟んで反対側にも、この写真の脇道があることに気付く。
大きなソテツの木が数本、空き地の周囲を取り囲むようにして生えている。
空き地には、元々建物が建ってあったっぽい。
ソテツだけを残し取り壊されたようである。
問題は、この小道の行き先である。
地形図にもないが、もしかしたら隧道よりも古い、つまり明治以前の道か?
だが、無情にも細道は海岸線で途絶えていた。
打越隧道が貫通している尾根が、この先で海に沈み込んでいく。
これを回り込むようにして旧道があったのではないかと考えたものの、どうやらまともな道がある風ではない。
それでもなお諦めきれず、枯れススキの原を割いて進んでいくと…。
ついには磯へ降りてしまった。
もはやここは岬の突端であり、これを伝ってその裏側へ回り込むことは可能であったが(実際に行ってみた)、明らかに道ではない。
或いは江戸時代よりも古い時代、街道として道が形作られる以前には、干満や空模様と相談しながら磯を行く通路が生活に使われていた可能性は高い。
ここは、その気になれば歩ける場所だから。
しかし、ここは隧道の旧道だという事は難しい。
もっと別の、尾根を越える道があったのかも知れない。
何か腑に落ちないものは感じながらも、打越隧道を通って先へ進んだ。
12:44
打越隧道を抜けると、そこはT字路になっており、山側へ入る道は富士見ヶ丘という別荘地へ続いている。
そして、この別荘地の中には、ある変わった名前の隧道があり、私はそれを確かめるべく、この別荘地へと寄り道した。
このレポートはまた別の機会に譲るが、高所にある別荘地からは、打越隧道をご覧のように見下ろせる眺めがあった。
南国特有とも言える濃い緑に覆われた山の一角に、もしかしたらそこがかつての峠かも知れないと思える凹みを見付けたのは、偶然だった。
別荘地から戻った私は、すぐにその場所へと向かった。
13:00
打越隧道の館山側坑口のすぐ脇に、海側へ入る細い上り坂がある。
だが、そこは明らかに個人の邸宅であり、本来はまだ見ぬ鞍部へ続いていた古道であったかも知れないが、現在は立ち入ることが出来ない。
だが、民家の裏手の空き地もまた、明らかに人工の手が入った、均された土地だった。
海に面した見晴らしの良い場所で、ここもかつて造成されたのだろう。
鞍部へと続くような道は、一切認められない。
だが、鞍部自体はすぐ目の前に迫っている。
写真奥のお椀型に凹んだ地形がそこである。
さらにその近くへと進んでみた。
立ちはだかる壁。
人工的に切り取られた垂直の壁であり、風化のために出来た凹凸を利用して這い登った。
なぜここまで、この小さな峠の旧道探しに拘るのか、この時は自分でも分からなかったが、今ならこう分かる。
峠の旧道を探すセオリーとして、「トンネルに旧道有り」 というものがある。
これは非常に強力な法則であり、そこが近年のバイパスでもない限り、まず当てはまる法則だ。
だが、手に入る最も古い地形図にさえ、当たり前のように隧道で越されているこの峠には、果たして、どんな「旧道」があったのか。
そこには、地図に描かれてた事のない道が、確実に潜んでいるはずだ。
その執念からだった。
出た!
果たして、鞍部には本当に道が潜んでいた。
それは、本当に人の暮らしと間近な場所だった。
だが、実は誰一人、この場所を知らないのではないか。
そう思えるほど、深い緑に隠された場所だった。
小さくても、深く、印象に残る切り通しであった。
この、深さ5m、奥行き10mほどの切り通しは、明治に最初の打越隧道が掘られるまで、街道として使われていた道であろう。
切り通し自体は馬車も通れそうだが、その前後の道は果たして如何様なものであったか。
現在では、いずれも地形が変わってしまっており、かつての道を想定することは難しい。
ただ。
ただこの切り通しのみが、残っていたのだ。
鞍部の両側とも峠のすぐ傍まで土地は切り開かれたが、峠だけが残っていた。
切り通しから木更津側へ少し下ると、道はまたしても垂直に近い斜面に阻まれた。
足元には、先ほど道を辿ってロストした、ソテツの木の空き地が広がっている。
本来の峠道は、このまま緩やかに荻生の集落へ下っていたのかも知れない。
私はこの発見に大変満足し、晴れて打越隧道を後にした。
続いては、隧道ならぬ、洞穴の出現である。
13:04
打越隧道から250mほど進むと、すぐに次の隧道が現れる。
今度もまた、短い隧道である。
なお、ここからしばらくは内房線の線路が国道と並行する。
この隧道の名は、とても変わっている。
その名も、洞口隧道という。狭く未改良のままである。
やはり昭和18年竣工の記録があり、全長は37mと極めて短い(先の打越隧道は当初31mとさらに短かったが、現在の銘板には69mとある)。
それにしても、この隧道の名前は珍しい。
洞口というのは、おそらくこの隧道の坑口の事なのだろうが、なぜそのような命名となったのだろう。
周辺の小地名に同じ名前はない。
ただし、その読みは「ドウコウ」ではなく、訓読みになっている。
ゆえに「ほらぐち」という、聞き慣れない音だ。
達筆な文字が刻まれた銘板も健在である。
右書きで隧道名の他、竣工年月も刻まれているようだが、読み取れない。
だが、この変わった名前の隧道には、おそらく同じ名前だっただろう、先代が存在している。
旧隧道である。
この旧洞口隧道は、昭和19年版の地形図よりも前の版では、しっかりと県道として描かれている。
そして、同27年版までは、新旧道が並行する形で見えていた。
しかし、その版を最後にして、次の42年版において、旧隧道は前後の短い旧道とともに、完全に消えてしまっているのである。
ちなみに、明治36年の図において、既に旧隧道は現れていた。
この旧隧道の立地の悪さは、地図上からも一目瞭然である。
なにせ、この隧道だけが線路の向こう側にあるのだ。
隧道のためだけに、二度も連続して線路を渡らねばならないというのは、大変に不便であったに違いない。
そして、現にいま、その旧隧道へと続く踏切は全く見あたらない。
現隧道の坑口脇から、線路へと登ってみる。
この向こうに、何が待っているのか。
2mほどの高さの築堤をよじ登り、こんもりとバラストの乗った線路敷きを見渡す。
もちろん、注目すべきは線路の向こうの山である。
だが、事はそう容易ではなさそうである。
坑口とまではいかなくとも、旧道の姿くらいはすぐに見つかるかと思いきや、全くそれらしい影はない。
そこには、大きく窪んだ地形が横たわっているだけである。
森の緑は、とても深い。
だが同時に、旧隧道が現存している公算は高まった。
具体的に何かを発見したわけではないのだが、この様子では、土地が転用を受けていない事は間違い無いだろう。
となれば、旧隧道は手つかずで放置されている可能性が高いではないか。
私の捜索への意欲は、一気に高まった。
洞口隧道の旧隧道は、これまでネット上において、その存在さえ明かされてこなかった、秘中の物件である。
私が激しく興奮するのも、無理はなかった。
築堤の先には窪地があって、その窪地の底には小さな横穴があった。
だが
何なんだ。
この、嬉しくなさは…。
全くといって、キタ感が無い。
むしろ、「あ〜、来たんだ…」という感じである。
お前! 目指す隧道ではないだろ。
鉄道の築堤の真横、路盤からは土の斜面を5mも下った底に、その素掘りの穴はあった。
だが、穴は幅1m、高さも同じくらいの、極めて狭小なものである。
しかも、穴へ続く平坦部は、両側が石垣やブロックに囲まれ、この穴が水路であるということを強く主張している。
とはいえ、
穴がある以上は …
……泣けるぜ。
別に臭いはない。
微かに風があり、どこかへ抜けているっぽい。
ただ、ブヨとおぼしき小虫が、坑口付近に大量に飛んでいる。蜘蛛の巣も。
かなりテンション下がりながらも、万一を疑い、その穴の中へ。
入り口の通り、内部も狭い。
そして、5mほどで右45度の方向へカーブしている。
内壁に残された、「T.8↓」という走り書き。
“T”からは「大正」という文字をすぐに連想したが、果たして。(ちなみに、この水路隧道の上を通る内房線は、大正5年に上総湊〜浜金谷を開通させている)
素堀の内壁には、鑿跡と思われる小刻みな凹凸が無数に刻まれている。
洞床は細かい凹凸がある他はほぼ平坦で、うっすら3cmほどの水深で水に浸かっている。
カーブしてさらに10mほど進むと、断面が極端に小さくなった。
この先は、コンクリートのヒューム管である。
この狭い穴を通ってきた水は、全てこの管の中へ導かれている。
この先へは進むことが出来ない。
だが、進まずして、この先の状況は分かった。
細いヒューム管の向こうには、打ち寄せる波の飛沫が見えていた。
波の、岩を打って砕ける音が、間近に聞こえる。
この穴は、やはり水路隧道であった。
元々あった小さな沢の水が線路の築堤によって行き場を失い、代わりにこの水路隧道が掘られたに違いない。
水路は、地下に潜って鉄道の洞口隧道と国道の洞口隧道の下を通って、海へ通じていた。
地上へ戻る。
この水路隧道の坑口をもう一度見て貰いたい。
私は、ここで大きな気づきを得た。
水路の両側で、壁の作りが違うのである。
右は、コンクリートブロック。
左は、モルタルも使わない素積みの石垣。
これらは、建造された時期が異なると考えるのが、自然なのではないか。
となれば、大正時代の鉄道工事に伴うコンクリートブロックに対し、左の石垣は…。
私は、確信を持って、この石垣をよじ登った。
本当の旧洞口隧道は、きっとこの上にある!
この石垣こそが、昭和18年以前に使われていた道のものに違いないと思ったのだ。
深い緑を掻き分けながら、土を蹴って斜面をよじ登った。
築堤と思われる斜面は高く、なかなかその上の路面に辿り着かなかった。
平場だ!
どうやら、線路よりも一段高い。
遂に、線路によって完全に隔離された旧道が、眼前に出現した!
この一面の藪の中に、目指す洞口隧道の洞口が口を開けているのか?!
ガサガサガサガサ!!
あ!
ようやく発見か?!
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