2007/3/6 13:11 《現在地》
線路を越え、深い藪を辿り、道無き道のその奥に、目指す旧洞口(ほらぐち)隧道は存在していた。
明治36年よりも以前に開削され、昭和18年に現在の隧道へその役目を譲った、極めて古い隧道である。
この期に及んでなお、その姿を私の曝すことを拒むかのように、巨大な枯木が檻のように邪魔していた。
カメラは初めてその内部へ。
隧道は、驚くほどに良好な状況で保存されていた。
房州石の山を、綺麗な矩形にくり貫いて掘られた隧道は、100年を経てなお、全く綻びがない。
比較的加工しやすく、かつ水分を通しづらく崩壊しにくい。
この、隧道にとっては最も理想的な地質故に、房総半島一帯を関東の“隧道銀座”、こと素堀隧道のメッカたらしめているのだ。
大変な藪を掻き分けて発見したにしては、いささか拍子抜けをするほど、隧道は容易に私を通してくれた。
考えれば考えるほどに、この隧道は貴重な存在である。
本格的なモータリゼーションがおこる以前に廃止されたこの隧道は、おそらく、明治時代に建造された当初の姿を、かなり色濃く残していると考えられる。
明治時代の隧道が今日に至るまで、目立った改築や補強、そして崩落に見舞われず残存しているというのは、非常に珍しい筈である。
そして、この独特の矩形断面こそ、トンネル建設の黎明期を強く感じさせるものなのである。
日本における本格的な山岳トンネル建設の嚆矢とも言われる、福島県と山形県を結ぶ万世大路(現在の国道13号)にあった栗子隧道(全長876m)は、明治14年に開通した。しかし、昭和初期に拡幅改築され、現在の栗子山山中に残されている遺構は、明治当時のものではない。
その開通当初の断面は大部分が矩形であったことが、残された絵画や写真などにより知られている。
矩形の断面は、理論上最小限の掘削量で、大きな有効断面を得られるメリットがある。
これは、馬車など、人間単体よりも嵩のある乗り物が通過(或いは離合)することを念頭に置いた設計である。
現在のトンネル断面として一般的な馬蹄形は、力学的には矩形よりも遙かに優れているが、有効断面を得にくいうえ、施工にもより高度な技術を要する。
この旧洞口隧道の矩形断面は、地質に恵まれていた事を前提として、あらかじめ矩形断面で建造されたのであろう。
それは、日本におけるトンネル掘削技術の古い段階を証明する形である。
明治19年に明治政府は、内務省訓令第13号「道路築造基準」を定めて、隧道の構造として幅員三間(5.5m)以上、高さ十五尺(4.5m)以上と定めているが、本隧道はそれを満たしていないと思われる。
同令は国道および府県道に関してのものなので、本隧道が最初に掘削された当時は、まだ里道以下であったのだろうか。
はたまた、明治19年よりも古い隧道だというのだろうか。
今後、さらに調査したい。
館山側の坑口もまた、一部が崩壊している他は、ほぼ原型をとどめているようだ。
隧道は綺麗な直線であり、延長は50m程度である。
後から掘られた筈の現道トンネルよりも明らかに長いという、珍しいケースである。
その理由は、現道よりもかなり山側に坑口があるからに他ならないが、大正初期に鉄道が海岸線ギリギリに築堤を設け開通する以前、現道トンネルのあたりは磯であったに違いない。
極めて良好な隧道内部の状況に、もしかしたら館山側は簡単にアクセスできるのではないかと疑ったが、実際はこの通り。
全く、人の通っている様子はない。(そのことは、乾いた土が浮いた隧道の床に足跡一つ見られないことからも言える)
奇妙なのは、坑口から道路跡と思われる草藪へ向けて、一直線に幅1m、高さ40cmほどの石積の帯が見られることである。
何かを埋めてあるのか、或いは?
詳細は不明であるが、道路上にあったとしたら不便なものなので、廃止後に築かれたのだろう。
坑口から10mも進むと、あとは背丈よりも遙かに深いススキの藪となってしまい、容易に歩くことは出来ない。
古い地形図によると、あとは線路を渡り、海岸線で現道と合流するだけの筈である。
藪の彼方に、線路の架線が見えたので、私は満足して引き返した。
明治時代へのタイムスリップトンネルである旧洞口隧道。
夏っぽい海風がいつも通り抜ける隧道は、その古さや狭さの割に全くと言っていいほど恐怖感や土臭さのない、明るい隧道であった。
房総らしい隧道として、私の印象に特に残る一本となった。
木更津側へと戻った。
坑口前から現道までの本来の道跡を確認すべく、深い照葉樹の林を掻き分けて歩いてみた。
そこには、藪のため視界は全然効かないものの、幅3mほどの築堤の道が続いており、50mほどで線路にぶつかって終わっていた。(写真の場所)
かつてはここに踏み切りがあった筈だが、跡形もない。
私は再び線路を跨ぎ、現道へと戻った。
13:20
道ばたに置いておいたチャリを拾い、今度は現道の洞口隧道をくぐる。
こちらは幅5.5m高さ3.6mと、「道路築造基準」をしっかりと遵守した昭和18年生の隧道である。
(これを見ると、旧隧道が基準を満たしてしていないことが明らかだ)
歩道もなく、路肩さえもない、そして歩道トンネルなどもちろん無い、歩行者にとっては何とも頭の痛い隧道でもある。
いっそ、旧隧道を歩道用に使っても良いのではないかとさえ思う。
【A地点】 (←リンクをクリックすると、別窓で地図を表示します。以後同様)
洞口隧道を館山側から振り返る。
明治の旧道は、この辺りで線路を合流してきていたはずだ。
だが、案の定何の痕跡もない。
なお、これにて洞口隧道を巡る探索を終了するが、最後に一つ。
この一つ前に探索した打越隧道には、明治以前の峠道の掘り割りが存在していた。
その例からすれば、おそらく、この洞口隧道にも、その頃の道が残っている可能性はある。
いずれ発見される日が来るかもしれない。
1kmほどは特に変わったところもなく、海沿いに真っ直ぐな道が続いている。
そして、行く手には次なる隧道が見えてきた。竹岡以来、4本目となる「丑山隧道」である。
やはり昭和18年に建造された隧道であるが、打越隧道よろしく、かなり大きな断面に改造されている。
その隣には、鉄道の細い隧道も口を開けているのが見える。
そして、この丑山隧道に対応する旧道が存在する。
その分岐地点は、隧道から100mほど手前の、上の写真の地点であり、それは左の写真の通り、線路の向こうに唐突に始まるのである。
つまり、ここも踏切が消滅している。
左右をよく確認してから、チャリを担いだまま線路を横断。
線路の向こうに道路が復活する地点まで待避した直後、木更津方向へと列車が通過していった。
もう少しでニアミスであった。
ここでも、先ほどの洞口隧道の場合と同様、海沿いの現道に対して、旧道は線路を越えて大きく山側へ迂回している。
やはりここでも、鉄道による海岸線の埋め立てが行われていたのかも知れない。
踏切はなかったものの、その先の旧道には畦道程度の轍がある。
これは、旧来の道の姿をかなり残していると思われる。
すこし進むと、左の高台の斜面に「金谷国際射撃場」の大きな看板が現れる。
高台にある射撃場への分岐が現れた。
分岐の先は舗装されている。
そして、行く手に見えるは、次なる隧道の姿であった。
簡単に現れはしたが、次もまた、明治の隧道だ。
旧丑山隧道である。
その外見は、先ほどの旧洞口隧道にそっくりである。
延長まで似通っている。
ただし、これでもこちらは、現役の車道隧道だ。
特に車高制限などはないものの、トラックみたいな嵩のある車はおそらく通れまい。
舗装されている他は、旧洞口隧道そのものである。
チャリで通過しても、天井の低さには圧迫感を感じるほどだ。
舗装している分だけ、余計に天井が低いかも知れない。
また、隧道内には電線が引かれていた。
地層の描く模様が、通行者を自然に奥へと誘導するかのような、旧丑山隧道館山側坑口。
こちらは人家に近い雰囲気で、廃材やゴミと思われるものが路肩に重ねられていた。
なお、ここまでに確認された3本の旧隧道(旧城山、旧洞口、旧丑山)は、いずれも明治期の地形図から描かれていた隧道であるが、その本来の名前は分からない。
それぞれ対応する現道の隧道名に倣って呼称してきたものの、より古いこれらの隧道には別の名前があったかも知れない。
特に丑山や洞口などは、名前の由来となっただろう地名や山名を見付けることが出来ないので、余計に気になるところではある。
射撃場への道として使用されている旧道は、離合スペースもない極狭なものだ。
ここがれっきとした幹線道路だったというのだから、戦前の道路事情のすさまじさを思い知るようだ。
やがて旧道は線路にぶつかって行き止まりとなるが、その斜め後方にご覧の暗渠があって、現道へと繋がっている。
この暗渠なども、元々は水路専用であったのだろうが、踏切を廃止した際に道路化したのだろう。
13:36 【D地点】
旧道は、現道をそのまま横切って、島戸倉の集落道路として続く。
その、入ってすぐの右手に、何条もの巨大なレールが海へと消えていく場所がある。
コンクリートで固められた線路と、その脇に建つ巨大な作業場。
だが、平日でありながら、稼働している様子はまるっきり無い。
さらに近づいてみると、そこが紛れもない廃墟であることが分かった。
砂浜の自然な傾斜に、コンクリートの重厚な土台とともに据え付けられた、4条のレール。
既に赤錆びているその先は、波に洗われていた。
そしてそのまま、海中の見えない深さまで続いているのが分かった。
ここは、私が生まれて初めて立つ、造船所の廃墟だった。
潮騒の音がむなしく響く作業場。
この高い天井の下で、幾隻の船が生を受けたのだろう。
旧道は、廃墟の作る大きな影の下を通って、長閑な島戸倉集落へと続く。
静かな砂浜を囲むように続く旧道。
沿道には瓦屋根の民家が多い。
集落の向こうに見えている緑の尾根で、この集落は終わる。
この先、地形図では行き止まりとして描かれているが、直前の道の形から考えて、ここが旧道であることは間違いないだろう。
私は、この部分を明かしたいと思い、さらに進んでいった。
すると、地形図の正確性は侮れず、みるみる道は落ちぶれていくのだった。
弓形の浜に沿って続く道は、特に分岐もないまま、その端へ着いた。
すると、突如舗装が途絶え、なおも進んでいくと、漁船がたくさん係留された浜辺になった。
既に車が通れる状況ではない。地形図ではもう道は消えている。
写真は、島戸倉集落の端の漁港部分から、集落方向を振り返る。
奥に写っているコンクリート吹きつけの壁は、国道の法面である。
国道と、この道(旧道の筈)との間には、民家が建ち並んでいるだけで、他の道はない。
さらに進むと、人が踏み固めたような磯べりの道になった。
眼前に、これまでの岬よりふたまわりは大きな尾根が現れ、海へ落ちるまで粘っこく続いている。
この辺りに隧道があっても良さそうな景色だが、深い藪に覆われた崖線をつぶさに調べることは難しい。
やがて、踏み跡道は二手に分かれた。
だが、これはブラフで、まるで円を描くようにして二つの道は合流し、そこに小さな石碑があってきっぱり終わっていた。
碑は水神碑のようだった。
なおも諦めきれず、海に降りて海岸線を捜索したが、既に道の跡もなく、最終的には磯を岬の突端まで歩いて終わった。
この小さな半島を越えるルートは、明治期の地形図から既に、隧道であった。
それは現在でも旧隧道として描かれているものであり、昭和の隧道と明治の旧隧道という役者は揃っている。
おそらく、明治の隧道が出来る以前の峰越えの道は、この辺りのどこかから山へ入っていたと考えられるのだが、見付けられなかった。
現在地は【E地点】である。
ここから【F地点】までの間に、赤いラインが繋げられていない部分がある。
この部分は、悔しいけれど、旧道を特定できなかった。
最もありがちなのは、現道工事によって旧道が寸断され、さらにそこに民家が建ってしまったというパターン。
だとすれば、繋がらなくなってしまったことも納得できる。
この日の探索では、ここが最大の心残りとはなったのだが、やむなく現道【F地点】へ廻った。
13:45 【F地点】
これが、島戸倉隧道である。
やはり昭和18年の建造だが、これまで数本の隧道と同様、かなり拡幅されている。
また全長は82mと記録されているのだが、拡幅の際に少し延長された形跡がある。
洞内が大きくカーブしているのも特徴的だ。
そして、ここから唐突に右へ分かれるのが、この隧道に対応する旧道である。
次回、遂にこの探索のクライマックス、明鐘岬へと舞台は移る。
目指すは、ある有名な文豪も絶賛したという、幻の隧道。
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