長い本レポートも、いよいよ佳境。
木更津から館山までの全長50数キロの房総西街道(国道127号)を、明治の初頭、馬車の通れる道として整備するとき、最大の難所として立ちはだかった海の難所「明鐘崎」(みょうがねみさき)が、以来百有余年を経て、いま“山のオブローダー”たる私の前に聳え立つ!
現役の国道でさえ険路を残すこの岬に、明治の古道は実在した!! 恐ろしい隧道とともに!!
長い本レポートも、いよいよ佳境。
木更津から館山までの全長50数キロの房総西街道(国道127号)を、明治の初頭、馬車の通れる道として整備するとき、最大の難所として立ちはだかった海の難所「明鐘崎」(みょうがねみさき)が、以来百有余年を経て、いま“山のオブローダー”たる私の前に聳え立つ!
現役の国道でさえ険路を残すこの岬に、明治の古道は実在した!! 恐ろしい隧道とともに!!
2007/3/6 13:45 《現在地》
これは、島戸倉隧道。
同名の現道トンネルのすぐ隣にあって、今も生活道路として利用されている。
現道トンネルは昭和18年に完成したものを改良して利用しているが、この旧隧道も落石覆いが坑口から延伸されるなど、大きく改良されている。
お陰で明治隧道という感じは全くしないが、明治36年版地形図にあってもしっかりと描かれている古参である。
木更津側から覗き込むと、隧道はカーブしているように見えるが、短い隧道の反対側、館山側から見れば、それは落石覆いの延伸によるものだと分かる。
ちょうど延伸された部分だけは幅員が広く、隧道の前後が直角に近いカーブであるという悪線形を、少しでも緩和しようと努力した形跡だ。
一応歩道も設置されているが、実際私が探索している最中にも数台の車が勢いよく通り抜けており、通行量は意外にあるようだ。
同じ隧道とは思えない館山側坑口。
元もと素堀であったものを拡幅し、そこに鋼鉄の壁をあてがっただけの隧道故、坑門や扁額といったオシャレは全くない。
延長も30m程度と極めて短いから、開削されてしまわなかったのが不思議なくらいだ。
軍事道路として、昭和の比較的早い時期に新トンネルが建設されたことが、功奏したのだろう。
短い島戸倉隧道を抜けると、すぐに現道へ合流する。
そして少し下って海岸とほぼ同じ高さになると、そこが芝崎の集落だ。
ここには近年、巨大な半ループ橋が海の上に作られ、それが国道を跨いでいる。
この道は一般県道237号浜金谷停車場線であるが、
地図を見るとこの道は変だ。
淡いオレンジが国道、濃い青がこの県道「浜金谷停車場線」
にしてもこれは、あんまりにも節操がないんじゃね?
これ、「浜金谷停車場線」という一本の道が、実際には二本の全く関連のない道に分かれています。
一つは元もとあっただろう、国道と駅を結ぶ100mほどの道。
そして、高速道路が開通したときに自治体では相当悩んだんだろうなー。「県道を新設したいけど、枠がなーい!」とか。
で、強引きわまりない策に出たと。
近くにある短い県道を、強引に引き延ばし、全く路線名とも関係のないICへのアクセス道路にしてしまったのだから。
節操のない県道と別れ、その下を潜り国道は続く。
すると間もなく次のトンネルが現れる。
竹岡から、続く一連の隧道連続地帯のトリをつとめる、「大日隧道」である。
ちょっと厳つい名前をしてはいるが、これまたとても短い隧道である。
まるでそこを通ってくれと言わんばかりの、出来すぎた鞍部を軽く貫いている。
これ、なんか間抜けな景色だと思いません?
大仰な隧道で森を貫く国道と、その脇にヒョロッと伸びる旧道の軽やかな“スルー”。
明治のかつては、この旧道にこそ大日隧道はあったようだ。
そうでなければ、時代下って昭和18年、わざわざ切り通しの隣に隧道を掘ったとは考えられない。
ただ、昭和28年の地形図にあっては、既に旧道は明かりとなっていた。だから、ここに新旧隧道が並んだ景色は、ごく短期間だけのものだったろう。
現在では拡幅を受けて普通の姿となった大日隧道(全長32m)の隣に、切り通しの旧道がある。
この写真は館山側からの景色だ。
この旧道も、狭い割に通行量がある。
掘り割りの先の道はそのまま、金谷地区の住宅地へと入っていくためだ。
私もそのルートを辿って、いよいよ鋸山の北の麓、明鐘岬の入り口の街、金谷へと入った。
2007/3/6 13:52 《現在地》
金谷は広大な富津市の沿岸最南端にある街で、明鐘岬となって東京湾へ没する鋸山の北麓に位置する。
ここには、現在房総半島の東京湾岸では唯一、旅客船の港である金谷港があり、東京湾フェリーの運航するフェリー船が、約40分で三浦半島の久里浜港との間を結んでいる。
かつて、陸路が現在のように発達する以前には、東京湾内を横断する旅客航路は豊富にあり、複数の船運会社が鎬を削っていたのだが、現在は東京湾フェリーの一航路のみが残っている。
それとて、アクアラインの開通によって打撃を受けており、将来的に東京湾口道路が開通した場合には、廃止される可能性もあるといわれている。
金谷の街中の旧道は、現国道の一本山側を通っている。
その木更津側の入り口からJR内房線浜金谷駅前までは、前出の県道237号に指定されており、その先も全て生活道路として現役だが、見ての通り、見通しの悪い狭い道である。
だが、昭和20年代の地形図に現道は現れておらず、先ほどくぐった大日隧道までで戦前の道路改良が限界を迎えたことを示唆している。
そのことは、浜金谷以南の各隧道の竣工年を見ても明らかで、昭和24年以降の物が大半を占める。
つまり、昭和18年の「特34号国道」指定と同時に南北から開始された軍事道路工事は、北側より大日隧道までを改修して中止され、戦後数年の空白期間をおいて工事が再開したということである。
町内の旧道は800mほどで再び現道へぶつかる。
その途中では金谷川を小さい橋で渡っており、そこを境に明鐘岬を終点とした西南進が始まる。
前方に写る、鋸歯のようなギザギザの稜線は、鋸山から明鐘岬へ達する尾根である。
山の名の由来となったギザギザは、古くから房州石を切り出した採石場跡がそうさせる物であり、お陰で山中には「十州一覧台」や「地獄覗き」などの展望地が多い。正式な山名は乾坤(けんこん)山という。
また、全山は「日本寺」の境内林であり、篤い信仰の対象ともなっている。
はたして明鐘という秀美な響きは、どこから生まれた物だろうか。
14:00
一旦現道に合流した道は、その後もう一度、山側へ旧道を分かつが、それもすぐに一つに戻る。
そして、いよいよ鋭い鋸刃の先端へ向け、海崖の端を行く道となる。
歴代の道も選択の余地がなかったらしく、街道時代より一つのルートに重なっているようだ。
ただし現道は、巨大なロックシェッドや無数の擁壁を駆使し、2車線歩道無しを死守している。
なんね これ?
穴だよ…。
いや… 房総は本当に穴が多くて、防空壕なのか倉庫なのか、ここに来る途中も民家の裏手の小山だとか、道路脇だとか、いろんな所に素堀の小穴を見付けていた。
だから、穴だと言うだけならそんなに反応しなくても良いのだろうけど、ちょっとこの穴は場所が反則的だ。
これじゃ、気になるじゃんかよー…。
国道っ端の法面の少し高いところに見せている横穴らしき影。
近づいてみると、やっぱりそれは穴だった。
しかも、海蝕洞の雰囲気ではない。人工の穴か。
隧道が考えられる向きではないので、おそらく何でもないのだろうけど…。
ここまで近づいちゃうともう駄目だ。 入らなきゃ駄目だ。
落石防止ネットがくせ者で、それと地面との隙間が小さいもんだから、堆積した落ち葉を寄せた上、這い蹲ってようやく進入できた。
そこは車がビュンビュン駆ける路肩であるから、這い蹲ってもぞもぞする私の姿は、さぞ異様な光景に見えただろう。
だが、穴に入れた今、そんなことはどうでも良い。
…奥行き 3メートル (涙)
いや!
下があるぞ!
路面よりもさらに低い地底へ下る、ほぼ垂直の穴があった!
だが、これはいったい何?
辺りには民家はなく、かつて人が住んだ気配もない。
考えられるのは、場所柄… 軍事関連の… 戦跡遺構なのか…?
ワクワク半分びくびく半分で、淀んだ闇へと下ってみる。
地階?も、奥行きはやっぱり3メートル(涙)
ただ、奥の壁には、グロテスクを形にしたような節足動物がへばり付いていた。
これはゲジゲジ虫なのだが、私がオブローダーとして初めて(物心付いて以来と言っても良い)ゲジゲジと遭遇したのは、今年関東へ移住してきてからなのである。
はじめ山梨県内のある鉄道遺隧道内で遭遇したときには、カマドウマを遙かに凌駕するその気持ち悪さに、気が遠くなった事を忘れない。
そう、何百の廃隧道を辿ってきた中で、関東へ来て初めてゲジゲジに遭遇したのである。
これから関東へ移住を考えている東北オブローダーの皆様! 覚悟してほしい!ヤツはキモイぞ!
ちなみに私は、最初の遭遇でかなり精神的グロッキーになったことを反省し、関東でも通用するオブローダーたるため、奴らの巣窟である鎌倉へと足を運んだのだった。今年3月である。
そして、そこで壁一(ry
何ら人工物を見ることもないまま、この穴を後にする私。
果たして何だったのだろう。
元もと地中に空洞があった物が出現したとも考えにくいので、誰かが掘ったものに間違いないとは思うのだが。
まさか、米軍の爆弾が落ちた跡?!
14:08 《現在地》
金谷の最後の民家から1kmほどで、明鐘岬の大岩が眼前に現れる。
ここが鋸山から下りてくる主稜線で、その向こうは安房(あわ)郡鋸南(きょなん)町である。
ただし、明鐘岬の最大の難所は、まだここではない。
近づいていくと、現道に覆い被さるロックシェッドが現れた。
ロックシェッドの奥はそのまま隧道に繋がっており、それは岬を貫く明鐘隧道であった。
資料に拠れば、この明鐘隧道の延長は108m。昭和26年の竣工と記録されている。
そして、この隧道を迂回する、より古い道筋である小道が、右へと分かれていく。
現役の明鐘隧道は、坑口に大きな標識で示されているとおり,歩車道の分離もない恐ろしい穴であるが,古い地形図に拠れば,旧道にもこれに対応する短い隧道があった筈だ。
果たして現存するのか?
私は、迷わず旧道らしき小道へ進路をとった。
その脇を、猛烈な勢いでトラックがぶっ飛んできた。
こんな恐い穴には,私入れません(泣)
現在、岬の突端部分は,不自然に平坦な土地となっており、そこに小さな喫茶店がぽつんとある。
この店の出入り口として、旧道は現役だった。
そして,肝心の隧道は存在しなかった。
写真は、岬突端付近から来た道を振り返っている。
現道のロックシェッドの向こうに広がる,さながら氷河地形(カール)のような巨大な谷は、房州石採掘のために削りとられた山の跡である。
そしておそらく,すぐそこのブルーシートの向こうの浅い掘り割りこそが,旧隧道の開削跡であろう。
ここが間違いなく,古い地誌にて「関東の親不知」と恐れられた難所,明鐘岬の突端にある旧道なのである。
それが思ったほど険しい場所に見えないのは、採石によって地形が大きく変わったためだろう。隧道もそれで開削されたのだろう。
喫茶店の先、現道へと戻る部分の道。道幅よりもかなり広く平坦地があり、地形の改変は著しい。
私は通りすがりに、店の前にいた店主とおぼしき女性に訪ねた。
かつてここの旧道に隧道があったのか否かと。
答えは、彼女がここで暮らしてきた期間内については否。それ以前については(当然のことながら)不明とのこと。
ただし、ここで得た証言は、この数分後の私に、戦慄と歓喜の遭遇劇をもたらすこととなる!
「ここには隧道はなかったと思うけれど、この少し先には、埋められた隧道があった。」
来たか! 真性の廃隧道!!
明鐘岬の突端で折り返した旧道は,そこから砂利道となって,そのまま,現道の明鐘隧道南側坑口の先,隧道から連続するロックシェッドの外の歩道に合流した。
こういう接続だから,車は通れない。
この辺りが,明鐘岬付近では最も海に近い場所を通る部分だ。
普段から波の低い東京湾だが,この日は西風が結構強く吹いており,磯には波濤が渦巻いていた。
細かな凹凸を付けながらも,おおむね弓なりを描いて続く西海岸が,遠くの南無谷崎あたりまで一望された。
現道に合流。ここはもう鋸南町である。だが、次の集落の保田までは、もう1.5kmほど海の難所が続く。
ロックシェッドを過ぎるとすぐ、左に幅の広い分かれ道が現れた。
しかし、この分岐には青看が無いばかりか、国道側には一切分かれ道を示すような表示がない(道路標示含め)。
それなのに、この道の入り口には「鋸登山自動車道」と大きな看板が建ち、少し奥には料金所が見える。
実はこの道、ある部門では日本で一番
いや、世界で一番の道なのである。
この「鋸山登山自動車道路」が世界で一番だというのは、私道として世界一の長さだと言われているのだ。
正直信じがたい話だが、鋸山観光社が所有するこの全長2.6kmの有料道路は、鋸山登山の便のため昭和50年に開通している。
工事には10年以上の歳月がかかっており、大変な難工事であったと言われる。
休日には多くのマイカーが訪れるこの道だが、あくまでも自動車専用の有料道路である。
残念ながら、私にはその景色を楽しむ権利はない。
途中には、素堀吹きつけの隧道もあるそうだが…。
分岐を素通りして先へ進むと、間もなく次のロックシェッドが現れた。
そこには、「潮噴隧道」の銘板か掲げられており、「え? エッチな名前 これは洞門じゃあ?」という疑問を持つ。
だが、ロックシェッドの奥に、ひときわ暗い円弧が見えた。
なるほど、アレが本来の潮噴隧道というわけだ。すごい短小そうだ。
なお後日、持参したよりも古い明治36年の地形図を確認したところ、先ほどの明鐘隧道とこの潮噴隧道との間に、もう一本、短い隧道が描かれていることを確認した。
その位置は、大体鋸山道路の分岐付近であろうか。昭和2年の版までは存在していたが、次の昭和10年版ではすっかり消滅していた。
名前も知らない、明治隧道の幻である。
嵐の日には、潮混じりの激風が駆け抜けることもあろう。
極めて無骨、コンクリートフランケンとでも呼びたくなるような隧道。
隧道坑口からその前後にかけて、視界にまるっきり緑が入らないのが原因か。
潮噴隧道。資料によっては「汐吹隧道」とされているトンネルだ。
昭和26年の竣工で(実際には明治期の隧道の拡幅改良)、全長は24mある。
これは短い隧道が多い国道127号線の中でも、最も短い現役隧道だ。
なお、明治21年にこの隧道が開通する以前、この潮噴の岩場には旧道と呼べる道さえなかったらしく、明治4年に旅をした小川泰道は「岩山手仭、道塗もまた岩道にて、奇景いわん方なし」「右に石崖見臨み、左は岸壁千伏」と書き残している。
隧道よりも遙かに長いロックシェッドに両側を押さえられた潮噴隧道。
その一連の暗がりを抜けても、またすぐ先に同じようなロックシェッドが見えていた。
そして、この場所こそが、先ほど明鐘岬の主が語った「旧道」の、入り口である。
私は身を固くした。
ちょっと拍子抜けか。
かなり危険な旧道が分かれていくことを覚悟したが、そこには真新しい舗装が残り、釣り人のものと思われる車が停まっている。
現道はこのロックシェッドからそのまま元名第一第二の隧道を連ね、そのまま元名の集落へ入っている。
この間約350メートル。
私の肥大化した期待を叶える景色は、果たしてあるのだろうか。
うむ。
入り口の見た目はさしたる廃道でもないが、看板の雰囲気は出ている。
ロックシェッドが途切れるまで、舗装された旧道に沿って、こんな警告の看板が立ち並んでいた。
元名第一隧道(全長120m、竣工昭和26年)の坑口脇、旧道は柵に止められた。
次回はこの奥に、初代・明鐘隧道を捜索する。
オブローダーの天敵現る?! 接近遭遇に備えよ!!
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