国道127号 旧道及び隧道群 明鐘岬編 最終回(2−7)

所在地 千葉県富津市・鋸南町
公開日 2007.6. 4
探索日 2007.3. 6

 明金の内に八町許り難所あり、荷付馬通る事ならざる間一町半あり
水戸光圀 著『甲寅紀行』 延宝二年(1674) より

明治に入り、各地で馬車の通れる道路が建設されるなか、鋸山の険しい尾根が東京湾に垂直の崖となって落ち込む明鐘岬一帯にはなお、磯伝いに人一人がようやく歩けるような道しかなかった。
ここに初めて近代的通路を拓いたのは、初代安房四郡(平、安房、朝夷、長狭)の郡長であった重城保(じゅうじょうたもつ)および、2代目郡長の吉田謹爾(よしだきんじ)であった。
このうち重城の偉業は、昭和2年に刊行された「君津郡誌」によって次のように讃えられている。

最も力を交通運輸の事に尽くせり、上総湊より安房保田に至る間は、鋸山盤踞し道路険悪難険を極む
而も人皆之を天険と称し、不可能となし敢て修築を夢見るなし
保、蹶然として起ちて曰く、奮励努力人事を尽して以て造化の圧抑を脱せんと
乃ち県に請い郡に諮り、苦心惨憺巉巖を穿ち、谿谷を埋め橋梁を架し、険峻を削平し、隧道を開鑿する十数ヶ所、遂に坦々砥の如き道路の竣成を見るに至る
人以て之を神とし徳とし称嘆止まず

ちょうどこの範囲は、今回のレポ(明鐘岬編1〜7回)と全く一致するが、明治21年の明鐘街道開通の時点で既に、十数本という数の隧道が存在していたようである。
ちなみに、この区間で私がここまでに確認できた明治隧道を列挙すれば、

“ 城山(旧道)、打越(現役)、洞口(廃止)、丑山(旧道)、島戸倉(旧道)、大日(開削)、明鐘(開削)、??(開削)、潮噴(現役) ”

の合計9本である。
君津郡誌にある「十数本」と言う表現は、最低でも11本以上を示すであろうから、もう2本以上の隧道があったということなのだろう。
最終回となる今回、もう2本以上の隧道を確認することが出来たのであろうか。


最後の隧道を捜索せよ!  

元名隧道の旧道 


2007/3/6 14:18 《現在地》

それでは、本編最後の区間である元名隧道の旧道部分へ進む。
入り口は、ガードレールを横向きにしたもので塞がれているが、自転車や徒歩ならば容易に入れてしまう。
「この先通り抜けできません」の看板も立てられている。

左のコンクリートの躯体はロックシェッドで、すぐ先から元名第一隧道となっている。
元名第一隧道は、昭和26年に開通した全長120mの隧道である。



現道と旧道とは、僅かな岩盤を隔てて並行しているのだが、相手は隧道内であるから、その存在を意識することはない。
路面にはアスファルトが微かに残っており、それを覆い隠すようにして、背の高い薄のような植物が蔓延っている。
確かに廃道は廃道なのだが、道幅の外にも平坦な草むらがかなり広がっており、依然として、「関東の親不知」というほどの難所ぶりを感じることは出来ない。

この平坦な土地の存在は、隣に掘られた狭苦しい隧道と対比すれば、不自然であること限りない。



私が感じた不自然さを解消するヒントは、旧道の法面というには余りに大袈裟な、旧道脇の崖の補強にあった。
これほど大規模な工事が、昭和26年の現道開通以前に行われたとは、全く考えられない。
つまりこの大規模な工事は、この崖の地中に存在する現道を、崖の崩壊から守るために、比較的近年行われたものだと断定して良いだろう。
そして、この補強工事を行うにあたって、廃止後荒れるに任せて放置されていただろう旧道の小道が拡幅され、作業場として使われたのではないか。

旧地形図によれば、ここにも現在の隧道より遙かに短い隧道が描かれている。
元名第一隧道の旧隧道と言うべき存在だ。
だが、この隧道もまた、跡形もなく消滅していた。
この明鐘岬の区間だけで、旧隧道の開削・消失は3本目となる。
残念なことだが、これはやむを得ない。



図中の赤いラインは、昭和26年に現在の元名第一、第二隧道ルートが開通する以前の明鐘街道である。
現道は2本の隧道が繋がっているように描かれているが、もともとはちゃんと別々の隧道であった。
そして、そのさらに海側に、明治の街道が通っていたのである。

残るは喫茶店で聞いた、埋められたという隧道の所在だ。それがおそらく、この区間最後の隧道となるであろう。



旧道はその先で突如、深いススキの海に没してしまった。
先ほどまで敷かれていたアスファルトは消滅し、路面の平坦さえ失われている。むしろ、人為的に盛り土して道を塞いだようであった。
そして、その盛り土の上はススキの天国だった。

ほんの僅かな、人一人分にも満たない掻き分け道を10mほど進むと、小さな窪地が道を横断するようにあった。
もはや、本来の旧道の地形は全く残されていない。
その窪地に沿って、視線を山側へ向けると、そこには轟音を漏らすコンクリートの坑口がある。
これは、元名第一第二隧道を繋ぐロックシェッドであり、その窓が海側へ向けられているのだ。
なお、窓は柵があって出入りできない。



チャリと一緒に溝を乗り越えるも、その先はお先真っ暗といったご様子…。

「埋められた」とはっきり言われた隧道である。
残念ながら、目に見て分かる形に現存するわけが無かったのかも知れない。
そもそも、坑口へと続いていた筈の道は、全くその形を無くしている。
地形も変わり、さらに3月とは思えぬ猛烈な藪に隠されている。
ここを闇雲に掻き分けて捜索しても、何かが出てくる感じはしない…。



片手は海。
現道も十分海沿いの道ではあるが、旧道はさらに海べりに通じていたことになる。
そこに、数はたくさんあった隧道だが、どれもが短く、どうしても必要な場所に申し訳程度掘られたに違いない。
明鐘街道などといっても、難所には変わりなかったのである。

だが、それだけに、今の道よりも遙かに、旅人の印象に残る道だったらしい。
明鐘街道開通当時、夏目漱石をはじめ多くの文人がここを通り、その景観に魅了されたといわれている。



チャリを藪に停め、足元に伸びる踏み跡をさらに辿ってみた。
だが、その道はみるみる崖を下り、すぐに磯へ下りてしまった。
なるほど、磯伝いに行けと言うことなのか。
まあ、単身ならば不可能ではないだろう。
というか、明鐘街道が開通する以前には、多くの旅人がここを越すのに磯を歩くか、或いは小舟に頼ったというのだから、ある意味この磯こそが最古の道である。
江戸時代の房総往還もここにあったわけだ。

しかし、このまま進んでも、目指す隧道を見付けられる可能性はない。
私は、先ほどの藪へと戻ることにした。



旧道の高さまで戻った。
道は、奥から来て、手前右側の藪へと進んできたはずである。
全くそこに道は見付けられないのだが、隧道の何らかの痕跡を得るには、この藪へ入るしかないだろう。

意を決して、ススキの藪へ頭から潜り込んだ私は、思いがけず、すぐに藪の外へと出た。

   …だが、そこは……。




緊張の5メートル


14:24 

  !!

  予想外の事態に遭遇!



かつて道であっただろう狭い平坦地は、藪が切り開かれ、僅かな畑になっていた。
その畑を取り囲むようにして、竹製の柵が張り巡らされている。
さらにその外側には、膨大な量の空き箱、そして水の入った様々なペットボトル。
なぜか置かれたハンガーや、中身の入ったゴミ袋の山…。
道の跡は、既に足の踏み場の無い状態に近い。

藪ならば別に良かった。

だが、これは……!



  嗚呼…
ここを通らねば、
先へ進めない…

ご、ごめんなさ〜〜い。 通りますお…。


番地のないこの場所に、民家…。
誰かが、この藪の中に暮らしていることは間違いない。
新鮮そうな果物も、袋に入って置かれていたし…。
生活の臭いがありすぎる。

私は、ただただ、恐れ入りながら、速やかに、その軒先を通らせていただいた。
勝手に入っているこの状況で、もし見つかったら、怒られるんだろうな。
変わった暮らしはしていても、正当な土地の持ち主の可能性もあるんだしな…。 恐いな。 

この展開には、いつもの廃道とは全く違う、それでいて、並大抵ではない緊張を強いられることになった。



ちくしょう!
ここまでリスクを冒したのだから、何かあってくれよな!

私は、祈るような気持ちで(祈りの成分の80%は、遺構の発見ではなく、主の帰宅のないことであったが…)、キャンプの奥へと進んだ。
キャンプから、かつて隧道があったに違いない岩盤の袂までは、3メートルくらいの距離しかない。
間に浅い藪はあるが、人の存在など丸見えと言って良い。
ここでの私の行動は、常に遭遇の危険をはらんでいる事を、嫌でも意識させられた。

勝手な思いこみかも知れないが、オブローダーにとって土地の占有者とは、天敵である。
無論、相手が正規の占有者であれば、我々の張り合う権能はゼロだが、そうでない場合…
お互い不法潜入者であった場合…… 
はたしてそこに、どのような遭遇劇が巻き起こるのか。

幸か不幸か、私は未だその経験を持たない。







ズガーン!


ありやがった!

なんと! 
石造りの坑口!!



この区間11本目となる隧道は、なんとまだ現存していた。
おそらく、“住人”の他には誰の目にも触れなかったと思える、埋れかけた隧道。
もちろん現道からは全く見えないし、旧道の存在さえ窺い知れないはずだ。

これが素堀の隧道だったら、これほどの興奮にはならなかっただろう。
これは本当に驚いた。意外だった!
なにせこの日の探索では、「旧洞口隧道」や「旧丑山隧道」のように、明治の開通当初の姿のままで現れたと思える隧道は幾本かあったが、いずれも素堀であった。
房総の素掘り隧道に恵まれた恵まれた地質が、それを許した部分はあろうが、正直、土木構造物を鑑賞する視点からは、物足りなさを感じないわけではなかった。
東京湾を挟んだ向こう岸、横須賀の街に幾つもあるような、煉瓦や石組みの隧道が見たかった。

そして、最後の最後。
ここに来て遂に、その無責任な希望が叶った!!



当時撮影された明鐘街道の写真である。
現在のは藪が深くてこの場所から海は見えないが、すぐ足元に海があるので、地形的には一致していると感じる。
ここに写っている隧道こそが、目の前にある隧道に違いない!

この写真が撮られた当時、近くには現在では失われている他の隧道も多数あったはずだが、敢えてこの隧道が撮影された理由は、石組みの坑口が珍しかったからなのか。それとも、風景の美しさゆえか。

左は古写真の坑口部分を拡大したものだが、目の前の坑口と同じ形状をしている。

坑門は壁(スパンドレル)を持たず、迫石や要石からなる石造アーチのみデザインだ。
石造アーチは1枚巻きが普通なのに、3枚巻きになっていて、しかも各層のツラが少しずつずれているのが、意匠的な意味での変化になっていて美しい。
2層目と最も外の層には、迫石よりも大きな要石があり、特に最外層の要石の尖ったデザインは、とても珍しい。

残念ながらこのように坑門上部の僅かな部分(全体の6分の1程度か)しか露出していない。そして扁額は見当らない。



土砂崩れで埋れたというよりは、故意に埋め戻されたように見えるが、土砂が少し足りなかったのか、或いは完全に埋めてしまうことが惜しまれたのか、微妙な開口部を残している。
しかも木の板で塞ごうとした形跡もあるが、それも少し隙間が……。

隙間の存在は、毒だ。

辛い!

だって、入りたくなるじゃん!!!

悪いとは知りながら、つい、身体が捻じ込めるところまで、板や瓦礫を取り除いてしまう私。

ああ、こんな姿を“住人”に見られたら、なんて言われることか…。

でもでも。

我慢できない…






30cm四方くらいの漆黒の窓が現れた。

私は、まずここにカメラをぶち込んでみた。

パシャリ…


まずはフラッシュを焚かずに撮影したのが右の画像。
真っ暗なのか。何も写らなかった。

微かに風がある気がするのだが… 閉塞しているのか。

もう一枚…



パシューン…

今度はフラッシュを焚いた。
すると、僅かにカーブして続く、見事な石壁アーチが写った。


それに、奥の方はやや緑がかって明るく見える。
やはり、閉塞はしていないようなのだ。
抜けられるのかは分からないが…








 あー!  入りたい!!






なんだか…

坑口付近でモゾモゾしていたら…


気づいたときには もう




潜入!! 旧明鐘隧道!



またネコマタスの力を借りたのだろう。
余り記憶が無いのだが、私はその縦横30cm程度の隙間から、どうにかこうにか内部へ入ったらしい。
出られるのかという疑問もあるが、それは大丈夫。
入るときに、足がちゃんと地面に着くことだけは、確かめていた。(この穴から出られなくなったら、死ぬしかなくなるかも知れないからな。笑えないぜ。)

乾ききった洞内の冷気。
私の侵入で一気に攪拌され、埃の粒が舞飛んでいるのが見える。
写真は、僅かに開口部を残す坑口を振り返っている。




房州石であろうか。
人の手で調製されたであろう、鑿の跡がびっしり刻まれた石材が、壁をアーチに覆っている。

光の通り道のか細き故に、より眩しく見える開口部。
そこから採り込まれた光が、凸凹のある壁にうっすらと陰影をつけている。

私はその光景の余りの美しさに、物語の中の神殿や、伝説の王の墓を見た気がした。

2022/7/16追記

やべーぞこの石の積み方!

禁断の“芋目地”全開だ!

芋目地というのは、四つ角が揃っている積み方のことで、隣り合う石同士の摩擦力が頑丈さの重要な要素になっている石造構造物にとっては、禁忌の一つとされる積み方である。
シンプルだから熟練者でなくても早く詰める良さはあるのだが……。ちなみに、ブロック塀なんかもこの積み方をされているが、あれはたいてい芯にとして鉄筋が入っているので別だ。


石造隧道における芋目地を認識したのは、2018年に探索した石川県は能登半島の恋路海岸の古隧道が最初だと自覚していたのだが、それより11年も前に訪れていた明鐘の明治隧道の画像を今回改めて見直してみて、言い逃れの余地を持たない完璧な芋目地だったことに気付いた。これは、全体がそうだったんじゃないか?

右写真は、側壁部分だ。アーチと側壁の目地は連続していないが、それぞれは芋目地になっている。
通常なら、垂直方向の目地が互い違いになるように積まれるはずだ(布積みという)。

……もっとも、芋目地が危険だというのは、私の実体験から来る話ではない。
そう言う話を聞いたことがあるというだけで、現実にこの隧道は、相当に長い間崩れずに、本当にたった一つの石材の離脱もなく、完全に原形を留め続けていたのである。
芋目地だと、一つ石が落ちてしまえば、その周囲がガタガタになって連鎖的に崩壊していくはずだが、たった一つも落ちないために、原型を止めているようである。

この点はやはり、積み方が丁寧であったとか、房州石の石材自体の堅牢性、地下水の影響を受けていなさそうな恵まれた地質、根本的に頑強なアーチ構造であることなど、いろいろな好条件のおかげなんだと思う。
アーチでない石垣だったら、もうとっくに崩れていると思う。大正12(1923)年の関東大震災では、並行する内房線の隧道が多数崩壊するなど周辺では大きな被害があり、それを体験しているはずなんだがな…。まあ修理されている可能性も十分あるがな。応急修理だったから芋目地とかな…?
しかしまあ、アーチについて芋目地でも十分耐久力が得られるんだったら、積みやすいこの積み方で良いじゃんってなっちゃうよな。

いやはや、驚いたよ。自分の豪快な見逃しに。 知識なく見ると、この不自然さに気付かないんだな。



さて、この隧道は何という隧道だったのか。

立派な坑門にも銘板は見られず、現地にその手がかりはなかった。
だが、当時の資料に拠れば、明鐘隧道と称されていたらしい。
この名前は、現道の隧道にも受け継がれているが、ただ、場所が異なっている。現道では、明鐘岬の突端付近にある隧道が、明鐘隧道である。

旧道にも多数の隧道があったことはこれまで述べたとおりだが、その名称が残されているものは少ない。
故に、私はこのレポでも一貫して、隣にある隧道の名を借りて「旧○○隧道」と表現してきたのである。(その例に倣えば、この隧道の名称は「旧元名第二隧道」と呼ぶべきである)
ただ、この明鐘隧道に関しては、写真とともに名前も残されている。
明鐘岬に一番最初に掘られたのがこの隧道だったから名付けられたのか、はたまた、別の理由があったのか。



「旧明鐘隧道」は、明治隧道としては珍しく、中間部分で10度ほど右へカーブしていた。
そして、ちょうどその辺りから(上の写真の位置)、壁の石組みは消え去り、見慣れた素堀に変わった。
あとは出口まで一直線(左の写真)である。
隧道の全長は80m程度だろうか。

近づきつつある出口。
たっぷりの光が溢れている。
だが、柵が見えるぞ…。



そして、館山側の坑口へと内側から到着。
そこは、両開きの金網扉に施錠がされ、通り抜け不可能となっていた。
流石にこれは、出られることを確認したつもりとはいえ、あくまで“つもり”だっただけに、良い気持ちはしなかった。
つか、滅茶苦茶恐いって。
今頃、キャンプの主が戻ってきている可能性もあるわけで…。

金網の先の外は、庭のような雰囲気。
そのさらに向こうには、現道のものらしいロックシェッドが見えていた。



隧道の全容を振り返って撮影。

この通り、隧道は非常に良く原形をとどめている。
特に崩壊は見られず、現役でも通用しそうだ。(流石に自動車が通るにはギリギリの狭さだが)
遠くに見える小さな白い点は、私の侵入した木更津側の開口部である。
ちょうど隧道の中程、カーブのところから、石による巻き立てが行われている。
地質が良くなかったのか。まさか、見栄えのためだけなんて事は無いであろう。

さて長居は無用だ。帰ろう。




 旧明鐘隧道の南口


再び モゾモゾ、モゾモゾ。


出来るだけ静かに、這い出てみた。

体の重心が穴の外に移った瞬間、私は強い安堵の気持ちで、思わず体の力が抜けるのを感じた。

そのくらい、緊張していたのだろう。




外へ出てみても、まだ主は不在だった。
すぐにでも立ち去りたかったが、最後に忘れず、元のように入り口を塞いでおいた。
おそらく、この穴から立ち入ろうとする人はもういないだろうが、あくまでも、最初の状態を再現する程度の、緩い埋め戻し方にした。



帰りもキャンプの前(と言うか殆ど中だな)を通った。
藪がひどくて、そこ以外に選択の余地がないのだ。
しかし、あと数歩で脱出できると言うときに、何を思ったか、私は藪から滑り落ちた。それこそ海岸線の近くまで5mほども。
擦り傷を負った程度だったが、馬鹿である。
よほど私は小心者だ。

で、ようやくチャリを回収し、緊張が解けたのはその数分後だった。



旧道を引き返し、現道との分岐まで戻った。
そして、今度は現道の元名第一第二隧道を通って、本編の終着点保田へと進む。

全長120mの第一隧道は、この道の他の隧道と同じで、かなり窮屈なものであった。
だが、私の心はとても晴れやかだった。



つい先ほど、外からこの窓を見ていた。
第一第二隧道を繋ぐロックシェッドである。
そしてすぐに第二隧道へ入る。
こちらは全長97m、昭和25年の竣工である。
隣の旧隧道のような石組みの風情などあるはずもなく、機能一辺倒、コンクリートのぬっぺらぼうである。



午後2時39分、本編開始から3時間半あまりを経て、明鐘岬を挟む区間を終えた。
今日の目的地である館山までは、まだ南無谷崎の難所が控えているが、それでも道中最大の難所は越えた。
思いがけぬ“天敵”とのニアミスは恐かったが、文化財級の石組み隧道を発見できたので、良しとしたい。

ほんと多くの隧道があったが、旧城山と旧洞口、そして旧明鐘の3本が、なんと言っても忘れられない出会いだったと思う。



おっと、忘れちゃイケナイ。
旧明鐘隧道の館山側坑口を確認しておこう。

それは、ちょっと悲しくなるくらいあっけなく見つかった。
普通に現道を走るドライバーからも見えるだろう。
今は坑口の周りは個人の土地になっているようで、立ち入りがたいムードだ。
もっとも、こちらの坑口だけなら、無理にまで中に入ってみたいとは思わないかも知れない。だって平凡な素掘り隧道に見えるもの。



その後は速やかに、鋸南町の保田地区へと前進した。

次の区間にも、無数の明治隧道たちが口を開けていた。そこでは生々しい崩落の現場にも遭遇することになる。

まだ、旅のゴールは遠い。

どうやら、早くも時間切れの心配をしながら先を急がなければならない予感がしていた。




 夏目漱石が見た明治22年の明鐘岬  〜「木屑録」より〜
2022/7/16追記

明鐘岬を貫く新道は、初代および2代目安房郡長をはじめとする地域の人々の尽力により、明治21(1888)年に開通した。
このとき初めて鋸山の南と北の浦々が車道で結ばれ、千葉と館山を繋ぐ内房の大幹線が完成したのである。
今もそうだが、首都から適度な近さにある内房の海岸は、都人士の旅行先として古くから人気があり、多くの文人墨客が訪れてきた。新道の開通は、そのことに拍車をかけた。

右図は、明治36(1903)年の地形図と現在の地理院地図の比較だ。
明治の地形図には明鐘岬一帯に5本の短い隧道が描かれているが、それぞれの名称や、本当に5本で全てだったのかなどは、記録がなく分からない。
対して現在の地理院地図だと隧道は4本で、明治と同じ位置にあるように見えるものもあるが、実際は全て昭和25(1950)年に開通しており、明治の隧道は廃止されたか、既に消滅していた。

今回の現地調査により、ただ1本、明治期の隧道の現存が確認できた。最も南側にあったとみられる隧道だ。

文壇へ華々しく登場する前の若き夏目漱石が、夏休みを利用した房総一周旅行の途次に、友人らと5人で明鐘街道を歩いたのは、明治22年8月の初旬だった(当時22歳)。
当時は東京市の霊岸島(現在の東京都中央区新川)から保田港行きの定期船が運航しており、彼らはこれで保田に上陸すると、歩いて元名から日本寺、そして鋸山へ登っている。昼頃に登頂し、おそらくその日の午後に今度は元名から明鐘岬まで、まだ開通から日の浅い明鐘街道を歩行した。(おそらく往復したのだろう)


彼は3週間にもおよぶ旅を終えて東京へ戻るとすぐに、特に印象が深かった鋸山の周辺や外房小湊での体験を中心に、漢文を織り交ぜた紀行文をまとめた。「木屑録」(ぼくせつろく)と名付けたそれを、級友であり、生涯を通じての親友でもあった同い年の正岡子規へ送っている。デビュー以前の漱石が残した最初期作として知られている「木屑録」だが、本来は子規への個人的な送信物だった。

本項では、この「木屑録」より、明鐘街道に関わる部分を紹介しよう。
この道を漱石が紹介していることは、比較的知られている話かも知れないが、具体的にどういうことを書いているかまでは、それほど知られていないと思う。
なお出典は、夏目漱石著『木屑録 解説』(昭和7年発行)である。

では行くぞ…… 覚悟は良いかぁ?(意味深)


保田の北、海に沿うて行くこと五百歩、鋸山崒然として面に当り、㠁嵯にして歩むべからず、数年前、官・命じて巌を辟き洞を鑿つこと若干、以て往来に便せり、是より過ぐるもの、復た蹻を躡み……

『木屑録 解説』より

ちょっと待って夏目君! 君の文章(特に漢字)は難しい。
PCで君の文章を引用するのが大変だ。そして、現代人には説明が必要な文字や表現が多すぎる。私が無教養なだけかも知れないが。とにかく、引用に当たって原文にないふりがなを振ることを許して欲しい。間違っていたらご指摘を願いたい。

……では、気を取り直してもう一度。小難しい表現には、タップで説明文が出るぞ。

保田の北、海に沿うて行くこと五百歩、鋸山【崒然】ものが集まるさま(すいぜん)として面に当り、【㠁嵯】高さや長さが不均一であるさま(しんし)にして歩むべからず、数年前、官・命じて巌(いわ)を辟(ひら)き洞を鑿(うが)つこと若干、以て往来に便せり、是より過ぐるもの、復(ま)た蹻(わらじ)を躡(ふ)み杖を曳くの労なく、車を駆りて山海の勝を縦覧することを得、洞は高さ二丈、広さは高さに視(くらぶ)れば、其半を減ぜり、【甃甎】敷き瓦(しゅうせん)もて洞口を造り、以て其崩壊を防ぐ、厳然として関門の如し、洞中は陰黒にして、渓流岩を浸し、両壁皆湿(うるお)ふ、或は【滴瀝】水などがしたたること(てきれき)して流下するあり、【屐】 木製のはきもの。 げた。 あしだ(げき)を曳きて歩めば、【跫音】あしおと(きょうおん)【戞然】固い物が触れ合うときの音のさま(かつぜん)、久くして後に已(や)む、洞路直條せれば、過ぐる者、遙(はる)に洞口の【豁然】ぱっと打ちひらけるさま。ひろびろとしたさま(かつぜん)として、水光【瀲灔】さざなみが立ち、光りきらめくさま(れんえん)、これに映(えい)ぜるを見、洞は海に接すと以為(おも)ふも、既に洞を出づれば、則ち石路一曲して、身は怪岩【乱磄】(不明)(らんとう)の間に在り。此の如きこと数次、一洞を過ぐる毎に、頭上の山石は益々【犖确】山に大石の多いさま。また、大石の多い所(らっかく)にして、脚底の潮水も、亦(また)益々【匒匌】重なり合うさま(とうこう)す。真に奇観なり、同遊の士井原某、常に弁を好み、山水の勝を説く毎に、【嘖々】しきりに舌打ちしてほめるさま(さくさく)名状して已まざるに、此日【緘黙】だまること(かんもく)して一言を発せず、余・其故を問へば、則ち曰く、言ふことを欲せざるにあらず、言ふこと能はざるなり、と、 (中略)
余既に保田の隧道を看て、其観の【瑰怪】立派でみなれないこと(かいかい)なるを楽む、明日之が詩を為(な)つて曰く、

『木屑録 解説』より

大変だった〜。これだけ引用して文章化するのに(漢詩の部分も含めて …漢文の書き下しは大変なので省略させてください。内容は本文を踏まえたもので、特に新しい発見は書かれていないはず)1時間半かかったぞ…。一部中国語の辞典にしかない表現もあったし。これが世界的文豪になる者の文章と感嘆すべきものであろうが、当時の彼の若さを考えると、覚えたての難しい表現を弄したくなるお年頃だったのかななんて、意地悪なことも考えたくなったり……、いやでも漢詩を物する人にとって、このくらいは一般常識レベルの表現だったかも知れぬ。まあともかく、私の引用の苦労はさておこう。肝心なのは内容だ。

総じて、若き夏目君は大いに気に入ってくれたようですね!
明鐘岬の天造の秀景に加わった人造たる隧道群の風景を!
それに、同行の井原某君(井原市次郎)も、言葉を失うレベルで気に入ってくれたようだ。私がそこにいても、井原君と同じ行動をしたような気がして面白かった。

しかも美的な意味での風景観察にとどまらず、隧道の高さが2丈(約6m)で、幅がその半分(約3m)であったことや、彼が「甃甎」と表現したもので洞口が造られていて崩壊を防ごうとしていたことなど、構造の部分にも着目していることは、道路趣味者的な観察眼さえ感じる。いやむしろ、優れた表現者であるならば、観察しないはずもなかったか。

なお、甃甎(しゅうせん)とは敷き瓦のことで、敷き瓦はその名の通り、地面に敷き並べる平たい瓦のことだそうだ。
そして、おそらくは保田を出発して最初に出会った隧道について述べているのであり、それは現地に唯一現存している右写真の坑門を表現した可能性が高い。
確かに外見上、平たい石を組んだように見える坑門だ。
凄いぞこの坑門! 夏目漱石に表現された経験を持っている(のかも)。

そして、そんな隧道が当時は何本もあったと書いている。残念ながら、本数をはっきりさせていないが。
しかし改めて、唯一現存している1本の貴重さがますます際立つな。

最後の漢文は、5行目と6行目の表現が好きだ。そこだけ書き下してみる。

別に人造の天造を圧する有り、巌を劈(さ)き石を鑿(うが)ち隧道を作る

『木屑録 解説』より

「人造の天造を圧する」は、土木の偉業を讃える表現として象徴的で、とても好きな表現だ。

以上、若き夏目漱石による明鐘街道からのレポートをお伝えしました。 こんどは猫でも読めそうな平易な文でお願いしますよ…。