再び モゾモゾ、モゾモゾ。
出来るだけ静かに、這い出てみた。
体の重心が穴の外に移った瞬間、私は強い安堵の気持ちで、思わず体の力が抜けるのを感じた。
そのくらい、緊張していたのだろう。
外へ出てみても、まだ主は不在だった。
すぐにでも立ち去りたかったが、最後に忘れず、元のように入り口を塞いでおいた。
おそらく、この穴から立ち入ろうとする人はもういないだろうが、あくまでも、最初の状態を再現する程度の、緩い埋め戻し方にした。
帰りもキャンプの前(と言うか殆ど中だな)を通った。
藪がひどくて、そこ以外に選択の余地がないのだ。
しかし、あと数歩で脱出できると言うときに、何を思ったか、私は藪から滑り落ちた。それこそ海岸線の近くまで5mほども。
擦り傷を負った程度だったが、馬鹿である。
よほど私は小心者だ。
で、ようやくチャリを回収し、緊張が解けたのはその数分後だった。
旧道を引き返し、現道との分岐まで戻った。
そして、今度は現道の元名第一第二隧道を通って、本編の終着点保田へと進む。
全長120mの第一隧道は、この道の他の隧道と同じで、かなり窮屈なものであった。
だが、私の心はとても晴れやかだった。
つい先ほど、外からこの窓を見ていた。
第一第二隧道を繋ぐロックシェッドである。
そしてすぐに第二隧道へ入る。
こちらは全長97m、昭和25年の竣工である。
隣の旧隧道のような石組みの風情などあるはずもなく、機能一辺倒、コンクリートのぬっぺらぼうである。
午後2時39分、本編開始から3時間半あまりを経て、明鐘岬を挟む区間を終えた。
今日の目的地である館山までは、まだ南無谷崎の難所が控えているが、それでも道中最大の難所は越えた。
思いがけぬ“天敵”とのニアミスは恐かったが、文化財級の石組み隧道を発見できたので、良しとしたい。
ほんと多くの隧道があったが、旧城山と旧洞口、そして旧明鐘の3本が、なんと言っても忘れられない出会いだったと思う。
おっと、忘れちゃイケナイ。
旧明鐘隧道の館山側坑口を確認しておこう。
それは、ちょっと悲しくなるくらいあっけなく見つかった。
普通に現道を走るドライバーからも見えるだろう。
今は坑口の周りは個人の土地になっているようで、立ち入りがたいムードだ。
もっとも、こちらの坑口だけなら、無理にまで中に入ってみたいとは思わないかも知れない。だって平凡な素掘り隧道に見えるもの。
その後は速やかに、鋸南町の保田地区へと前進した。
次の区間にも、無数の明治隧道たちが口を開けていた。そこでは生々しい崩落の現場にも遭遇することになる。
まだ、旅のゴールは遠い。
どうやら、早くも時間切れの心配をしながら先を急がなければならない予感がしていた。
夏目漱石が見た明治22年の明鐘岬 〜「木屑録」より〜
2022/7/16追記
明鐘岬を貫く新道は、初代および2代目安房郡長をはじめとする地域の人々の尽力により、明治21(1888)年に開通した。
このとき初めて鋸山の南と北の浦々が車道で結ばれ、千葉と館山を繋ぐ内房の大幹線が完成したのである。
今もそうだが、首都から適度な近さにある内房の海岸は、都人士の旅行先として古くから人気があり、多くの文人墨客が訪れてきた。新道の開通は、そのことに拍車をかけた。
右図は、明治36(1903)年の地形図と現在の地理院地図の比較だ。
明治の地形図には明鐘岬一帯に5本の短い隧道が描かれているが、それぞれの名称や、本当に5本で全てだったのかなどは、記録がなく分からない。
対して現在の地理院地図だと隧道は4本で、明治と同じ位置にあるように見えるものもあるが、実際は全て昭和25(1950)年に開通しており、明治の隧道は廃止されたか、既に消滅していた。
今回の現地調査により、ただ1本、明治期の隧道の現存が確認できた。最も南側にあったとみられる隧道だ。
文壇へ華々しく登場する前の若き夏目漱石が、夏休みを利用した房総一周旅行の途次に、友人らと5人で明鐘街道を歩いたのは、明治22年8月の初旬だった(当時22歳)。
当時は東京市の霊岸島(現在の東京都中央区新川)から保田港行きの定期船が運航しており、彼らはこれで保田に上陸すると、歩いて元名から日本寺、そして鋸山へ登っている。昼頃に登頂し、おそらくその日の午後に今度は元名から明鐘岬まで、まだ開通から日の浅い明鐘街道を歩行した。(おそらく往復したのだろう)
彼は3週間にもおよぶ旅を終えて東京へ戻るとすぐに、特に印象が深かった鋸山の周辺や外房小湊での体験を中心に、漢文を織り交ぜた紀行文をまとめた。「木屑録」(ぼくせつろく)と名付けたそれを、級友であり、生涯を通じての親友でもあった同い年の正岡子規へ送っている。デビュー以前の漱石が残した最初期作として知られている「木屑録」だが、本来は子規への個人的な送信物だった。
本項では、この「木屑録」より、明鐘街道に関わる部分を紹介しよう。
この道を漱石が紹介していることは、比較的知られている話かも知れないが、具体的にどういうことを書いているかまでは、それほど知られていないと思う。
なお出典は、夏目漱石著『木屑録 解説』(昭和7年発行)である。
では行くぞ…… 覚悟は良いかぁ?(意味深)
保田の北、海に沿うて行くこと五百歩、鋸山崒然として面に当り、㠁嵯にして歩むべからず、数年前、官・命じて巌を辟き洞を鑿つこと若干、以て往来に便せり、是より過ぐるもの、復た蹻を躡み……
『木屑録 解説』より
ちょっと待って夏目君! 君の文章(特に漢字)は難しい。
PCで君の文章を引用するのが大変だ。そして、現代人には説明が必要な文字や表現が多すぎる。私が無教養なだけかも知れないが。とにかく、引用に当たって原文にないふりがなを振ることを許して欲しい。間違っていたらご指摘を願いたい。
……では、気を取り直してもう一度。小難しい表現には、タップで説明文が出るぞ。
大変だった〜。これだけ引用して文章化するのに(漢詩の部分も含めて
…漢文の書き下しは大変なので省略させてください。内容は本文を踏まえたもので、特に新しい発見は書かれていないはず)1時間半かかったぞ…。一部中国語の辞典にしかない表現もあったし。これが世界的文豪になる者の文章と感嘆すべきものであろうが、当時の彼の若さを考えると、覚えたての難しい表現を弄したくなるお年頃だったのかななんて、意地悪なことも考えたくなったり……、いやでも漢詩を物する人にとって、このくらいは一般常識レベルの表現だったかも知れぬ。まあともかく、私の引用の苦労はさておこう。肝心なのは内容だ。
総じて、若き夏目君は大いに気に入ってくれたようですね!
明鐘岬の天造の秀景に加わった人造たる隧道群の風景を!
それに、同行の井原某君(井原市次郎)も、言葉を失うレベルで気に入ってくれたようだ。私がそこにいても、井原君と同じ行動をしたような気がして面白かった。
しかも美的な意味での風景観察にとどまらず、隧道の高さが2丈(約6m)で、幅がその半分(約3m)であったことや、彼が「甃甎」と表現したもので洞口が造られていて崩壊を防ごうとしていたことなど、構造の部分にも着目していることは、道路趣味者的な観察眼さえ感じる。いやむしろ、優れた表現者であるならば、観察しないはずもなかったか。
なお、甃甎(しゅうせん)とは敷き瓦のことで、敷き瓦はその名の通り、地面に敷き並べる平たい瓦のことだそうだ。
そして、おそらくは保田を出発して最初に出会った隧道について述べているのであり、それは現地に唯一現存している右写真の坑門を表現した可能性が高い。
確かに外見上、平たい石を組んだように見える坑門だ。
凄いぞこの坑門! 夏目漱石に表現された経験を持っている(のかも)。
そして、そんな隧道が当時は何本もあったと書いている。残念ながら、本数をはっきりさせていないが。
しかし改めて、唯一現存している1本の貴重さがますます際立つな。
最後の漢文は、5行目と6行目の表現が好きだ。そこだけ書き下してみる。
別に人造の天造を圧する有り、巌を劈(さ)き石を鑿(うが)ち隧道を作る
『木屑録 解説』より
「人造の天造を圧する」は、土木の偉業を讃える表現として象徴的で、とても好きな表現だ。
以上、若き夏目漱石による明鐘街道からのレポートをお伝えしました。 こんどは猫でも読めそうな平易な文でお願いしますよ…。