一般国道135号は、伊豆半島の東岸を南北に縦貫する、観光及び物流の両面で代替路の無い極めて重要な路線である。
実際に通行してみると、確かに、ほぼ全線2車線しかない路幅の中を溢れんばかりに、様々な車が通っているのが分かる。
大型トラックから観光バス、オープンカーやバイク、自転車に至るまで、季節にもよるが、ありとあらゆる車を見ることが出来た。
そしてこの道は、伊豆半島という希代の観光地に全線の立地を置いたため、随所に有料バイパスとの分岐や合流がある。
その中には既に無料開放化されて久しい物も少なくないが、今でも、地方からの観光客やサンデードライバーの多くが、何気なく有料バイパスへ連れて行かれている。小田原から熱海の間はとくに、図らずも二度ばかり有料バイパスへ連れて行かれることになる。
今回紹介する旧道もまた、有料バイパスとの関わりの中で生きた道だった。そして、ある激甚な災害によって死んでいった道だ。
舞台は、あの有名な天城越えの東方に位置するが、その名も東伊豆町という。
そこに、昭和30年代まで別々の町や村に属した、白田(しらた)と稲取はある。そして、この二つの地区を隔てる海岸上に、トモロ岬という小さな岬があって、国道はそこを何本もの小さな隧道で貫いていた。
それは、昭和4年の開通以来、地域になくてはならぬ道として、大切にされてきたのだった。
右は、今回紹介する東伊豆町稲取から白田までの国道の変遷をまとめたものである。
この中でひときわ目を惹くのは、緑色のラインが特別に迂遠していると言う事実だが、この道はここに描かれた4本のルートの中では一番最後に開通したルートである。 …普通ならば、有り得ないことだ。 だが、事実この緑のルートは、昭和57年1月に「一般国道135号稲取白田バイパス」として開通し、その後しばらくの間は市販の道路地図に国道の色で塗られていた。
この一般的なバイパス新道のイメージとはほど遠い不便な迂遠を見せる道の正体は、旧道である青色のラインが昭和53年1月に発生した伊豆大島沖地震によって復旧不可能な被害を被った事を受け、「災害に強い道」という目標を掲げ急造された道だったのである。それ故に、既にあった道を部分的に利用するなど工期の短縮を図ると共に、崩壊しやすい海岸線を大きく迂回するルートを選んだのであった。
そしてこの、大地震によって命を絶たれてた道こそ、今回紹介する旧道である。
それは、昭和4年に下田から小田原まで海岸沿いに初めて車道で結ばれた、その最後の開通区間であった。それ以前、このトモロ岬には車道はなかったのだ。
なお、地図中に赤色のラインで示したルートは、昭和42年に開通した道で、「伊豆東道路」という日本道路公団の管理する有料の自動車専用道路として出発した。従って、平行する旧道にも無料で通行できる生活道路としての存在意義が残り、旧道となりながらも現役の国道であり続けたのだ。不自然な時期に不自然な経路で開通したバイパスも、地震によって旧道が封鎖され、白田〜稲取間の無料の道路が失われた不便を解消するために、一刻でも早い開通が求められたのだろう。
しかし、東伊豆道路の本区間もバイパスの開通と同じ57年の4月1日より、晴れて建設費の償還を終えて無料開放となった。せっかく作った「稲取白田バイパス」も数年後には町道へと降格したようだ。
それは、有料と無料道路のせめぎ合いと地震災害によって生まれた、数奇な国道バイパスだった。
さて、例によって多くの下調べをせず、昭和20年代の地形図と現在の地形図の2枚を頼りに伊豆へ向かった私だが、このトモロ岬の旧道は、伊豆へ行くなら真っ先に訪れたい場所だった。
なぜなら、『道路トンネル大鑑』巻末の昭和42年当時のトンネルリストにおいて(同じ物が『山形の廃道』サイトのご厚意にて閲覧可能です)、ここには3本の隧道が存在するとされているにもかかわらず、現在の地形図からは隧道はおろか、旧道自体がすっかりと消されているのだ。
地形図から道が消える理由は主に二つ考えられる。
一つは、利用度の少ない道が自然消滅的に、或いは災害などで消えてしまい、航空写真によって地図情報を収集する網にかからなくなった場合。
これを、「自然廃道」と呼びたい。その多くは明治以前の古道や、マイナーな登山道である。
もう一つは、航空写真からは拾える道の姿を、国土地理院の判断で地図に記載しない場合だ。
この最大の理由は、行政によってそれが「廃道」とされている場合だ。地形図には各種の「道」を示す記号はあるが、極端な話、いくら明示的な道がそこにあっても、法制上の「道」でなければ道の記号で記載し得ない。
近年生じた廃線や旧道化して用済みとなった廃道が、地形図から消える最大の原因は、行政が道の指定を解除し、国土地理院がその情報を把握しているからだ。
言うなれば「社会廃道」である。
昭和53年までバスも通る現役の国道だった道が、たった30年で2万5000分の1の地形図からも消えてしまった理由は、九分九厘、廃道になっているからなのだ。
おそらくそれは、ついつい通れてしまうようなレベルではないだろう。
道路管理者が地図から抹消したいと思うくらい、恐ろしく危険な廃道が、眠っているに違いない。
そして、
私の予感は激しく的中していた。
だが、
季節は選ぶべきだった。