07:17 【現在地:白田側旧道口】
これが、白田側の旧道の入口である。(写真左)
昭和53年まで、ここで有料道路の東伊豆道路と、無料の旧国道とが分かれていた。
分岐地点の白田側は、コンクリートでがっちり固められた非常に高い法面が特徴的な、見通しの悪い高速コーナーとなっている。
旧道への出入りをするときには、この方向からの車の流れに注意。(流れが凄く速いので本当に注意)
ちなみに、この高い法面のあたりは、昭和51年7月の集中豪雨の際に、10万立方メートル以上の土砂が大決壊し、道路と伊豆急行の線路を呑み込んで海へと雪崩れ込んだ現場である。この時は半月近く交通が途絶した。
それでは、旧道へ進入を開始する。
先ほど一時撤退した廃病院前の分岐まで、ここから900mほどしかない。
意外に呆気なく辿り着けそうな感じがするスタート地点の風景だが、その途中には、まだ見ぬ2本の隧道が待ち受けるはず。
入ってすぐ、左側にお馴染みの「道路情報板」が見えてきた。
現役当時のものだ。
道路情報
通行止
土砂くずれ
そう表示されている。
しかし、約30年間日光に晒され続けた「通行止」の赤い塗料は殆ど色褪せ、間近でよく見ないと分からないほどに薄くなっている。
当初は「道路情報」と書かれた部分の左右の照明が交互に点滅していたのだろうが、もちろんもう電気は通っていない。
一番下のツタに絡まれた部分には、「強風注意報」の文字が、捲れ上がるようにして見えていた。
震災がもたらしたこの「土砂くずれ」は、掲示板にとって“永遠の”表示となってしまった。
そこから10mほど進むと、山側の法面からものすごい勢いで水が噴き出している。
実はこれ、一段上にある現道の山側から湧出している水の一部で、大部分が併設された水道の水源として利用されている。
水道施設に収まりきれなかった量が、こうして溢れだしている様なのだ。
なんとも有り難い水である。
既に日は高く昇り早くも炎天下の様相を呈している。
私は首から提げたデジカメを外すと、この滝に一発頭突きをかまし、ひとまずの涼を得た。
そして入口から100mほどで、この旧道の殆ど唯一の利用者であろう民家がある。
ここまでは路幅も現役当時の2車線幅を残しており、センターラインこそ消えているが、十分に快適な道である。
しかし、家の先は早くも緑のトンネルのようだ。
もう廃道になってしまうのか。
いや、どうにか耐えた。
一挙に路幅は半減し、特に両側からの植物圧が物凄いのだが、それでも舗装路の矜持を見せている。
?
?
?
何気なく路肩に置かれた壊れかけのバリケードだが、よく見ると、そこに書かれた町の名は、ここではない。
「南伊豆町」といえば、ここ「東伊豆町」と名前は似ているが、30kmくらい離れている。
まあ、何か縁あってここに出張してきているのだろう。
緑のトンネルは唐突に終わり、視界が開けた。
いよいよ、山が海へと迫っている。
まだトモロ岬は見えないが、その前衛と言うべき無名の岬が行く手を遮る。
そこに、1本目の隧道「白田隧道」は有るはずだ。
既に山中の一角に、その坑口を示唆する“L字型の”コンクリート吹きつけ法面が見えている。
この調子だと、とりあえず1つ目の隧道までは楽に進ませてくれるようだ。
否。
コロコロと表情がよく変わる道である。
これがツンデレと言うヤツなのか。
突然現れた巨石が舗装路を通せんぼ。
その先は、まるで図ったように、ジャングル…。
7:21 【現在地:巨石バリケード地点】
道を塞ぐ二つの巨石。
だが、これについては明らかにどこかから持ち込まれたものだろう。崩れてくるような斜面が傍にないので。
つまりこれは天然石のバリケードだ。
開閉の出来ないバリケードは、この道が未来永劫の廃道だという証だ。
この時点で…今度は戦わずして、チャリの放棄を決定。
予感めいたものがあったのだ。
この先には、チャリを通せぬ場所があると。
そうでなければ、この岩の向こうに何か踏跡くらいあっても良いはず。
それが無い、と言うことはつまり… この先はどこにも通じていないのだ。
… た ぶ ん。
それに、チャリに拘っている余裕などを、このトモロ岬の旧道は決して私に与えないだろう。
それは、前半戦で十分に理解させられた。
バリケードの先に、踏跡は見付けられなかった。
稲取側には釣り人という通行人がいたが、この白田側は海岸線までの間に伊豆急行の線路が横切っており(地図上はあるはず。ただし全く見えないが)、我々オブローダーの他に来る人は皆無であろう。
それに、オブローダーでも、わざわざこんな季節に訪れる理由は乏しい。
私だって、もし藪の濃いことが予想できていたら、この時期は当然避けた。
今回は、全く予想外に廃道化が進んでいたということだ。
この藪だって、足元には舗装路が隠れているはずなのに、崩れて路面を覆った土砂がジャングルに変えてしまった。
しかし、湿った熱帯雨林そのものであった黒根崎から黒根隧道までの廃道に比べれば、こちらは幾分も歩きやすかった。
随所に本来の路面が露出した箇所があり、道が斜面になっている場所もなかった。
初めからチャリを持ち込まなかった事も功を奏し、余計なプレッシャーに悩むこともなかった。
最初に稲取側の激藪を体験した事で、私は強化されていた。
この程度ならば、問題はない!
そして、残る600mが全てこの程度であるならば、チャリを置いてきたことは杞憂だったかも知れない。
藪に突入し50m地点。
そこには、不思議な構造物が、道の半分を塞いでいた。
形状は普通の法面の擁壁のようだが、存在する位置が明らかにおかしい。
これでは、車一台も通れる余地がない。
おそらく、これは廃道化が決定した後に施工された落石防止工である。
そして、この下にあるものは鉄道。
伊豆急行の黒根隧道坑口であろう。
確かめようと斜面を覗き込んでみたが、緑は濃く、全く見通せなかった。
なぜか、こんな欠片が落ちていた。
いらっしゃいませ
これは何だ。
この廃道にあるものの中では、おそらく最も新しい施工であろう落石防止工を過ぎると、案の定、道の状況は悪化した。(写真右)
路面を覆う木々の密度は増し、震災の傷跡と思われる法面の崩壊も、著しいものとなってきた。(写真左)
だが、もう白田隧道はすぐそこまで来ているはずだ。
見えたッ!
まだ坑口自体は確認できないが、現道からも見えるコンクリートの特徴的な法面が、前方に迫る。
崩れ落ちた小山のような土砂をよりしろに、路面の諸所がジャングルと化している。
とはいえ、その突破はさして難しくはない。
まだまだ、稲取側の苦難とは比較にならない。
7:25 【現在地:白田隧道東坑口】
旧道入口から8分、廃道化地点より4分の短時間で、白田隧道の坑口が現れた。
この隧道は、黒根隧道と同様に昭和3年に竣工している。
しかし、全長はおおよそ倍で、89mという記録が残っている。
どちらにせよ、短い隧道ではあるのだが…
…どうも、出口の明かり見えないような気がする。
まさかッ 閉塞!?
嫌な予感が、瞬時に私の体を硬直させた。
これが通れないとなると、大変面倒なことになりそうだ。
金網で塞がれた白田隧道は、果たして無事か?!
先ほどの黒根隧道のこちら側坑口にも、これと同じデザインの坑門があったと思う。
ただ、向こうは藪が濃くて扁額や細部を十分に確認できなかった。
この白田隧道のものは、金網による封鎖が美観を大きく損ねているのは残念だが、坑門自体は原形を完全に留めている。
表面がややざらついたコンクリートブロックで構成されるが、目地は非常に密に仕上げられ、一見コンクリートブロックではないようだ。
アーチも同様の仕上がり、要石は見られない。
全体的に平板な印象で、坑門建築華やかなりし昭和初期という建設時期を考えれば、ややプアな外見と言えなくもない。
だが、それを「質素」という、日本の美的な言葉に置き変えさせてくれるのが、一点豪華主義に走った巨大な扁額である。
巨大な扁額は御影石製で、その存在感は十分。
草書体に似つかわしい十二分な文字間隔で、「白田隧道」の文字が堂々と陰刻されている。
その下には小さな文字で「昭和三年五月竣工」とある。
坑口前の道路状況。
地を這うような木の幹が、如何にも南国らしい。
だが、ここまでは比較的辿りやすかった。少し苦労すればチャリを持ってくることも出来たろう。
ただし、結果的にこの隧道がネックとなる。
それでは、内部へ進もう。
人一人が屈んでようやく通れる隙間を残す、金網フェンスの扉。
いままでどれだけのオブローダーがこの門を潜ったのか…。
まさかまた、廃車とか残ってないだろうな…。
白田隧道内部。
おかしい。
やっぱり、出口の光が見えない。
地図を見る限りカーブしていたとも思えない。
だが、微かに風が流れている気もする。閉塞しているにしては水蒸気も無い。
路面は舗装されており、両脇には白線が残っている。
また、照明が取り付けられていたようだが、それらは全て墜落し、無惨な姿を晒している。
坑口外に電源ボックスや電柱などは見られなかったが、どのようにして電気を貰っていたのだろう。
静かな闇に向かって、手持ちのライトだけを頼りに進む。
僅か90m足らずの筈だが、出口が見えない事で非常に不気味に感じる。
床に散乱した照明機材の数々。
通常、廃止の際には取り外される事が多いのだが、なぜそうしなかったのだろう。
これも、災害による突発的な廃止を匂わせる。
黒根隧道の廃車体同様、物凄い腐食を見せており、金属の部分は殆ど錆の塊になっている。
天井との留め金が腐り、重い照明が一つ墜落すれば、あとはもう芋づる式に隣り合うもの同士、次々同じ運命を辿ったのだろう。
さらに進むと、なんと壁がゴツゴツし始めた。
こういう展開は予想できなかったが、なんとこの白田隧道、中央部の僅か20mほどだけ素堀となっている。
一枚岩と言うことではなく、タイヤ大の様々な形の岩塊が積み木のように組み合わされた、まるで天然の石組みのような壁。
隙間にはモルタルが充填されているようだ。
静まりかえった洞内から、入口を振り返る。
撮影地の両脇の壁は他とは質感が異なり、素堀であることが分かる。
昭和3年の竣工時からこの姿だったのか、或いは後に拡幅覆工されたものなのか、資料が無く判断が付かない。
当時の扁額があるところを見ると、おそらくは前者なのだろうが。
残る延長は半分。
しかし、未だ光は見えず …絶望か?
素堀区間にて、僅かに落ちた天井の破片。
しかし、これの他には、隧道に目立った崩壊の跡はない。
震災にも耐え抜いたと思われるのだが、封鎖されてしまったのはやはり、この先の道に復旧困難な破壊が起きたからだろう。
なお廃車体は無かった。
この場所からは車も逃げ出せたのだろう。
あ。
外の光…。
しかし、…これは……。
白田隧道もまた、復旧困難なダメージをその身に受けていたのだ。
辛うじて外の光は届いていた。
だが、そこにはもう、人の通れるような隙間はないように思われる。
仮にあったとしても、この湿った土の斜面を登るのか?
それは可能なのか。
私は緊張した。
ここをどうにかしないと、残る城東隧道への到達は大幅に遠のく事に。
前任者達は、ここをどう攻略したのか。 攻略し得たのか。
やはり、隙間はある。
行しかないのだろう。
これはもう、行かねば後悔するレベルの穴。
見えている、穴。
緑の空が、見えている。
次回、この先に進む。
そして、人跡未踏を確信する、超絶なる藪に遭遇。
正体は、道を完全に消し去った激震の廃道。
未だかつて、誰もその内部を報告し得なかった“幻の隧道”が、
間近へと迫る!!
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