2009/11/22 13:55 《現在地》
全長1.5kmの旧道のほぼ中間、福島谷から800mの地点で、長らく続いていたスノーシェッドは、隧道の闇へつながっていた。
坑門は左急カーブの途中にあり、たいへん見通しが悪い。
そのために取り付けられたカーブミラーは、澱んだ光を湛えている。
また坑門にあるかも知れない扁額は、シェッドの屋根に隠されていて見ることが出来ない。
ちなみに、大沼谷からここまで続いた約350mのシェッドの構成は、コンクリ(200m)→鋼鉄:赤(50m)→鋼鉄:緑(100m)であった。
また細かいことだが、現在地は地形図に描かれている坑門よりも、100mほど北である。
つまり、実際の隧道の方がいくぶん長いように思われた。
隧道に入ったと思いきや、実はまだ入っていないのかも知れない。
トンネルの形をした壁に囲まれた状態になってはいるが、側壁には洞門のような窓が連なっている。
ここはトンネルなのか? 洞門なのか?
今回は、地形図と「隧道リスト」の間で描かれているトンネルの数が違うという“問題”があるだけに、いつも以上に細かいことが気になるのである。
まあどちらにせよ良い具合に廃れた…、味のある旧道風景だ。
自然の外光を取り入れてるお陰で、普段以上に内壁の汚れや凹凸陰影がはっきり観察できる。
残りの寿命を左右しそうな天井のクラックも、目立っている。
そして、矢印が指しているのは…
なぜか、ひとつだけ塞がれた、横穴。
なぜ塞がれているのか。
不吉なエピソードが、脳裏をよぎる。
隣の横穴から、外へ出られそうだ。
← 出た。
そこは、畳6枚分くらいの空き地で、一面にススキが生えていた。
三方は湖面に臨む崖に落ち、残る一方は道路の外壁であるコンクリートの巨大な躯体に塞がれた、テラスのような場所である。
こうやって改めて見ても、写真の2つ並んだ横穴の一方のみが塞がれている理由は、推測の域を出ない。
外壁を伝う水や落石が中に入らないようにしたのだと思うが…。
そして、
この“忘れられたテラス”から見る
道路の外観は、想像を超えていた。
これぞ、マッシブ!
もの凄い重量感のある、コンクリートの塊だ。
中に道路が通っていることを知らなければ、まるでダムのよう。
比較的平穏に保たれていた【洞内】に比べて、
外装の消耗は半端無い!
歩危で頑張ってる!
そして、
踏ん張ってる!
技術的には、道路と言うよりもアーチダムに近いように思われる。
沢、あるいは山襞の凹みのような岩場を横断するため、
道は橋を架けることなく、コンクリで埋めて築堤とすることで対処している。
と同時に、雪渓や雪崩への対処としては、築堤と一体化した洞門としている。
洞内はトンネルのように楕円形だったが、外観は長方形に近い台形であった。
ダム、或いは堅牢な城塞のような、近代土木の労作だ。
決してスマートなどとは呼べない、力業!
その脚部は、背筋がゾッとするほど深い谷の急な斜面に埋め込まれている。
かかる難工事! 想像するだにおそろしい!!
←
改めて確認すると、目の前にあるものはトンネルではなくて、落石や雪崩から道を守る洞門である。
少なくとも構造物の種類としては、洞門に分類されるものだと思う。
だが変わっているのは、外見が四角いのに断面は楕円形であることだ。
四角い断面よりも円形の断面の方が強度は増すだろうが、それならば外形も円形にしなかったのが不思議なのである。
このような施工は、かなりの手間がかかったと思われる。
アーチダムのような洞門の行く先は、今度こそトンネルであるようだ。
20mほど先でコンクリートの函は岩盤に突っ込んで姿を消している。
地形図にある一本目の隧道の坑口は、ちょうどあの位置。
よって地形図は、正しく洞門を洞門として描いていたことになる。
13:59 《現在地》
トンネル風洞門を10mほど進むと、「福島保木3号トンネル」の表示が掲げられた“洞内坑門”が現れた。
これから先が、本物のトンネルということか。
しかし、“洞内坑門”の先にもまだ3つ横窓が開いており、断面のサイズと側壁が垂直になっただけで、構造物としては今までと同類のものである。
真に地下に入るのは、その先からだ。
そして、照明の落とされた洞内にズームする。
7〜80m先に見える外光は妙に弱々しく、横から入った光が反射しているように見えた。
つまり、あの辺りにも横窓があるらしい。
また横穴から外に出て、道路の観察をしようと思った。
しかし、最初に目を付けた穴は
まだ“空中”で
どこに行くことも出来なかった。
一番トンネル寄りの穴から外に出た。(この赤矢印の穴)
するとさらにトンネル寄りにも、もうひとつ穴を見つけたが、これは内側から塞がれていた。
コンクリートの表面が剥げ落ち、内部の格子掛けされた鉄筋が露出していた。
表面がツルツルの「丸形鉄筋」で、ギザギザの「異形鉄筋」が昭和40年代以降に主流となる前のものだ。
また鉄筋だけではなく、手首ほどの太さの木片も露出していた。
それが埋め殺しの木枠なのか、それとも作業中に混じってしまったものなのかは分からない。
この鉄筋は「メッシュ筋」というもので、表面付近の強度を増すためのものかもしれません。その場合は、本来のより太い鉄筋が、もっと深いところに存在するはずです。
上記が最後の横穴で、その先の洞門は、ゴツゴツした岩盤に突き刺さるように消えていた。
地中の方が何倍も平穏な気がして、目の前の洞門の疲れ切った姿に、思わず「おつかれさま」と声を掛けた。
…洞内に戻る。
坑門に掲げられていた標識によると、このトンネルが3号トンネル。
…4号と5号は、どこにあったんだろう?
【隧道リスト】という昭和42年当時の記録では、全長37mの5号と、全長46mの4号を既に過ぎているはずなのだが…。
はっきり言って、これまでの区間でトンネルの見逃しがあったとは考えられない。
となると、トンネルを切り崩して洞門に作り替えたのだろうか。
その可能性は、考えられることである。
はっきりしないが、一旦はまずゴールまで進もう。
このトンネル、面白い!
リストによると3号トンネルは全長353mもあって、一連のトンネル群で最長なのだが、実際は複数のトンネルをひとまとめにしたものだったのだ。
いま私の前には、再び横穴の連なりが現れたが、そのだいぶ先にもまた同じように、横からの光が壁に反射して見えている。
したがって、このトンネルは少なくとも3本のトンネルを束ねている!
東海道線には、かつて名物車窓の“眼鏡トンネル”(赤沢隧道)というのがあって、このトンネルと同じように釣り鐘型の横穴から外の景色(太平洋)が見えたのであるが、これは道路版“眼鏡トンネル”だ。
ただし見えるのは海ではなく、御母衣湖。
また適当な横穴を見つけて外を覗いてみたが、今度は外に私が立てる平場は少しも存在しなかった。
この水面下数十メートルに、かつての白川街道…福島歩危…睾丸縮…が、存在していたのだ。
今度の洞門部分は、長さ30mほど。
次のトンネル部分に入る手前で外に出ると、そこに上に昇るための梯子があるようだ。
行ってみよう。
四度、横穴をくぐる。
オブローダーでなければ、こんな酔狂な動線を描かないだろうなと、ひとり悦に入る。
至福の時。
そしてここでも、【洞内の平穏さ】に比して、外壁はもの凄いことになっていた。
まさしく、天下の難所のあらゆる危害から国道を護り抜いた、人類英知の壁。
旧道になって、いずれ廃道になっても、幾ばくかの路面を護り続けるのだろう。
…胸が熱くなるな。
足元には、スラブの谷が口を開けている。
舞い込む湖風が、跳ね返りざまに滝の飛沫を空中に散らしていた。
こんな場所に車が一年中通れる道を通すことなど、私の力では絶対に不可能だ。
にもかかわらず、専門家は不可能は可能にする。
土木という力の強さ、かっこよさに惚れ惚れする。
振り返れば、お目当ての梯子。
…グラッ
ちゃんと固定されてないかも…。
やめます!
次回、
福島歩危陥落の章。
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