2009/11/22 14:07 《現在地》
福島保木3号隧道のほぼ中央付近から、進行方向を見る。
すぐ先と、だいぶ先に、左側から光が入って右の壁を明るくしている部分があるが、いずれも洞門部である。
だが、洞内風景としての隧道部と洞門部の違いは、基本的に横穴の有無だけだ。微妙に側壁のカーブが違っていたりもするが、基本的には同じ隧道の断面を共有している。
ゆえに、建造段階では別々の隧道であったとしても、完成時にはまとめて「3号隧道」を名乗ったものと考えられる。
手前の洞門部から地上に出たところまでは前回紹介したので、続いて奥の洞門部へ向かう。
奥の…つまり南側の洞門部へやって来た。
3号隧道は前半こそグネグネと曲がっていたが、後半は直線である。
そして、隧道の出口の先にも金属製のスノーシェッドと、さらに連なる2号隧道の黒い口が見えており、いかにも豪雪と険難を誇る(?)立地らしい。
まあひとことで言えば、オブローダー垂涎の風景というところだろう。
これまでの例にならって、この洞門部でも横穴から地上へ出てみることにする。
洞外へ出るも、やはり自由に動き回れる余地はほとんど無かった。
それでも、先ほどの洞門外よりは遙かに穏当な地形に見える。
どうやら最大の難所をやり過ごすことに、隧道は無事成功したらしい。
私は洞門から外へ出た一番の目的であった“二つのチェック”を済ませると、すぐに洞内へ戻った。
なお、二つのチェックとは――
1.洞門の前後にある坑門部分の処理の確認(扁額の有無も)。
2.洞門の前後の隧道部に、迂回する旧道が存在しないかの確認。
――のことであるが、ここでは“謎”に繋がるような成果は得られなかった。
14:08 《現在地》
3号隧道の南口に到着、振り返って撮影。
外へ出たといっても、明るい地表ではなく、3号隧道へ入る前にも延々と連なっていたスノーシェッドの続きが待ち受けていた。
そして、潜り終えたばかりの闇には、私が通行した事による些かの熱も既になく、廃道同然の静寂と闇が地底湖のように湛えられていた。
謎を持つ隧道は、やはり一筋縄ではいかない何かをもっているような気がした。
私は速やかにスノーシェッドの外へ出て、3号隧道南口の坑門を確認することにした。
こんな事に何の意味があるのかと問われれば、答えたい。
完成品だけを見て制作途中を知ろうとするならば、おおよそ普通は目にしない隅々まで観察しなければ、不可能なのだと。
例えば、画用紙で拵えたサイコロの裏面に書かれた文字を知るためには、手で賽子に隙間を作って内部を覗き込むより無いだろう。
この隙間を作って無理矢理中身を覗き見る行為が、路面から外へはみ出ることだ。
踏み跡のない路外の斜面を少しよじ登り、この眺めを得た。
見ているのは、3号隧道の南坑門である。
そしてこの路面からは決して目にする事が出来ない部分に、私は確かに見たのである。
一般的な坑門ならば扁額が取り付けられている場所に、それがないこと。
にもかかわらず、扁額を取り付ける為の凹みが存在することを。
…さも大層な発見であるかのように書いたが、大袈裟だったかも知れない。かく言う私も、(この時点で)これを重要視してはいなかった。
この発見は、今はまだ何も像を結ばないガラスの欠片に過ぎない。せいぜい、「隧道の建設中には、扁額を取り付けるつもりがあったのだろうか?」、などと想像が出来る程度である。決定的なものではない。
さらに同上地点から反対方向を眺めると、次の隧道(2号隧道)までのスノーシェッドを一望にする事が出来た。
2本の隧道に挟まれたスノーシェッドに切れ間はないが、途中で塗装色と作りが変化していた。
このようなスノーシェッドの変化は、これまでの区間でも繰り返し見てきたものである。
試みに大別すれば、コンクリートのもの、金属製の赤、金属製の水色という3種類があり、それらは特に法則性なく点在或いは連接していた。
上記の事実もまた、“謎”と関わりがあると私は考えた。
さらにもう一つ、この眺めからは発見があった。
次の隧道の坑門に、扁額の一部が見えたことである。
3号隧道の南口には取り付けられていなかった扁額が、次の隧道の北口には存在している。
残念ながらはじめの3文字「福島保」しか読み取れなかったが、これもまた“謎”の欠片として記憶に留めた。
道へ戻り、次の隧道へと近付いていく途中、スノーシェッドの種類が切り替わる部分で再び足を止めた。
ここで振り返って、あるいは頭上を見上げていなければ、この欠片にも気付かなかっただろう。
そして、これはとても重要な欠片であったと思う。
私は直前に得たいくつもの欠片(=気付き)と、この写真から得られた欠片…3号隧道南口の扁額は坑門に存在せず、それに繋がる水色のスノーシェッドの端部に掲げられていた…を結びつけることで――
「失われた4号、5号隧道の正体」に、思い当たったのである。
(水色のスノーシェッドは…)
と同時に、記録された時代によって変化した隧道の長さという謎にも迫れそうだ。そんな実感を得たのだった。
赤色に変わったスノーシェッドの先に、「福島保木2号トンネル」のプレートを脇に掲げた、3号隧道とそっくりな断面形を持つ坑口が近付く。
今度の隧道は短く、自転車であってもあっという間に過ぎてしまいそうだ。
そして、その出口の向こうにもまだスノーシェッドが続いているのが見えた。
なお、ここでも脇の地上に出て、2号隧道北口の扁額を間近で見ようと試みたが、地形的に果たせなかった。
「トンネル大鑑」では全長60m、「現況調査」では全長40mと記録されている、2号隧道を通過し終えた。
果たしてどちらの長さが正解だったのか。
よく考えれば、特別な計測器具を持たないこの状況であっても、ある程度は調べる術はあったのである。だが、私はそこには思いが至らなかった。
だからどちらが正解かは分からない。目測でもこれが40mの闇か、60mの闇かは、ちょっと判断できない。
地図上で計測したら、50mだった(苦笑)。
ほんの少し前の“成功体験らしきもの”をなぞるように、私は再びシェッドの外へ出て2号隧道南口の扁額を確かめようとした。
そうして驚いたのは、シェッドのためにほとんど通行人からは見えない坑門の無惨な有り様だった。
隧道そのものの強度にはさほど影響はない部分かも知れないが、ざっくり角の部分が崩落してしまった坑門は、不気味だった。
探索時点(平成21(2009)年)では、旧道化からちょうど10年が経過していたのだが、封鎖されていなかった隧道が、こんな姿を晒していたのは驚きであった。
そんな壊滅寸前に見える坑門近くの斜面をよじ登って、扁額部分の視界を得た。
そして、3号隧道の南口で見たのと同じような凹みの中に、今度はしっかりと「福島保木2号トンネル」のプレートが填め込まれているのを確かめた。
しかし考えてみれば、これは本当に憐れな扁額だ。
隧道にスノーシェッドが接続されたために、通行人からは決して見えない位置にあり続けたのだから。挙げ句、スノーシェッド上に積もった土砂によって、地中に埋まろうとしている。
2号隧道南口と1号隧道隧道北口の間を埋めるスノーシェッドは、これまで見た3つのタイプのどれとも異なる形をしていた。
だが見た目的にも、構造的にも古ぼけていて、一連のシェッドの中でも最古参級に属するものと見て取れた。
なお、先ほどの3号隧道南口と、この2号隧道南口は、共に坑門とスノーシェッドが連続する構造になっているが、前者の扁額がスノーシェッドの端部に飾られることで通行人の目に触れたのに対し、後者の扁額はそれを選べなかったが故に、目の付かない場所に取り残されたと見る。
なぜなら、こちらのスノーシェッドには扁額を取り付けるような途切れ(=設置時期のずれ)が、見あたらないのである。カーブしながら、そのまま1号隧道に繋がっている。
「トンネル大鑑」では全長67m、「現況調査」では全長116mと、まさに倍近い誤差をもって記録されている、福島保木1号トンネル。
しかしこれだけの差があれば、さすがにどちらの方が実際に近いかの判断は、目測でも可能だろう。
ずばり、この隧道の長さが100mに満たないとは信じられない。ということは、大鑑は誤謬であると思う。
しかし、理由は分からない。一番興奮できるのは、「実は旧隧道が他に存在する」というパターンだが、現地調査でそのような形跡は見られなかったし、帰宅後の空中写真調査等でもそうだ。
そもそも、一連の隧道が全て昭和36年竣工として共通の外観を持っている事実に照らしても、この1号隧道が実は同年に建設された“新トンネル”だったなどとは思えない。
…単純な、本当に単純な誤記なのだとしたら(たぶんそうなのだと思うが)、罪である。
私は5年間も、この“謎”のためにレポートの続きを書けずにいたのだから。
1号隧道も直線で、楽しい旧道の出口は、すぐに近付いてきた。
これが最後の隧道と分かってはいたが、それよりも出口の向こうに“屋根のない本物の地上”が見えていたことの方が、私を開放的な気持ちにさせた。
この1.5kmの旧道のうち、ちゃんと空に面していたのは、最初と最後を除けば、前半の大沼谷橋付近の100mくらいだけだったのだ。
ほとんど全部、隧道か洞門かスノーシェッドの中にあった。
それこそは、名にし負う難所を越えるという、確かな決意の結実であったと思う。
福島保木1号トンネルの南口は、一連の隧道群で初めて道、をはみ出すことをせず扁額を読むことが出来た。
だが、それでも決して甘やかされた生き様ではなかったことを、坑門全体に刻まれた傷、染みついた汚れ、朽ちかけた高さ制限バー、注意標識などが訴えている。
繰り返しになるが、この探索当時は廃止されておらず、一般のクルマも通行できた。
だが、国道としての管理を離れた状態で過ごす時間は、それまでとは全く別次元である。もうどれだけ長持ち出来るかは、誰にも分からないだろう。
地表に出るなり間近に聞こえ始めるクルマの音。
すぐ先に現国道が見えていた。
そして最後には緩やかに曲げられた接続部分を経て、合流するのであった。
ちなみに、2014年に『廃墟賛歌 廃道レガシイ』の撮影のため、御母衣湖を(許可を得て)カヤックで横断したが、その時に湖畔へ降りたのが、この写真の場所だった。(写真)
船着き場などがあるわけでもない単なる湖岸だが、絶壁ではない数少ない湖岸として目を付けた場所だった。
14:24 《現在地》
現国道に合流し、探索終了!
約40分の探索であったが、廃道ではなく旧道ということで困難もなく、排ガスと騒音に揉まれる現国道より万人にオススメ出来るのではないかとさえ思った(ただしライトは必要だが)。
と同時に、ここがどれほどの難所であったかも、連続する構造物と切り立った眺めから十二分に体感できたから、全体として充実度のとても高い探索だった。