2008/7/2 14:00
自転車同伴でなくとも緊張するような崩壊現場を、集団心理も手伝ってか(集団と言うほど大人数ではなかったが、百戦錬磨である永冨氏との同道は、百人力に勝る心強さがあった)、大胆に突破。
滝に打たれる「山吹隧道」に始まり、哀れな遭難供養碑、破壊の象徴「雷岩」シェッド、そして「百間長屋」の崩壊地と、わずか1kmほどの区間に「これでもか」というほどの遺構が存在する「梓川旧道ファーストステージ」もいよいよ終盤へとさしかかる。
緊張から解放された途端、達成感とともに全身が重怠く感じられた。
今のような難場はそう無いと思いたいが、約束できるものでもない。
まずは一旦息を整え、オーバーヒート気味となった気持ちもリセットしたい。
期待以上の発見の連発で、自分の気持ちが「妙に浮ついている」のが分かっていた。
読者の中には覚えておられる方もいると思うが、ずいぶん昔にこの一連の旧廃道が当サイト掲示板で話題になったとき、「あそこは危なすぎるから止めた方が良い」というようなアドバイスをした方がいた。私はそのとき確かノーリアクションだったが、しっかり心に刻んでいた。
梓川旧道は、危険であると。
そしてその実際を、ほんの序盤で目の当たりにして、確信を得た。
これは侮れないと。
休息を求める我々に、救いの手は意外に早くさしのべられた。
片洞門の一部が崩壊せずに残っており、ご覧のような大きな岩の庇(ひさし)を作っていたのだ。
川風が吹き抜ける乾いた岩陰は、休憩所としてこれ以上ないほど上等であった。
百間長屋とは、まことに言い得て妙だと思った。
その平和な軒下は、消耗したオブローダーに解放されていた。
もっとも、反対にこちら側から辿ってきたとしたら、ここはさながら、魔王城に挑む最後の宿屋のように感じられたことだろう。
軒下と崩壊地とは20mほどしか離れていないから、ほんの数歩で死地に入り込むことになる。
それはさておき、今のように崩れる前には、崩壊現場も片洞門だったのだろう。
そしていつかは我々の休息地も崩れ落ちるときが来る。
そのときに誰も休んでいないことを祈るばかりだが、一番にそのリスクが高いのは自分たちであることに気付いていない(笑)。
14:06
約5分休憩し、来たのとは反対側へと出発。
休憩中に何を話していたのかは覚えていない。
ただ全体印象としては、私も永冨氏も口数は多い方だと言うことだ。
いや、或いは私が多く喋りかけるからかも知れない。少なくとも私は廃道に来ると非常に口数が多くなる。
…もちろん、独りの時は黙ってるよ。 黙ってるってば。
で、この写真は30mほど離れてから片洞門を振り返って撮影したもの。
この場所の写真が多いなって?
だって、気に入ったんだもの。
というか、もともと私は、片洞門には隧道以上にキュンキュンしちゃう質である。
今日の道路構造基準では認められていない構造というのが、絶滅種的でイイよね。萌ゆる。
現道接着まで残り200mほどと思われるが、ここに来て初めて本格的な草藪道となった。
鋪装されていたはずだが、長い間の放置によって落ち葉や流土に覆われた路面は、もはや圃場整備完了の状態。
ここまでの藪がさほどでもなかったのは、単に岩場が卓越し、種子をもたらす緑が遠かったというだけのことだ。
とりあえず緑が深い間は、命“崖(がけ)”を強いられる場面は無さそうであるから、少し安心もした。
なんだかもう一人俺がいるみたいだよ、永冨さん……。
生粋の自転車ノリなのにヘルメットは決して被らず、藪漕ぎするにも軍手や長袖で身を守らず…。
あまつさえ腰に長袖を巻いていていつでも使える用意があるのに、それは使わない。
俺そっくりじゃねーか…。
違いがあるとすれば、彼は自転車を心から愛していると言うことだ。
私も彼との4日間の同道で、その愛し方の一端を教わった。
14:10
少し前から車の走行音が聞こえるようになっていたが、遂にファーストステージの終点に到着した。
まず現れたのは、新山吹トンネルの中ノ湯側に連続しているロックシェッドだ。
旧道で我々が見たものとは、その大きさも見た目の頑丈さも桁違い。
まるで城壁のような巨体である。
ここから強引に現道シェッド内に合流することも出来ないではなったが、ここまで旧道に拘ってきたのだから、最後まで付き合いたい。
一層深くなった藪を掻き分けるようにして、シェッドが終わるのを待った。
そして我々は辿り着いた。
現道への輝かしい復帰地点。
さりげなくガードロープに封印された合流地点。
“ナイスポーズ”以来、約1時間のめくるめく廃道ワールドがこれにて一段落。
新旧合流地点を振り返っても、旧道の痕跡は極めて薄い。
そんな旧道から「自分だけが知っている」風の顔をしながら出てきて、「何も知らない人達」の道へ復帰する瞬間の優越感というのは、端から見れば相当に歪んでいるが快楽的だ。
そしてそれは、外から見たときに旧道が不鮮明であればあるほど高揚するものだ。
その意味からもここは高得点で、従来この旧道を辿ったという報告が乏しかったのも頷ける状態だ。
まさに、“知られざる旧道”の味わいがあった。
昭和44年の完成以来、国道の重責を一身に背負っているのが、こちらの新山吹隧道。
全長は800mもあり、さらに内部はS字に蛇行しているので反対側は見通せない。
その坑口は少し変わった断面のロックシェッドと一体化しており、色あせたコンクリートの風合いはさすがに古さを感じさせるが、これを迂回する新ルートの建設(中部縦貫自動車道の開通)は当分先の話になろう。
なおこの隧道に関しては、扁額や地形図上では「山吹隧道」、一連の隧道群に付されたナンバープレートには「しんやまぶき(新山吹)」と表記されている。
旧隧道との同名を避けるという意味では後者が適切であるから、扁額が取り付けられた現道の開通時点には既に旧道廃止が決定されていたことを感じさせる命名である。
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沢渡〜中ノ湯間(現道延長約7.6km)の旧道は、全体を5つの区間に大別できる。
現地での我々のアイデアに従ってそれぞれを第1〜第5ステージと呼ぶことにするが、先ほど攻略したのが第1ステージであった。
続いての第2ステージ入口まで約350mほどは、新旧道が重なっている。
厳密にはこの写真左に写っている空き地のように、旧道敷きが現道と分離している部分もあるが、それはカウントしない。
(なお、この空き地は一見駐車場だが駐車禁止になっている。駐車するとレッカー移動する旨の警告が警察署名義で掲示されている。確かにこの辺りに駐車を許すと、上高地行きの人々が沢渡の有料駐車場を避けて“ぎゅうぎゅう”詰めになるのは目に見えている。)
14:14
そしてこれが、第2ステージの入口。
分かりにくかった第1ステージに較べれば、ネコでも分かりそうな入口だ。
右の地図を見ていただければお分かりの通り、この第2ステージは雲間の滝、榾(ほた)小屋、芝そりという3本の隧道と、その隧道を挟む4本の橋によって短絡された為に廃止となった区間である。
これらの開通は昭和56年から58年にかけてで、おそらく昭和58年に一斉に切り替えられたものと思われる。
このように新旧道が絡み合うのは谷沿いにおける最も典型的なパターンで、俗に「串刺し型」と呼ばれる。
そしてこの種の旧道は一般に距離こそ短いものの、途中が現道によって分断されている場合が多く、その場合の利用価値が極端に低くなるため荒廃の度合いも経年以上に悪化していることが多い。
果たしてこの「第2ステージ」はどのような状況になっているのか。
お手並み拝見と行こう。
14:16
始めの100mほどは、ちょうど雲間の滝橋の下で行っている河川工事現場への工事用道路として使われていた。
だが、恐る恐る現場の脇を通り抜けると、その先は本来の廃道であった。
この区間は昭和58年まで現役であったと言うから、ギリギリで私は体験した事がないと思う。
昭和52年生まれの私は、小学校の3,4年生から6年の夏(平成元年)に秋田へ引っ越すまで、毎年のようにこの道を(家族旅行で)通っていたと思うが、連続するトンネルと国道らしからぬ狭い道という印象ばかり残っている。
あと、確かに現道の工事を行っていて、頭上に真新しい橋が出来たりしていく様子も、1年おきにではあるが見ていた記憶はある。
特に何事もなく(立派な草むした廃道なのだが、前の区間が前の区間だけに)進み、やがて川の向こうには雲間の滝隧道から出てきた現道が近づいてきた。
間もなく再度の接着となるはず。
14:20 《現在地》
今度は立体交差になっていた。
頭上続いての隧道は、昭和58年竣功の榾小屋隧道である。
僅かな日陰に涼を得たが、しかし岩のそれとは違い味わうものもなく、すぐに出発した。
昭和44年廃止と58年廃止とでは、感覚的にはさほどの違いを感じないが、実際に険しい自然環境に晒された時間の“厚み”で考えれば、1.5倍の開きがあるわけで、やはり第1ステージは特異であったのかも知れない。
そんなことを考えながら、先へ進むと…。
侮られない!!
またしても、水神様がお怒りじゃ!!
つうか、行けるのか! オイ!!
マジで、やばくないか…?!
…行けました。
つうか、今度もまた完全に…
例の温泉水輸送管?頼みである。
それが、
それだけが、失われた路盤になお堅牢な通路を渡してくれていたおかげで、通過することが出来た。
しかも今度は危ういゴム管ではなく、コンクリートの通路だ。
幅は50cm足らずしか無く、自転車で通行するのには押しでも乗りでも怖いところだが、ともかく通過できた。
助かった!
ありがとう! 温泉!!
決壊地を過ぎると間もなく川の蛇行に沿って右にカーブし、再び行く手に現道が現れる。
今度こそは平面交差となりそうな高さだ。
このような串刺し型旧道において、平面交差の有無はとても重要で、先ほどのように立体交差でも通路が確保されていれば良いが、最悪旧道が上だったりすると分断もあり得る。
その場合は引き返すことになるわけで…。
まあ、それでも現道から大きく離れずに事を進められる串刺し型は、旧道廃道の中ではとても与しやすい初心者向けではあるのだが…。
14:25 《現在地》
榾小屋隧道の真ん前にて新旧道は平面交差している。
しかし、このような場所が交差点に適当であるはずもなく、旧道の方は南側をガードレールで、北側はさらに堅固なコンクリートウォールで塞がれていたのである。
これも我々好みの展開?!
でも、これだけがっちり塞がれているとなると、先の展開が心配なのも事実。
現に…
この先は、これまで以上に荒れている感じがする。
路肩なんて有って無きのごときだし、何よりも路上の緑が酷く濃い。
先の方になると、法面の崩壊も深刻化していそうな雰囲気である。
まあ、次の芝そり隧道(昭和57年竣功)を回り込むだけの300mほどの区間だから、ファーストステージのようなプレッシャーは感じないが…。
万が一引き返しになってもね… それほどは痛まない。
案の定、ステージ2−2とでも言うべきこの区間は、状況が相当悪化していた。
最初に我々を苦しめたのは、緑濃い藪。
灌木混じりのとびきり深いやつだ。
しかも、どういうわけか路上を川のように水が流れており、それ自体はとても美しく心和む景色なのだが、この水流に涵養されてしまった植物たちの元気たるやただ事ではないのである。
堪らず永冨氏を前衛に差し出すが(笑…つうか、交代交代だよ先頭は)、暫くはその姿も絶え絶えとなるほどの激藪だった。
ちなみに、彼は藪を漕ぐときに無言であった。
私は、早く彼好みの遺構があらわれてくれることを祈っていた。
橋、隧道、法面、なんでもいいが、やはり彼は凝った作りの橋が出てくると、その喜びを全身で表すので私まで和んでしまう。
そして、ステージ2−2における最大の難場が、この巨大な堆積斜面である。
いままで路盤を潤していた流水は、この小さな谷がもたらしたものだったのだ。
ここは道幅にいくらか余裕があるので、敢えて路肩よりの叢(くさむら)に身を任せることも出来ないことではない。
だが、そこは背丈に勝る激藪であり、普通は転倒のリスクを冒してでも、この「明るい場所」を通りたいと願うだろう。
我々もそうだった。
あらよっと自転車を後ろに担ぎ、労せず瓦礫斜面を乗り越えていく永冨氏は流石に手慣れていると思った。
ほんと、彼の自転車愛にはこの後も驚かされることになる。
無事難場を突破。
ステージ2の終点である現道との合流地点が見えてきた。
この辺りは鋪装されておらず、砂利が剥き出しである。
廃止される最後まで砂利敷きのままだったのか、廃道化工事が行われたのかは分からないが、もたらされる流水が無くなったおかげで藪も整理されている。
まあ、楽な区間だ。
で、廃道の定番といえば「エロ本」なわけだが、ここは一風変わっていた。
路上でカピカピになっていた本が、異常なほどマニアック(笑)。
この趣味が長いせいもあってスカトロくらいでは驚かない私だが、いきなり「インカ」というのはちょっと、新しい…。新しすぎる。
しかも、中をめくると「アンデスミイラ」と来た。
アンデスメロンなら私も大好きだが、アンデスミイラは細田氏の範疇だろう(細田氏は大のミイラフリークである)。
永冨氏と「エロくない」と爆笑したところで、順調にステージ2も終了となった。
そして、一連の廃道では最新となる第3ステージへと向かった。
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