国道253号旧道 八箇峠 第三回

探索日 2006.08.12
公開日 2006.08.19

八箇峠の奇妙な隧道兄弟

八箇隧道 

周辺地図

 八箇トンネル十日町側坑口前の駐車場を徒歩で出発し、昭和29年にトンネルが開通したという旧国道峠を目指した。
僅か1.5kmほどの道のりであったが、その後半はかつて遭遇した中でも最悪レベルの猛烈なブッシュに阻まれた。
8月晴天の午後2時過ぎ、外気温35度近い無風状態だったのだから、ただでさえ廃道を歩くコンディションとしては最悪も最悪である。
もし目指す峠の隧道が現れてくれなければ、命さえ投げ出したくなるような過酷な戦い。
どうにか1時間余りの後これを制し、峠の隧道に辿り着いたとき、私は背筋に寒気を感じており、熱中症寸前にまで追いつめられていた。
また、薮を全身で切り開いたために、満身創痍と言って良い状態であった。




 試練の果てに遭遇した、隧道の姿。
そこが道であることさえ忘れさせる猛烈な薮の先にあったのは、巨大な坑口を有する、立派な隧道であった。
風化しつつも役目を果たし続けるコンクリートの坑門の中央には、色褪せぬ白御影石の扁額が埋め込まれている。
樹海に埋もれつつも、ここが確かに国幹を成す道の一端であったことを主張し続けるかのような、高貴な姿であった。

 私は、一目見てこの隧道の虜となったが、見れば見るほど、この隧道の印象はさらに深いものとなった。



 扁額に残された立派な銘板。
力強い筆跡で「八箇隧道」と右書きされている。
昭和29年という時期的には日本語の筆記の主流は既に左書きに変わっていたはずなのだが、敢えて古色蒼然たる右書きを利用したのは、隧道の持つ威厳の現れなのか。(ちなみに昭和26年に国は『公用文作成の要領』を発表し、左書きを正式に推奨している)



 みよ! この異形の隧道断面を!

 八箇隧道は『道路トンネル大鑑(土木界通信社発行)』(←『山形の廃道』サイトにて閲覧できるリストと同じものです)のトンネルリストによれば以下のスペック。

八箇隧道 延長70.0m 幅員4.5m 高さ4.0m 
       竣功昭和29年 覆工あり 鋪装なし

 この数字からは、異様な断面は全く窺えないのだが、事実この隧道の断面は通常の馬蹄形のそれからは大きくかけ離れた、釣鐘形とでもいうべきものである。
高さにしても、明らかに幅よりも大きく見え、リストのスペックは設計上の有効高なのだろう。

 何とも風通しの良さそうな、モダンな隧道だというのが私の第一印象だ。



 内部には余り冷気は感じられなかった。
しかし、外と較べれば雲泥の差で、顔面に吹き出した汗を乾いたタオルで激しく拭うと、あとは微かな風が気持ちよく感じられた。
振り返って見える外界は、あまりに白く眩しく、いちど隧道に逃げ込んでしまうともう、二度と出たくない気持になった。
しかし、特殊な断面のせいでまだまだ開口部に余裕がある本隧道も、坑口への土砂の堆積は進んでおり、やがては埋没することになるだろう。



 短い隧道だが、野外の叩き付けるような蝉時雨は不思議と届かず、しっとりとした暗がりに、仄かな土臭さが充満していた。
洞床は鋪装されているでもなく、砂利を多く含んだ黒っぽい土が覆っている。
こんなに短くても、ちゃんと峠の隧道らしく、中央部分が少し盛り上がっているようで、水溜まりは見受けられない。

 探索の最中、頭上にいつも以上の空洞が存在する不思議な空気感が、何度も私を見上げさせるのだった。
白っぽい天井は普段以上に奥まって薄暗かったが、目立った崩壊はなく、小さな亀裂から白いつららが無数に垂れていた。



 洞床の土砂利には数箇所にわたり50cm四方くらいの穴が開いており、それはおそらくイノシシか鹿などの獣がイタズラしたものと思われた。他、多数のニャンコ手形が見受けられたが、ここにも隧道猫が生息しているのかどうかは分からない。
路線バスも通ったと記録されている隧道でありながら一条の轍さえ見つけられず、地上部分の薮化ほどではないにせよ、隧道内にも風化は確実に訪れている。
大きな断面を見ていると、どこか現役の隧道のように錯覚させられるだけに、路面ののっぺりとした様子は異様だった。



 両脇には、一部だけ側溝の蓋が見て取れた。
当初は洞内全体にあったのだろうが、埋没しているようだ。
それなりに近代的な施工が行われた事を感じさせる。
 また、天井には金属製の突起物がいくつか見られ、碍子こそ残っていないが、当初は電線を張っていたのかも知れない。
或いは簡易な照明もあったのかも。



ダブルかよ!

 アチィ!

 なんだんだよ、この接続は!
ふざけてんのかよ!
設計者出てこい!!!
こんなふざけた隧道同士の接し方があるのかよ。
なんなんだよ、この異様に不自然な、だいたい30度くらいの角張ったカーブで強引に二隧道が接し合ってる線形は!
見た事ねーから。
こんな道を車を走らせ、しかも国道かよ! おめでてーな!!


…設計者様、ごめんちゃい。
ちょっとドーパリミットオーバーで壊れました。
でも、絶対あり得ないって、この線形は異常。
隧道の断面が異常なら、次の隧道との接し方もおかしいよ。
しかも、次の隧道は普通の断面ぽいし、何もかもがちぐはぐだ。

 八箇峠、この時点で殿堂入り確定!!
日本のおかしな廃道風景にランクインだ!



枡形隧道 

 地形図においては、もう少しは離れて存在するように見えていたもう一つの隧道「枡形隧道」だが、2つの隧道は、過去に見たことがないほどに近接して、しかも正対するではなく、向き合っていたのである。
かつて見たことのない景色と、2つの隧道の僅かな隙間でさえもの凄いブッシュになって道の痕跡を失っている状況に、私は思いがけず興奮してしまった。
ここは旧道などではなく、もはや道路上で格別に堅牢な隧道という構造物だけを残す、道路の遺跡のようであった。

 2隧道の坑門は最短で3mほどしか離れていないのである。
また、この間の道路は斜面から落ちてきた土砂によって全体が谷に向けて傾斜しており、その柔らかな斜面上に夏草が繁茂している。
 ここを通ろうとする者は斜面を横断せねばならないのだが、谷は恐ろしく深く、現に近寄って覗き込んで写真を残せなかったほどである。
枡形隧道の基部は既に宙ぶらりんになっており、そう遠くない未来に坑門が重力に負けて砕け崩れる危険性が高い。


 やはり白御影石を使った美しい扁額。
達筆な文字で枡形隧道と印刻されている。
また、左側には不自然なスペースがあるが、ここには小さな文字で縦書きにて「昭和二九年 東岳書」と、竣功年及び起筆者の名前が刻まれていた。

 さて、枡形隧道を通り抜ければ八箇峠もいよいよ下りとなるわけだが、容易に素通りできないほどの魅力が、この隧道間の僅かなスペースにはあった。
私は急斜面に寝ころんでは、思いつく限りの様々なアングルから、この異様な景色を堪能したのである。



 上の画像はちょっと強引に繋げてしまったが、こんな風に2つの隧道を一望することが出来る。

  →興奮の解説動画(3.2mb)

 八箇峠の稜線自体は先にくぐった八箇隧道の上にあり、もはやここは南魚沼市(旧六日町)である。
 このように2つの隧道が奇妙に近接している事情については、八箇隧道の異形断面の由来とも深く関係するのだが、2つの隧道が実は由来を別にするためだとされる。
 実は、八箇隧道については明治31年に掘り抜かれた素堀りの隧道に由来している。
昭和29年の車道改築時に元々の素堀隧道を数メートル掘り下げる形で改築したために、上部に旧断面の一部が残り、このような奇抜な釣鐘形の断面になったと言われている。
 これに対し、枡形隧道は明治期には存在しなかった。
枡形隧道は昭和29年の全くの新築隧道なのである。
それを裏付けるように、これほどに近接し、同時に竣功した隧道でありながら、断面の形状には大きな乖離が見られる。

 明治期においては、右の図のように八箇隧道のみが存在し、枡形隧道の区間は尾根を小さく迂回していたのである。
この道形は、積雪期などには鮮明に現れるらしいが、残念ながら今回の調査では時期が悪く確認できなかった。


 斜面から振り返って見る異形・八箇隧道。
こちら側にも扁額は健在で辛うじて文字は読み取れたものの、汚れが目立ち、白御影石の面影はない。

 また、正面には、谷を挟んで中将岳の痩せこけた稜線が、痛々しい崩壊地形をそこかしこに見せている。
この白っぽい露頭こそが、平成16年に同地域に壊滅的な被害をもたらした新潟県中越地震において、多数の犠牲者を出した土砂崩れの元凶である。
火山灰や、砂、泥などを多く含んだ、水に浸食されやすい岩質であり、非常に扱いづらい地質とされている。
このような過酷な場所に、明治期より隧道が穿たれ、また昭和においては幹線道路として利用されていたのだから、とにかく危険な道であったと言うべきだろう。
 余談だが、現在この峠の直下に建設が進んでいる地域高規格道路のトンネルも、当初はさらに線形にすぐれた5km超のものを想定していたそうだが、地質的にあまりに難工事が予想されたため、規模を縮小して3kmとしたいう。


 まだ心の準備も出来ていないところに、押し寄せるようにして現れた二つ目の隧道、枡形隧道。
トンネル大鑑リストによれば…

枡形隧道 延長65.5m 幅員4.5m 高さ4.0m 
       竣功昭和29年 覆工あり 鋪装なし
上記の通り、延長以外の諸元は八箇隧道と同じなのだが、繰り返すとおり外観は大きく異なる。

 また、内部に入ってまたびっくり。
ただですら強引に繋げたような坑口前の道路だったのに、洞内に入ってすぐにまた大きく右カーブしている。
隧道内外の2つのカーブにて、ごく短い距離で道は45度くらい方向を変えている。
昭和29年当時の技術水準を考えれば、洞内カーブはそれだけで大仕事だったろうから、この枡形隧道もまた、外見以上にハードコアな隧道だと言えよう。
ドーパミンでた。


 土砂と草木、そして交通からの孤立に押しつぶされそうな、八箇・枡形の超近接2隧道。

 実は、今回の私の調査では発見できなかったものの、八箇隧道十日町側坑口付近には、今も昭和29年当時の開通記念碑が倒れて残るという。詳しくはサイト内でその文面を紹介してくださっている『穴蔵』さんの記事をご覧頂ければよいが、県道十日町六日町線として昭和22年に着工され、「八箇年」の難工事の後、昭和29年に完成し大型バスも通れる道が出来たことを記念したものだという。
碑面には「国都への最短路たり」の文字があり、八箇峠の置かれた立地の重要性は当時から認識されていたことが窺えるのである。


 天井を含め、内壁の大半は後補と思われるコンクリ吹きつけで覆われている。
また、大きなコウモリが数匹生息しているが、その数に較べて異常に多いと思われる糞が、洞床一面を柔らかに覆っていた。
八箇隧道に較べれば、平凡と思われる内部であるが、細かく見ていくと、綻びはこの隧道の方が遙かに多いことに気付く。


 短い隧道はすぐに出口が近付いてきた。
出口付近には水が溜まった痕跡があり、泥が厚く堆積している。
また、内壁には補剛用の環状支保工が巻かれ、吹きつけコンクリートの上に突出している。
どうやら、この隧道には現役当時から強度的な問題があったようだ。
それと関係するかは不明だが、驚くべき史実がある。

 県道として八箇峠に車道が開通した昭和29年のわずか4年後、昭和33年には既に、現国道の工事が始められているというのだ。
そして、昭和46年まで13年もの年月をかけ、現在の八箇トンネルが開通し供用されている。
この事実からも、いかに旧道が車道として適さないものであったのかが窺えよう。



 枡形隧道の六日町側坑口はこれまで見てきた3つの坑口のいずれよりも狭くなっている。
膨大な土砂が、なだれ込むように坑口を囲んでおり、果たして坑口自体は無事なのかという気がした。
とりあえず、閉塞していないだけ助かったが。
この期に及んで閉塞というのは勘弁して欲しい。



 今一度振り返り、我が廃道シーンに鮮明な一頁を刻んだ2隧道連接の風景を瞼に焼き付けようとした。
だが、カーブの向こうは光が満ちており、もはやあの光景を見通すことは出来なかった。
私は、観念して先へ進むことにした。
幾ら見ていても飽きない光景ではあったが、ここは道中最もリスクの大きな場所、峠なのである。
立ち止まっている時間はそれだけ帰路に使える時間が減る事を意味する。



 夢中になれる隧道探索ではあった。
しかし、その途中の一時とて、ここへ来るために味わった苦痛を忘れたわけではなかった。
そして、いま再び峠道へと戻る。
この目の前の出口の向こうに、今度は如何なる苦難が待ち受けているのか。
恐ろしかった。
また、あの薮の光景が繰り広げられるのだろうか。
出来ることなら、もう勘弁して欲しい…。



  戦  慄 

狭い坑口の土砂をよじ登るようにして外に出た私の目に飛び込んできた光景。

それは、私に戦慄をもたらすものに外ならなかった。


峠の先には、もしかしたら踏み跡があるかも知れない。

そんな淡い期待を一瞬でねじ伏せる。

これは、そう言う景色だった。


私は、自分で想定していたのを大きく超える、トンデモナイ道へと来てしまったのかも知れない。

こいつはやばいぜ!
この谷を、俺は制することができるのか!!
或いは、いっちいっち、逝っちまうのか!!



 うおー!

 私が這い出してきた坑口も、トンデモナイ状況になっていた!
奇跡的に通じていたものの、本来の坑門は圧壊し、完全に土砂の下に消えていたのである。
辛うじて残った本来の側壁の一部が、直射の元に「ありえない」と言った表情で立ち尽くしていた。
コンクリートの吹きつけが残る側壁は、谷へと傾きつつあり、やがて隧道を押しつぶした土砂によって、奈落へと突き落とされる定めなのだ。


 枡形隧道は、竣功より僅か半世紀で崩れ落ちた。
並ぶ兄に較べあまり活躍しなかった弟の、無念で孤独な最期だったのだろう。



もう、何もかも投げ出したくなるほどの薮。

しかし、

何一つ諦めることなど許されない。

この薮の果て、百尋の谷の極み、

生還の二字を信じて、次回最終回!