いよいよ、国道340号線に合流。
並走する超ローカル線のJR岩泉線の存続の鍵を握るとされる、国道である。
ちなみに、その関係とは、国道が改良される⇒鉄道は不要になる、というもので、鉄道存続派と国道改良推進派の双方がいる岩泉町にとっては、一朝一夕には進まない難しい問題である。
しかし、今のところは、岩泉線は現役である。
つまり、国道は未改良と考えられるわけだが、その“酷”道ぶりは、果たして如何なるものなのか!
レポートをご覧頂きたい。
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国道340号線に入るとすぐに1.5車線の道が始まる。 そのまま、沢沿いを1kmも行かぬうち、浅内の集落に達する。 ここは、昭和32年から昭和47年まで、永く国鉄小本線の終着駅だった場所。 狭い谷間に、意外なほど民家が密集しており、一帯の集落の中では栄えた印象を受ける。 しかし、すぐにそれも終わり、再び沿道の風景は、元の山中に戻る。 そして、一本のトンネルが目の前に現れた。 これは川代トンネルで、ここから暫しの区間は立派な2車線である。 一見して、新道だ。 |
そう、ここには旧道もある。 上の写真で、トンネルに続く橋の手前で右に入る道がそれで、旧道に入ってすぐに、岩盤が立ちはだかっている。 張り出した岩盤には、黒い穴が口を開けており、これが素掘りの隧道であることは明らかだが、どういう訳か、草に覆われている。 接近してみよう。 | |
ざんねんながら、臨終していました。 既に、旧道と化した隧道は埋められた後でした。 迂回路も無く、この旧道自体の存在が否定されてしまっている。 まあ、区間の沿線に集落も無く、実質的に困る者はいなさそうだが…。 ただただ、残念だ。 隧道の反対側の坑門も拝みたいのだが、切り立った断崖に施工されており、容易には迂回できない。 結局、チャリを置いて、単身ロッククライミングを経て、何とか反対側にたどり着いた。 もちろん、素直に反対側の旧道に現道からアプローチするのが賢い方法だが、いかんせん、時間が無かったから。 真似してはいけない。 | |
これが、苦労してたどり着いた反対側から見た坑門。 やはり、すっかりと埋められ侵入は出来ない。 まったくの素掘りであり、扁額など無いから、名称も何もかも不明だった。 帰宅後、『山形の廃道』サイト様提供の資料により判明した隧道名は「川代下隧道」。 延長は、僅か12mというミニミニな隧道であったが、驚くべきは、その竣工年だ。 昭和34年竣工。 新しすぎるだろ、オイ。 昭和34年にもなって、主要道路にこんな素掘りを掘っていた(当時この道はまだ県道だったが)岩泉町って、やっぱり凄いところだ。 | |
少し下がって撮影。 奥には、の写真にも写っているトンネルと橋が、見えている。 私は、埋められた隧道を迂回する際に、坑門の脇の裸のままの断崖に食らいついたが、凹凸が多く取っ掛かりはよいといえ、素人がフリークライムするには危険な場所である。 もちろん、私こそが素人である。 さあ、また危険を繰り返し帰ることにしよう。 だが、そのまえに…。 | |
うーーーーーーーん! 惜しい!! 隧道を埋めている土砂の上部には幅50cm高さ20cmくらいの隙間が空いていた。 スコップでもあれば、拡張⇒再開通という可能性もあるが、さすがにそんなに準備はよくない。 あきらめて、引き返そう。 無理をして、体が痞えたら、それこそ大事だ。 川代下隧道
ついこの前まで、この素掘り隧道が現役だった国道340号線って、たしかに、酷道だったことは間違いなさそうだ。
竣工年度 1959年 廃止年度 2000年頃か 延長 約 12.7m 幅員 4.0m 高さ 4.0m 新道開通に伴い、土砂で埋められてしまい通り抜け不能。 坑門は確認できる。 |
速やかに現道に戻り、川代トンネルに続く橋から、今一度廃止された隧道を眺める。 なんとも小さな岩脈に道が阻まれていたのだと実感される眺めだが、竣工当時は、この岩脈一つ、細い隧道で穿つのが精一杯だったのだろう。 今後、前後の旧道と共に急速に自然へと還るであろうから、この廃隧道の探索はお早めに。 | |
現道はこの後旧道と合流し、暫くは2車線に拡幅された道を大川に沿って進む。 大川は、辺りの景色は相当な山中だというのに、意外なほど緩やかな流れ。 水量の多さといい、川幅の広さといい、まだまだ源流まで先が長いのだということを感じさせる。 そして、対岸からコンクリの橋梁でこちら岸へと戻ってきた岩泉線が、沿線最大の撮影スポットとされる大アーチ橋を見せる。 殆ど無人のローカル線にはなんとなく不釣合いな、迫力のある鉄道風景である。 青々と茂った木々に隠され見えないが、実は写真の手前の森の中にも暫しアーチは続いており、数えていないが相当数のアーチだ。 | |
岩泉線の景色は、どこか異質である。 まず、高架部分が多い。 だから、あまり低予算で作られたという印象は受けない。 なにしろ、全線を通し、現国道との平面交差は一度たりと無く、そうでなくとも、踏み切りは殆どみない。 押角峠以北は特に顕著である。 ただし、これもより異質さを際立たせる要因になっているのだが…、 どうも多くある橋梁の大半が、コンクリート製なのだ。 雨水などのシミがいたるところに浮き出したコンクリの構造物は、近代的でありながらも、どこと無く退廃的な雰囲気を醸し出しており、そこが、岩泉線に似合っていると思ってしまう。 失礼ながら、これらを見ていると、既に廃止されているような錯覚を覚えるのだ。 |
国道340号線に入ってから約8kmで、押角峠前の最後の分岐点である大渡に着く。 国道は、ここで大川から離れ、進路をこれまでの西から南へと変え、峠への上りが始まるのだ。 ちなみに、直進は一般県道171号線であり、元林道の大変に長く険しい道程らしいが、いずれは国道106号線に合流する。 私は、当然ここを左折する。 | |
ここにはバス停があった。 手書きの時刻表を見て、驚いた。 だって、岩泉行き一日一本、大川行き一日一本。計、一日二本。 バスが、一日二本! 鉄道が、一日三本! ここは、マイカーなしでは暮らしえない場所なのだと実感してしまった。 それでも、一応バスも走っていることに感心するべきなのか…? | |
さらに、すぐ近くにはこんな訴えも! 『一般国道三四〇号押角トンネルの整備促進を!』 ここは、鉄道を取るか、国道を取るかの世界である。 もちろん、大半の住民の利便性を考慮するなら、圧倒的に国道の整備が重要だろうが、感情的には鉄道も残したいというものだろう。 いよいよ、“整備促進”される以前の道が、この先に待ち受けるということか。 期待と不安を胸に、いざ、押角峠!! |
県道と分岐して、大川を渡ると突如眼前の山々が険しく立ちはだかる。 これから峠が始まることを意識させられる眺めだ。 ここにはまだ数軒の民家が残っていたが、深い森に今にも呑まれてしまいそう。 実際、無人となった廃屋が目立つ。 国道は1.5車線のまま、集落をすり抜け、山中へ入ってゆく。 | |
午前6時台では山中の国道などこんなものなのだろうが、とにかく交通量が少ない。 思えば、岩泉を発ってからまだ数えるほどしか他車と出会っていない気がする。 国道を改良する必要などあるのかさえ、分からなくなってくる。 確かに、国道にしては狭い道かもしれないが、ちゃんと舗装もされているし、そんな危険な箇所があるようにも見えない。 …ごらん、 緑に包まれた、なんて気持のよい道だろう。 日本中のいたるところに、まったくの無個性同規格な2車線のトンネルと橋が乱造されている。 このままでは、日本はの旅はつまらなくなるぞ。 | |
峠を登っているのは確かだが、険しい九十九も無く、勾配もほどほど。 宇津野沢のせせらぎに沿って、昭和30年代竣工の小橋を多数交えつつ、ゆったりと登っている。 夏の峠越えなのに、命を脅かす暑さとは無縁の、むしろ涼しさに満ちた森のプロムナードだ。 時折現れる廃屋も、情緒を駆り立てるオブジェだ。 最奥の宇津野集落は消えてしまったらしく、いっとき岩泉線の前身である小本線の終着駅として一定の旅客を有していたはずの宇津野駅もとっくに廃され、国道からその痕跡は見つけられなかった。 大渡付近から峠まで、国道と線路は近くを並走している割に、国道からその姿は見えにくい。 注意していないと、線路が並走していることすら気がつかないかも。 |
大渡分岐から8kmほど沢沿いを登ってきたが、遂に沢を離れる。 この道では初めて出会う、峠らしい九十九折を二つばかり越える。 押角峠岩泉側の唯一の難所といえるだろうか。 でも大したことは無い、むしろ、長い峠道では景色の変化は歓迎すべきものだ。 | |
ふたたび直線的な道となり、朝霧なのか雲なのか判然としない濃い靄に包まれた稜線に迫ってゆく。 岩泉町と新里村の行政境をなす稜線は概ね1000mを越える標高を有し、ここまでの道程ではまだまだ標高500m足らず。 しかし、もう峠は目前なのだ。 なぜならば…。 | |
そこには、隧道が壁のような山塊に風穴を空けて待っているから。 隧道は昭和10年竣工、名は、雄鹿戸隧道。 もちろん読みは「おしかど」。 なぞ掛けのような名を持つミステリアスな隧道は、果たしてどんな体験を私にもたらすのか。 最も楽しみにしていた瞬間が、いままさに!! |
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