道路レポート  
一般国道340号線 押角峠 その3
2003.8.9



 心霊スポットとして悪名高い、国道340号線押角峠。
幾つもの廃村を脇に見て登った果て。
ひっそりと現れた峠の隧道に、
今、足を踏み入れる。

<地図を表示する>

雄鹿戸隧道前
2003.7.18 7:16
 押角峠を貫く隧道の名が、雄鹿戸隧道。
これは、隧道の完成に尽力した岩泉町出身の県議会議員佐々木氏が、古文書を紐解いて名付けた物とされるが、一体どのような意味のあるものなのかは、分からない。
霧雨に濡れた路面の向こう、緑の中に異質なナトリウムネオンの明かりをもらす坑門が佇んでいる。
佇んでいるというのは、正確な表現では無いと思うが、外観上で強烈な印象を残す隧道では無い。
ここにまつわる鬼気迫るような怪奇談を知る者としては、穏やかなその姿に軽い安堵感を気持を覚えたのも、事実である。

 隧道の手前、向かって右側の路傍には、やや距離を置いて、左の写真の記念碑が建立されている。
左のものは、比較的新しそうな木造の碑であり、隧道名とその竣工年、そして、工事請負人の名が記されている。
そう、ご覧いただけるとおり、この竣工は昭和10年。
県下稀に見る古隧道なのだ。

一方、右の写真は、巨大な山神碑であり、ネット上に存在するここを舞台にした怪奇談の、中心的な存在である。

が、
至って、静かに雨に打たれている。
勿論、そうでなくては、困るのだが…。
石碑にも、昭和十年の文字や施工者の名が見える。
 
突入! 雄鹿戸隧道
 深く長い切通しの先に、坑門はある。
年中日影となるであろう坑門付近は、苔が繁茂しており、見ようによっては不気味だろう。
ただ、個人的な印象としては、美しいと感じたが。
昭和10年の竣工といえば納得の、石組の坑門が迫る。
 坑門に立つと、朝の空気よりもひんやりとした、肌寒いほどの冷気がゆっくりと頬を撫でた。
この冷気を「背筋にゾッと感じる」という向きもいそうだが、私にとっては、それは隧道が生きている(=閉塞していない)証に思える。
よく景観になじんだ坑門は、余り多くの比較対象を持たないとはいえ、同年代の他の隧道に比して質素な印象だ。
質実剛健という言葉がしっくりと来る、そんな隧道である。

先ほどから、何度か私の目に留まった施工者の名は“工定組”という。
しかし、その名は、今日のネット上には残っていない。
先ほどの碑には代表人であろうか、“工藤定治”という名も残されており、今なお現役で利用され続ける隧道の姿からは、職人気質の棟梁の一途な仕事ぶりが、にじみ出るかのようである。

 ある怪奇談はこんな経緯を今に伝えている。

―この隧道の施工は、朝鮮から連行された労働力によるものである―

さらには、
さすがに眉唾だろうと思うが、壁に塗りこまれた“人柱”の存在までが囁かれている。

 たしかに都会住まいの人にとっては、この狭くて、じめじめしていて、暗くて、いかにも古そうな石組の坑門を持つ隧道は、格好の肝試しスポットだろう。
しかし、私が感じた印象は、まったく違う。
確かに、外観上に現代的な隧道との相違は大きいし、強制労働が事実だとしたら、痛ましい。
だが、今日のこの隧道には、暖かさがあるように思う。
 何の根拠も無い話で恐縮だが、過去に私が恐怖を覚えた隧道の、重苦しい空気がここには無い。
むしろ、通り抜ける風はさわやかであり、質素な外観には嫋やかさすら覚える。
それに、隧道の前後には、幾つもの碑が建立され、そのいずれも大切にされている様子がある。
隧道は、愛されている。
その竣工は、今なお、感謝の念に包まれているように思える。

薄いコンクリの下には今なお、竣工当時の施工の痕跡が認められる。
 延長は580mあり、昭和十年の竣工時には、全国有数の長大隧道だった。
ちなみに、翌年昭和11年には、福島と山形の県境に栗子隧道(延長870m)が竣工している。
その後のこの二つの隧道の顛末は大きく隔たりを見せているが。
かたや、既に4代目の隧道の工事が進められており、一方は未だ新道の計画もままならない。

 当時はもちろん無灯であり、直線とはいえその通行には緊張を要したであろう。
坑門の向こうには岩泉町から代わって、川井村となる。
時刻は丁度通勤通学の時刻と重なっており、私を意外に多くの車輌が追い越していった。
遥か地中を貫通しているJR岩泉線の始発は、まだ岩泉駅を発ってすらいない。完全に生活感を欠いたダイヤだ。
延長約3kmもの押角隧道こそが、真に恐怖を感じさせる場所かもしれない…。

   雄鹿戸隧道

竣工年度 1935年    延長 約 580m   
幅員   5.8m   高さ  4.5m

近年の改修工事の成果で、内部は化粧直しを受けている。
しかし防災設備は無い。
雄鹿戸隧道 南口
7:19

 やはり、緑に覆われてはいるもののやや開放感のある南側坑門。
頭上の斜面は大変に切り立っており、本来の押角峠のある鞍部は遥か頭上、雲中へ消えており見ることが出来ない。
坑門の左右の切通部分や、上部の緑に隠されつつある法面部など、狭い坑門に対し施工箇所が多く、それらは後補のものだろうと思われたが、実際はそうではないことが、リンク先サイト『土木デジタルアーカイブズ』で見ることの出来る竣工時に発行された絵葉書から分かる。
つくづく、良い仕事をしたものと思う。

参考として、掲載許可を頂いた一枚をご覧頂こう。
他にも、同隧道に関しては数枚の写真がサイトで公開されており、これが特別な存在であったことをうかがわせる。


 竣工時からほぼ現在と変わらぬ大規模な施工があったことが分かる。
特に、美しい曲線を描く坑門右の流水溝などは、何度も引き合いに出すが、栗子隧道の福島側坑門にそっくりだ。
時代の最先端の施工だったろうか。
それにしても、余りにもすっきりとした岩肌と現在の緑の壁の相違には、時の流れの大きさを感じずにはいられない。

 坑門前には、岩泉側とはかけ離れた景観が待ち受ける。
遥か崖下からは雲が湧き上がり、行く道も急な下りですぐ先のヘアピンコーナーに消えている。
峠らしい険しい景観を見せている。
また、ここには広場があり、やはりいくつかの碑が旅人を見守るように立っている。
 左の碑は残念ながらあまり手入れされていないようで、碑面も傷みが激しい。
“記念碑”の文字が大書きされており、多分隧道竣工を記念してのものと思われるが、本文は損耗が著しく判然とはしない。
一方、右の碑は比較的新しいものに見える。
そこには、

  九十九折る山路を越えて乗る馬の、
   ゆきなづみつつ日は暮れにけり


との歌が刻まれている。
作者の名は達筆すぎて、読めなかった。
現在の峠道は、隧道の竣工とあわせて行われた峠道の改修工事によって、比較的コーナーが緩和されているが、それ以前の押角峠の道は、険難を究めたようである。
それこそ、九十九折を幾つも重ね合わせた道程だったのである。
この辺は、先ほど紹介した絵葉書に詳しい。
ぜひ、ご覧頂きたい。

 ご覧の写真は、この広場から一望される堺ノ神岳(1319m)の前衛の山群である。
人を拒む山々の威容を前にしては、人の作り出した怪談など隧道に花を添える程度のものに過ぎない。
かつての峠道は、これほどの山並みを命がけで往来したのである。
そこから見れば、隧道をむやみに怖がるのはおやめなさい、そういいたくなる。

 ちなみに、昭和10年より以前に利用されていた峠越えの道も、府県道岩泉宮古線として認定されていたものであり、車輌交通を赦していたものと思われる。
ただし、国土地理院発行の現在版の地形図にも、点線すら描かれていないその峠道は、もう二度と人の踏み込めない場所と化している可能性が高い。
一応、峠前の広場からは斜面に沿って西に伸びる旧道らしき踏跡が認められたが、今回は調査を見送った。
下り坂
7:27
 川井村側の下りは、岩泉町側に比べ急勾配と急コーナーの連続である。
雨でスリップしやすくなった1.5車線の道を、細心の注意を払いながら下ってゆくと、見る見るうちに峠は遠くなってゆく。
約1kmほど下った場所には、狭い広場があり隧道でも見た木の碑が建っていた。
そこには「昭和5年押角道路改修」に加え、工定組の名が刻まれている。
先ほど紹介の絵葉書の一枚を見るに、ここは改修以前の道よりさらに古い時代の徒歩道が現道や旧道と交差していた地点である。
松の古木が崖に面して生えていて、なにやらその袂には巨大な自然石(石碑かも?)があるなど、古道の気配を感じさせるオブジェは揃っているが、探索時には旧旧道はおろか旧道の存在も考えておらず、詳細は不明である。
そもそも、昭和10年竣工の峠には、旧道をイメージしにくかった。

『峠の隧道には必ず旧道あり』という格言を、忘れていた。


私は、当然ここを左折する。
 刈屋川の源流の穿つ深い谷間にへばりつく様にして、さらに下ってゆく。
峠の区間では最も道が東寄りとなる刈屋川渡りの部分には、古い橋が辛うじて残されていた。
欄干はその役目を新しいガードレールに譲り、縁の下の力持ち的に、ただ、その背を貸している古橋。
親柱も風化著しく、名も知れぬ橋である。
おそらくは、昭和5年ごろの改修工事によるものであろう。
 峠から約4kmで200mもの高度を、転げるようにして下ってきた。
先ほど、木の碑が建っていた地点は、写真に写る法面の直下であり、古道は眼前の斜面を九十九折で短絡していたようだ。
ここから先はやっと刈屋川沿いの道となり、幾分勾配もおとなしくなる。

 刈屋川と堺ノ神岳から流れ出る支沢との出会地点。
ずっと1.5車線だったが、やっと待避所が現れた。
この険しい峠区間において乗り合いバスの通行が困難なことが、岩泉線の綱渡りのような存続劇の主たる要因である。


そして間もなく、久しぶりの駅が現れる。
それは、日本最強の秘境駅だった!

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