国道45号 旧道 羅生峠 後編

公開日 2006.09.07
探索日 2006.04.08

 冷たい春の雨が落ちる中、越喜来(おきらい)からかつての国道45号を通って羅生峠を目指した。
やがて、海抜240mの羅生峠に辿り着く。
静かな峠では、峠を挟んでほぼ同距離にある双方麓の町から、同時に町内放送が聞こえてきた。
峠ならではの多元放送という、忘れがたい体験をした私であったが、忘れられたような廃標識が誘う下り道へと進む。

 はたして、そこにはどのような光景が待ち受けているのか。


峠の表と、裏

急斜面の吉浜側

 越喜来側の峠道は、砂利道ながらしっかりとした轍があり、いまもそれなりに通行量があるようだった。
しかし、峠の切り通しの吉浜側出口は、地形図にも記載のない三叉路になっていて、地図にない右の道に轍は全て吸い込まれている。
本来の旧国道である左の道は、切り通しとも申し訳程度に繋がっている感じで、一面の枯葉に覆われ、廃道の気配さえある。
 三陸国道事務所で発行している、「いまこの道ゆけば」という、国道45号の旧道を紹介した資料でも、今から10年以上も前の状況ではあるが、羅生峠旧国道の吉浜側は草ぼうぼうの廃道となっている様子が紹介されていたように思う。



 しかし、期待と不安は同時に充たされない。
落ち葉の下には、確かな砂利の手応え。
道自体は、通行量こそ少なさそうなものの、まずまず整備されているようだった。
ここ何年のうちに再整備が行われたのか。
 また、吉浜側の斜面に出ると、それまでとはうってかわって空が視界の大部分を占めた。
峠を境にして、道の性格ががらっと変わるようだ。



 これが旧国道再整備の原因かもしれない。
比較的最近に施行されたらしい、恐ろしく大規模な治山工事。
峠のすぐ傍の斜面を起点にしてはるか吉浜側の中腹まで、さながらゲレンデのようにのっぺりと木が伐られ、排水路が造られている。
写真で見る以上に実際には急斜面に感じられ、眼下の吉浜や、その端っこにちらりと見える灰色の海の眺めは、飛び込み台から覗き込むような高度感を持っていた。

 峠を境にして明確に分かれる、緩と急、明と暗。
峠の両側によく似た境遇の生活圏がある事を意識させられる町内放送の一件とは反対に、峠の二面性ということを強く意識させられる景色だった。



 近年になって一度はダンプやトラックが帰ってきた旧国道だが、いまは再び静かな時を過ごしているようで、道の両脇に勢力を拡大しつつあるススキ達の寝床の中に、元来の道幅を伝える古標識が取り残されていた。

 吉浜側は最初から急勾配で下っており、左に移った稜線はどんどん離れていく。



 治山工事に付随してか、吉浜側の旧道はその随所に真新しい補修箇所があった。
それらは、現在の道路の事情を反映しおらず、大袈裟に見える。
立派に改修してあっても、通行量がまったく伴わないせいで、敷かれた砂利などは殆ど踏み固められてさえおらず浮きまくっている。
二輪車にとっては、ちょっと危険を感じる。



 天然の良港、あわび養殖で知られる吉浜湾を挟んで、羅生峠とは比べものにならないほどに険しい鍬台峠の山並みが、三陸路の困難を予感させる。
海抜500mを越える鍬台峠は三陸でも高い峠の一つで、明治期までの峠は車道化に適さずに廃棄され、昭和40年代以降に再び峠直下に長大なトンネルが掘られて開通するまで、延々15km以上も海岸線を迂回する道が国道に指定されていた経緯がある。故に、峠の旧車道は存在しない峠なのである。

 余談というか与太話だが、「鍬台」は“くわだい”と読むと思うが、“すきだい”とも読める。
すると、越喜来→鍬台、“お嫌い?→好きだい!” なんて。




 斜面に添って東進しつつ高度を下げていた道が、進路を反転させ今度は今下りてきた斜面の一段下へ潜り込む。
そのヘアピンカーブ。
旧国道の峠には、このようなカーブの一つ二つありがちではあるが、鋪装さえない現状からは流石に、三陸唯一の幹線路だったという現実感は乏しい。
だが、かつて“陸の孤島”と形容された三陸の旧情は、このような何気ない道路風景によっても保管されている。



 峠から約1km、海抜は160mあたり。
峠を出てすぐに見下ろした治山工事の傷跡の直下に達する。
そこは、更に大規模な地形改変の舞台となっていた。
また、治山のみならず、現国道の羅生トンネルの直上にあたることから、トンネル坑口の改修工事によっても旧道はいろいろといじられた雰囲気がある。
それにしても、深く洗鑿された真新しい砂利道には、旧道の無為感が溢れている。
いっそのこと、廃道のままでも良かったのではないかとさえ思ってしまう。



 国道45号を短くしようという力でも働いているかのように、今も次々と新しいトンネルやバイパスが建設され実際に短くなっていく国道45号。
昭和50年代までの一次改築によって、全線では150km以上も短縮されたなどと言う信じられない話もある。
そのうち、羅生トンネルは昭和40年の竣功である。
また、数年前の土砂崩れを契機にして坑口の延伸改修が行われ、現在の姿になったようだ。



 羅生トンネル坑口を回り込んで更に下ると、二つ目のヘアピンカーブがそのゆったりとした体躯を現す。

 いい、線形である。 惚れ惚れする。
カーブの大きさ、勾配、見え方、どれも申し分ない。



 ヘアピンカーブで大きく高度を下げ、すでに現道より下へ来ている。
現道の築堤へぶつかる寸前に、小さな橋が架かっている。
長さの三倍も幅があるような小さな橋だが、前後の線形は著しい不適で見通しが悪い。
難所だったに違いない。




 一度は接するほどに近付いた新旧道だが、現道が大きなカーブを描くために離れていくと、次に再会するまで旧道は700mほどの単独区間となる。
牧草地に面した真っ直ぐな下り坂が続くが、路面は荒れており、かつては路線バスも頻繁に通った道だとは思えない。
どう贔屓目に見ても、一級国道といわれる全国の他の国道達(の旧道)とは、ちょっと違う気がする。
高度は海抜100mを割る。終点は近い。



 そして、現道の横石バス停の近くで新旧道は再会する。
が、この部分は現道への切り替え工事によって旧道の線形が破壊されたのか、どうにも不自然な接続となっている。
峠から下ってきた砂利の旧国道は、別の舗装路にT字路でぶつかり、この舗装路が現道にすぐ十字路でぶつかる形となっていて、明らかにかつて一本の国道だった線形としては不自然である。
このT字路の旧道入口(左写真)は、いくら何でもあんまりの狭さで、本来のルートは消えたものと想像される。
地図を見て辿ろうとする場合、この細かな曲がりは描かれていないので、ロストに注意である。

 

 そして、すぐにこの十字路で現道に合流。
そのまま旧道は現道を突っ切って横石集落へ入る。
国道からの見通しが悪い交差点で、突っ切る場合は特に注意が必要だ。



 現道のゆったりしたカーブの内側の集落を真っ直ぐ突っ切って下る旧国道。
正面の雲に煙る山並みが、鍬台峠だ。


 そして、再び現道にぶつかると、これで峠区間は完全に終わりとなる。
合流地点は、国道が吉浜川を渡る要橋の南の袂である。
ここは吉浜集落の端っこで、川を渡れば三陸鉄道の吉浜駅がある中心地である。

 現在時刻は午前8時53分、随所で写真を撮って下ったせいで、たった2.5kmの峠からの道のりに20分を要した。
しかし、期待以上に旧情が色濃く残る旧国道であったと思う。
峠のスケールは大きくないが、一本の峠の表と裏を明快に体験できた達成感は小さくなかった。



幹線国道の峠路


 吉浜の町までは行かず、機首を反転して再び今越えた峠へと登りを再開する。
今度は、現国道の味を確かめるために。

 走り始めるとすぐに、三陸鉄道のトンネル坑口直上を跨ぐ跨線橋があった。
吉浜駅までは、小さなトンネルがもう3つあるようだが、次のトンネルまでの約500mは胸の空くような直線である。
また、足元のトンネルは羅生峠の基部を豪快に貫く羅生トンネル全長約2kmである。将来、国道が三陸縦貫自動車道としてバイパスを開通させるときには、同程度の延長のトンネルが生み出される事になるのだろう。



 そのまま視線をやや右に転じれば、ようやく吉浜湾の海面が見えた。
空と海の色が、まるっきり同じである。
海は、人を開放的な気持にさせるのが常だが、どうにもこの日の海はいただけない。なんだか、気が滅入る。



 鹿が多いという話を前回したと思うし、また実際に鹿にも遭遇しているわけだが、走る凶器が連なる現国道では、飛び出す者も凶器となる。
まして体重数十キロの鹿となれば、鹿には気の毒だが車のダメージも計り知れないものがある。
この辺りを通行する場合は、車・バイク問わずに注意していただきたいと思う。

 国道は、海抜180m付近の羅生トンネルを目指し、旧国道に較べれば圧倒的におおらかな2つの大カーブで登りを構成している。
峠まで約2kmの登りで、その距離は旧道と同程度であるが登るべき高さは60%程に過ぎず、勾配の違いは明らかである。



   さて問題です。

 この先 急勾配 急カーブ
 “○○○○” して下さい   (国土交通省)

 ○○○○に入る言葉は、何でしょうか?
 答えは、峠の後に。




 途中、路肩に駐車スペースがあるのだが、そこには私の大好きなボンネットトラックが駐まっていた。
これまでも、私は何度かこれと同じ車を旅先で見ているが、それはどれも岩手県内のことであった。
いまや、全国的に絶滅寸前と思われているボンネットトラックだが、局所的には利用されているようだ。
普通のトラックがちゃっちく見えるほどに、このボンネットトラックという奴はカッコイイ!!


 正面に回り込んでみて感激!!
なんと、ライトが点灯している! ドライバーの姿は見えないが、今にも動き出しそうだ!
そして、初めて形式と思われる文字「HTW12L」を見ることが出来た。また、このトラックの本拠は釜石の辺りにあるらしいことも分かった。

 ネットで調べてみたところ、どうやらこのトラックはISUZUの「u-HTW12L」という車種のようだ。
なんと、外から見える6つの大きなタイヤが全て駆動輪だという。
ボンネットトラックは不整地に強く、速度は出せないが、原木運材や鉱山などで利用されることが多いという。
このトラックは、近くで木の伐り出しをしていたので、原木運材の任に就いているのか。



 登りはじめて約15分で、見覚えのある景色と共に、羅生トンネルが正面に現れた。
昭和40年竣功という古さを感じさせない、流線型でエレガントな坑口に見える。
更に接近。



 古さを感じないどころではない。
むしろ、明らかに新しすぎる。
扁額が坑口になく、その代わり隣にわざわざ石碑が用意されている。
上から見たときにも、坑口を延伸してから土を被せて埋め戻したのかなと思ったが、全くその通りであったらしい。
坑口へ土石流が押し寄せることを防ぐ目的なのか、羅生トンネルは全く新しい坑口に生まれ変わっていた。



 ゆったりとカーブしながら本来の直線の隧道へと繋がる延伸部分。
昭和42年の全国隧道リスト(『山形の廃道』サイト提供)によれば、延長は520m、幅6.5m、高さ4.5mであるが、延伸部分はこれに含まれていないであろう。
また、断面も少し大きいようだ。
それに、照明もハイパワーな物に取り替えられているのか、坑口付近はかなり明るい。



 カーブが終わると、大体坑口から50mほどの地点で本来の断面に変化している。
かつての坑口はこの位置にあったのか。
以後、出口まで弓なりの勾配を見せる隧道は直線である。



 旧来からの部分は、流石に経年を感じさせる姿となっており好感触。
幹線国道にあって、容易に取り替えることも出来ず今日に至るその姿は、まさしく矍鑠たる老兵そのもの。
大型車も容赦なく通り抜けていく隧道内には、歩道はおろかまともな路側帯さえなく、チャリには過酷な環境である。
天井には、幾筋もの電線やらチューブやら太いパイプやらが這っており、ライフラインとしての機能をも担っているようだ。



 越喜来側の坑口は旧来の姿のままであった。
やや卵形の鋭角的な断面も、こちら側では容易に観察できる。
扁額や銘板も健在であるが、銘板の距離などは書き換えられていなかった。
今日では、明らかに国道のボトルネックとなってしまった感のある断面狭少設備不良隧道である。
頼みの綱の三陸縦貫自動車道の工事は、越喜来南端の三陸ICまで伸びてきたまましばし停滞しており、三陸以北釜石市までの事業化の目処は立っていない。


 羅生トンネルを出ると、雨脚が強まってきた。
トンネルの越喜来側の下りも約2kmの道のりである。
旧道とは逆に、現道の場合は越喜来側の方が急勾配で困難な道である。
トンネルを出てすぐ、登坂車線を含め全車線を跨ぐ巨大な標識門が設置されており、手始めとばかり連続カーブの警告標識が掲げられていた。
私の大好きな景色だ。



 坑口を振り返る。
登坂車線が坑口寸前で終わっており、かなり圧迫感、窮屈感のある景色となっている。
この越喜来側の坂道には、半分以上の区間に登坂車線が設置されていて、その険しさを現している。
大型トラックがけたたましい唸りと煙を吐き出しながら登ってくる様を、私は何度も目撃した。



 坑口前にはロードサイドバークも用意され、そこは大型車のたまり場になっていた。
その片隅に設置された控えめながら誇らしげな案内板。
羅生トンネルの鋪装を、明色鋪装という蛍光性のある特殊な工法で行ったために、視認性が著しく向上したことを書いている。
古い隧道ながら、精一杯安全に務めようという姿勢が、いじらしい。



 坑口を離れると、登坂車線込みの3車線道路がうねるように下っていく。
旧道で出会った大六林道の起点があり、炭あ沢のバス停も傍にあったと思う。
いかんせんチャリといえども下りは速度が出ており、余り止まりたくもないので、観察がちょっと手ぬるくなっている。
止まりたくない最大の理由は…、ぶ、ブレーキパッドがね… 減っててね。
あんまり利かないんだよね。 うふふ、整備不良は事故の元。
マジ笑えない展開になるまで、もう数時間しかなかったわけだが、それはまた後日……。



 さりげなく登場する勾配10%の標識。
おいおい、小本とおんなじかよ。
10%といったら、元一級国道としてはかなり珍しい急勾配。
延々と続く登坂車線も、この道では最大限活用されている。



 ……。

 史跡や記念碑じゃないんだから…。



 勾配もさることながら、バンクがかかった急カーブが次々に現れる。
いくらセンターラインを強調しても、速度を出し過ぎれば速攻逝ける。
冬期には零下になることも珍しくない三陸国道であるが、これが現実である。
昭和40年代初頭に国道一次改良事業としてようやく満足に車が走れるようになった道を、今も改良だけで使い続けているのだから、やむを得ない。

 近年ではいろいろ無駄が多いと言われる道路改良事業だが、ことこの三陸唯一の幹線国道である45号については、もういい加減、抜本的に改良しても良い頃なのではないかと通るたびに思う。


 久々にコンビニのポールサインが見えてくると、そこは越喜来の短い平坦区間。
一つの峠が終わり、すぐにまた次の峠、更に険しく高く、そして長い、三陸峠が始まる。
時刻は午前9時29分。
ますます強まる雨と、下り坂での激しい水撥ねで、下半身はもうびしょびしょ。
気温は10度と少しで、動いていないと堪らなく寒い。
そんな状況で、迷わず次の峠へ向かう私。

 その前途は、最悪だった。



 答え合わせ。

 答えは、「安全運転」でした。

 あなたは正解しましたか?
 誰? 「ドリフト」とか言っているのは?!



 難読地名に始まる、印象深い名の峠。
 実際に訪れてみても、その名前の由来は分からなかったが、印象は親しみと共にさらに深まった。