国道45号 旧道 三陸峠 第二回

公開日 2006.09.11
探索日 2006.04.08

三陸大峠へ挑め

【旧国道】 濛雨の峠路 

 これからいよいよ大峠への旧国道に進む。
現在地は海抜約240m、大峠は321mである。
地図上から推定された峠までの距離は約2.5kmであり、比較的緩やかな峠道だと言える。
昭和36年に三陸隧道を含む現国道が開通し、それ以降は旧道として現在に至る道だ。




 午前10時15分、小粒の雨が断続的に落ちる中、現国道上の大変目立たない分岐地点から旧道へと右折する。
初めの10mほどは急勾配だが、すぐに本来の緩やかな道となる。
路面には、よく締まった砂利が敷かれている。
だが、杉のざっぱがたくさん落ちており、いかにも交通量は少なさそうだ。
廃道寸前といった感じである。



 目指す大峠とその下を潜る三陸隧道とは、高低差が約40mあるが平面上の位置は近い。
ここから峠まで、地図が示すとおり、両者は付かず離れずに進んでいく。
山肌に添って素直に蛇行を繰り返す旧道と、土盛りと掘り割りで直線的に峠を目指す現道。
いかにもな新旧道の関わり合いが、峠直前まで続くことになる。
 その旧道は分かれてすぐに、現道との間に一定の高度差を確保する。
 日なたの部分はススキの枯草が路面上にも多く残っており、時期によっては廃道に見えるだろう。



 勾配は思った以上に緩やかで、チャリで走るにも苦にならない。
しかし、山の傾斜が緩やかかと言えばそうでもなく、並行する現道との、ご覧の写真のような高低差を見てもそれが分かるだろう。
傾斜が急であるからこそ、等高線に出来るだけ逆らわずに山肌を横断するような、長い峠路を設けたのだと考えられる。



 何とも言えぬ廃れ方を見せている旧道。
いや、もしかしたら現役当時だってそう大きく変わらない景色だったのではないかという気もする。
車一台分だけの幅を斜面を削って用意し、そこに砂利を敷いただけの道。
こんな道がいまから40年ほど前まで、三陸沿岸南北に結ぶ唯一の幹線だったというのだから、その交通不便たるや想像を絶する。

 あなたなら、毎朝夕この道を運転して通勤できますか?




 ペースは安定しており、順調に進んでいる。
路傍にうち捨てられた通行止めの看板を発見。
このまま行けばもう数年で松葉の影に隠れてしまいそう。



 ここで、雨脚が急に強まった。
今日これまでで一番の雨だ。
それまで降ったり止んだりでなんとか騙し騙し探索を続けていたが、雲の形も見えぬ暗澹とした空から、遂に本降りの雨が落ち始めた。
私は、思わず松の巨木の根本に避難。
ゴツゴツした幹はまだ乾いていたが、次々に大きな水滴が落ちてくる。
雨の音が全てを覆う。

 探索は基本的に雨天決行。
しかし、どうしようもなく冷たい雨に、戦意減退。
寒い!



 待っていても止む気配のない雨に追いやられるようにして、松の木陰を出発。

 作りっぱなしの荒々しい道が山肌に織り込まれるようにして続いている。
勾配は本当に緩やかで、路面は荒れているがチャリに跨ったまま進むことに苦労はない。
道幅は車一台分のまま一定であり、かつて車同士どうやってすれ違っていたのか。
路線バスも通っていたはずだが。



 気がつくと、現道の方がハイピッチで高度を上げてきていた。
遙かに距離は長いはずの旧道の方が追い上げられている。
ガードレールもない路肩に現道が接しており、ぎりぎりで旧道の道幅が残っていた。助かった。
午前10時39分、旧道入口から約1kmほど来たと思われる。
峠方面の視界は不良で、いまだ鞍部は特定できない。



 再び鬱蒼とした杉林へ進路を取る旧道。
何もかも無理のない道である。
林鉄跡だと言われれば信じてしまいそうな勾配だ。
時折沢を渡る場面では、それを築堤で跨いでいるのも林鉄っぽい。

 雨のせいもあるのか、山で働く人影もない。
並行する現道にも車の音はない。
ただ、雪のように静かな雨が降り続く。
上半身は合羽を着ているが、とっくにびしょ濡れとなった太ももより下が寒い。
いま、気温は何℃くらいあるのだろう…、おそらく10℃を下回っているのではないか。


 意外な事に、最近補修されたらしい場所が現れた。
こんな道でも、一応は市道にでも指定されているのか。
例によって、補修された後は殆ど誰も通っていない雰囲気だ。

 路面に、蹄の痕が点々と続いているのを見た。
おそらくは鹿だろう。



 午前10時52分、分岐が現れた。
すでに標高は300mに達し、峠まではもうあと僅か、距離にしても500mあるかないかの筈だ。

 この分岐は、刻まれた轍を比較する限り直進したくなるものの、峠への旧国道は右である。
直進の道は、少し下って現道の三陸隧道近くに合流している。
かつては国道から分かれる枝のような林道だったものが、いまは逆に幅を利かせている。



 右折すると、案の定道は荒れていた。
いまだ目指す峠の位置を特定できないでいたが、雲とも霧とも思える靄に上部を隠された険しい稜線が、近付いてきた。



【旧国道】 三陸大峠


 分岐から程なく、道は廃道となった。
もう、長い間このままになっているようである。
それほど壊滅的な崩壊というわけではなく、単純に通行量が少なすぎて、細かな崩落さえ補修されぬまま時を重ねてきた姿だ。
苔生した岩石が散乱する小さな沢を跨ぐ。
これが私の性なのか、心にわき起こるわくわくが、低下した体温を補ってくれる。



 頭上には、稜線がくっきりと現れてきた。
町中にある電柱に毛が生えた程度の可愛らしい高圧線が通っている。
おそらく夏場にはススキの海になるだろう廃道も、今だけはおとなしい歩道であった。
はっきりと明るくなった峠路に、頂の接近を感じながら歩く。



 道幅がかなり失われている箇所もあるが、総じて穏やかな廃道の景色。
簡単な補修で再度開通させることも出来そうに見える。
ただ、まるっきりその需要がないだけなのだろうが、この道は今のままでいるのが一番幸せそうな気がした。
旧道のうらびれた雰囲気が心地よい。
雨も悪くないな、 そう思う。



 来た、峠だ。

 一目見てそれと分かる、まるで峠のお手本のような景色だった。
稜線が馬の鞍のようにゆったりと縊れており、弓なりの勾配を描く道が通る。

 決して険しい峠では無かった。
だが、往来は完全に途絶えてしまった峠に、不思議な存在感があった。
音の途絶えた森、色のない空、冬が置き忘れていった白きもの。



 峠の越喜来側は広場になっており、どこまでが道だったのかも判然としない一面のススキ原である。
また、道はここでT字路となっていたらしく、地図にはない直進の道形もあった。
しかしこの直進路、もとより長く続いてはいなかったようである。
広場から50mも行かぬうちに道幅は痩せ細り、行く手に現れた擂り鉢状の沢の先に道らしいものは見えなかった。
もしかしたらこの道は、峠の掘り割りを掘った時の残土を棄てた跡かも知れない。



 広場の片隅、斜面に面した場所に不思議な物があった。
写真に写る、三つの穴。
深さはなく、直径はそれぞれ50cm程度。
一体、ここに何があったのだろう。
広場の不自然とも言える広さを見る限り、峠の茶屋でもあったのだろうか。
この三つの穴は、何を語っているのだろう。



 峠前の広場。
かつて、町と村を結んだ峠の頂。
もう誰も来ない、トンネルの上の忘れられた場所。
峠の松の代わりに往来を見守っただろう小峰は、まだ冬の装いそのものだった。

 私は、いたくこの峠が気に入り、雨に濡れながらもしばし時を過ごした。
やがて、掘り割りを一条の風が駆け、それを合図に雨脚が強まった。
風は、私に耳打ちした。

 …今日は雪がおりてくるぞ。


 午前11時18分、峠着から15分を経過していた。
まだ名残惜しかったが、峠を越える決心をした。
雪代が僅かに残る、長く深い掘り割りへ進み出る。

 こんなに寂しい峠を、いままで見たことがない。

 色の抜け落ちた世界に、私ははっきりとした足跡を残し、

 いま、三陸大峠を、越える。



 弓なりの峠の一番高いところを越えても、まだ掘り割りは長く続いた。
想像していた以上に、大きな峠である。
両側の掘り割りの法面はなだらかだが、その高さは相当のものがある。
隧道になってもおかしくなかったのではないかと思えるほど。
そして、路面には今も微かだが轍と砂利が残っていた。

 峠のむこうの新しい世界が眼前に広がろうとする。
目に見えぬその力は、掘り割りを進むほど増大し、ある一線で遂に堰は切られるのだ。



名に恥じぬ 大峠 の見晴らし。

大船渡の街を囲む山々の力強い存在感。
遠くに蛇行する国道が白く光って見える。
湾になって広がっているはずの海は、雲と一つになっていて見る事が出来ない。
たかだか海抜300mの景色とは思えぬ、圧倒的なスケール。

なお、次に目指すべき新峠だが、向かって右の稜線を再び越える事になる。
正直、怖いと思った。



 もう一つ、見逃せない発見があった。

掘り割りの大船渡側入口の斜面にひっそりと建つ、一本の板碑である。
自然石を用いており、峠の登り口に並んでいたものとも似ている。



 ○南無阿弥陀 
        大正五年

 そのように刻まれている。
見知らぬ旅人であってもその無事を願わずにおけない、庶民信仰の温かさを感じさせる一碑であるが、私が注目したいのは刻まれた年号である。

 新峠から、この大峠(旧国道)へと往来の主役が移った時期は不明であった。
明治期にそれまでの奥州浜街道の大部分を存続して、新たに東浜街道を定め整備したと記録があるが、その細かなルートは分からず、これが引き続き新峠を通ったのか、或いはこの時に大峠が拓かれたものか。
 しかしこの板碑は、少なくとも大正5年にはもう大峠が存在していたことを示している。
ある時期に新峠は廃れたはずだが、やはりそれは大峠と入れ替わりになって進んでいったと考えるのが自然だろう。
一つの仮説として、明治期から大正5年までの間に、新峠と大峠の選手交代があったのかも知れない。


 次回、美しい大峠を発ち、苦難の道へ…。