15:15
峠のてっぺんから麓の藤集落まで、約3kmの道のりを下り始める。
高低差は僅か100m強しかないから、全線にわたって勾配は極めて緩やかだ。
峠の西側は思いがけず廃道と化していたが、こちらはそういうこともなく走りやすい。
下り初めてすぐにこの大きなヘアピンカーブが現れる。
ゆったりとしたカーブの部分は殆ど勾配がゼロに近く、まるで広場のようだ。
ヘアピンカーブで進路を180°転回し、再び下りが始まる。
それにしても、この微妙な路面の草付きはなんだろう。
今も定期的に草刈りの手が入っているのか、或いはよく締まった目の砂利敷きがそうさせているのか。
この道が何ら観光的な案内の対象になっていないことや、関連する市町村の財政規模を考えれば、おそらく後者だろう。
峠の両側で大きく藪化の進行状況が異なっていることについても、いくらでも説明は付けられる。
いきなりこういう事を書いても、突拍子が無い感じがするかも知れないが、この道はチャリで走るのには最高。
いままで、これほどまでチャリに優しい峠道があったろうか。
悠々と広い道は、全面が芝を敷いたような美しさで、しかも隠れた砂利のためによく締まっている。
下っても勾配が緩やかだからのんびりと景色が観察できるし、登るにも全く苦労することはないだろう。
感動した!
この感動は、ちょっとレポートでは伝えづらいし、ちょっと穿った見方をすれば、余りこういう感想は読者諸氏の期待に添わないものかも知れない。
だが、少数でもこのような道が紹介されることを期待してくれる人もいるであろうし、何より現地での私の感動は、至極困難な廃道を突破したときに劣らぬものがあった。
私が前回の最後に「三島通庸のニコニコ顔」と表現したのは、実はこの道の姿そのものについてである。
三島通庸の作った道のイメージとしてこの藤峠が相応しいかと言えば疑問だが、しかし彼の道路造りの信念が、最もよく結実した道であると思う。
彼は責任ある為政者として、なにも、挑戦的な険しい峠道を作りたかったのでは無い。
老若男女の誰でもが、いつでも安全に通れる道を、作ろうとしたのだ。
そうすることで産業が発達し、県土と国土は相通じて豊かに発展するというのが、彼の信念だった。
彼の残した峠には、当時の技術的な限界もあって、現在の我々の目から見れば険しきに過ぎるものも多いが、この藤峠は例外的である。
そのことを証明するように、昭和14・5年頃の車道改築によって切り捨てられた旧道というものが、この藤峠には殆ど存在しない。
明治期の地形図に描かれた藤峠と、その後の藤峠とでは、細かなカーブの一つ一つまで、殆ど一致している。
単に拡幅することを主とした改良で、事が足りたものと思われる。
私はこれまで多くの、三島通庸が作らせたという峠道を辿ったが、彼の十八番である隧道も橋もないこの峠を、敢えて上位に据えたいと思う。
道として長く有効に使われたという「価値」は、殆ど利用されず廃道になった“失敗作”の希少性よりも重いものであるし、敬愛する彼の“成功作”がこれほどに美しい姿のまま残っていることを、私は重視したい。
藤峠の後に、今では殆ど廃道となった束松峠を歩くと、その地形的な優劣は明らかである。
今日のように航空機による測量も無い時代に、この藤峠の優位を見抜き、それを遅延無く開削した三島や彼の側近たちの力は、さすがである。
そして、この道の完璧さゆえ、旧来の束松峠を推進する人々の血の滲むような苦闘も、実を結ばなかったのだ。
15:17 【現在地:峠の老松】
峠から約500m下った所に、ひときわ巨大な松の木が生えている。
これは「峠の老松」と呼ばれ、峠に清水とともによく知られたる存在だった。
前述の『会津の峠(上)』にもやはり記載があるのだが、この松の木陰は歩いて峠を越える旅人たちの昼食場になることが多かったそうだ。
なんだか、信じられない気がするのだが…。
ここが本当に、バスやトラックが排ガスを巻き上げて走った一級国道だったなんて… しかも、私が生まれる少し前まで…。
江戸時代からあったなら、樹齢200年をも余裕で越える老松なのだろうが、その樹勢は盛んである。鱗のような樹皮に守られた幹には、その巨体を支えるに足る十分な質感がある。松にしては素直すぎるようなシルエットも、大雪や台風に繰り返し耐える上での強力な武器であろう。
この峠と勝敗を決した束松峠には、その名の由来となった「束松」という松の珍種がある。
しかし、かの束松は今や絶滅寸前であり、最後の老松が今年にも完全に枯死しそうな状況である。
二つの峠の二本の老松は、それぞれの峠の寿命を象徴したかのようだ。
藤峠の旧道は、麓近くまで全線が未舗装で、土の上に浅く砂利が敷かれている。
そして、両側から乾燥に強い雑草が浅く路面を覆いつつあり、道全体が若草色となっている。
その路幅は常時7m程度あり、未舗装でありながら2車線の幅を完備していたようだ。
言葉で伝えるよりも、これらの写真を見ていただくのが一番だろう。
ここは、峠から数えて3番目のヘアピンカーブである。
とにかく、チャリを流していてこの上ない幸せを感じる道だ。
峠から700m地点附近。
只見川の両岸に広がる狭い平野の向かい側に、馬立山を主峰とする小さな山脈が見えている。
その稜線の向こうには、背景となる山並みが無い。
そこには、広大な会津盆地と、会津地方の盟都である会津若松市が広がっている。
東北の陸地のなかで一番海から遠いだろうこの地域だが、藤峠からの眺めは、その山深さを感じさせない。
しかし、もし峠の反対側の眺めがあれば、印象は全く異なっているに違いない。
藤峠では越後方向の眺望に優れた場所はないが、そこには累々と折り重なる山並みしか見えないはずだ。
藤峠や束松峠は、穏やかな会津盆地を旅立つ人間に惜別の念を抱かせる、里と山との界の峠であった。
さらに下っていくと、ようやく車道を感じさせる遺構が現れた。
雪に押しつぶされたような、折れかかったガードレールである。
十分な路幅の外側に、控えめに存在している。
しかし、これも僅か一つのカーブの間だけだった。
この峠道は、本当になだらかな所である。
15:21 【現在地:現道築堤接近】
峠から1.1km地点。
4つめのヘアピンカーブが行く手に現れるが、それより遙かに大きな存在感をもって現国道の大築堤が出現。
峠の手前で別れた両者は、旧道経由で2km、現道経由で1kmにて、再接近する。
しかし、まだ合流はかなり先である。
高低差30mくらいはある大築堤。
国道を通る巨大なタンクローリー車も、あんなに小さく見える。
こういうことを言うと語弊がありそうだが、幹線国道沿いなのに不法投棄物が殆ど見られない。
家電製品のような大きなものはもちろん、空き缶なども数えるほどしかなく、申し訳ないけれど、率直な感想として関東地方とは何かが違う。
おかげで、現道にこれだけ接近したにもかかわらず、ありがちなゴミの山に萎えることもなく、いい気持ちのまま旧道後半を楽しめた。
一度は接近した旧道と現道だが、また一旦離れることになる。そして、旧道は下藤川の沢沿いを下っていく。
崩れた路肩の遙か下に、深そうな水面が見えた。地形図で確認すると、溜池があるようだ。
沢沿いとはいっても、道は水辺から遠いせいか、じめじめした感じではない。むしろ明るい。
徐々に鮮明になり始める轍の跡。
しかし、殆どここまで車が入ってないのは何故なのだろう。
そんなことも考えながら下っていた。
きっと、立ち入り禁止のゲートが麓にあるんだろう。
写真は、この藤峠に現存する唯一の石垣。
高さ1m、幅は30mほど。昭和初期の改修でつくられたものか。
その上に、お馴染みの旧字体県名標柱も建っていた。
15:24 【現在地:チェーンゲート】
やっぱりあった、封鎖ゲートだ。
しかし、簡単な作りのチェーンゲートで、チャリはもちろんバイクでも余裕ですり抜けられるだろう。
そして、ここから先は一般の公道になる。
しかし、見るべきものはまだあるぞ。
険しさとは無縁の峠道。
それもいよいよ人里へ、終わりへと近づく。
本当は、このレポは今回で完結の予定だったけど、分量が多くなっちゃうので、もう一回追加。
変な盛り上がりは期待せずに(笑)、待っててねー。
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