道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道 序

公開日 2016.2.16
探索日 2013.4.01
所在地 東京都神津島村


【周辺図(マピオン)】

2014年3月に日活から発売されたDVD『廃墟賛歌 廃道ビヨンド』にて、私自身がトリさんと一緒に案内した「砂糠山の廃道」を、あなたはご存知だろうか。
今回執筆するレポートは、“あの衝撃的物件”との馴れ初めである。
DVDの撮影は2013年11月に行われたのだが、その7ヶ月前に、私はこの廃道を「見つけ」ていた。
その時の話をしようと思うのだ。

私の離島デビューとなった、2013年3月31日から4月2日までの「2泊3日 新島・神津島遠征探索」の成果は、これまで当サイトでは4編のレポートになっている。

初日の新島から「東京都道211号 若郷新島港線」、2日目の新島での朝の小探索「鳥ヶ島の廃道」、そして3日目の神津島の朝の「神津島の石材積出軌道」と「神津島黒根の未成道」の各編である。

そして今までレポート化していなかったのが、2日目の日中、神津島に渡って行った最初の探索であった。
果たしてそれはどのようなものだったのか。
ぶっちゃけ、神津島が新島に負けないインパクトを私に与えた決定打となった探索なのだが…

その全てを、最初からご覧頂こう!




神津島 ―こうづしま―

ちょっとズルいんじゃないかと思ってしまうほど格好いい名前だと思う。伊豆諸島の数ある島の中でも、名の良さはナンバーワンだろう。
名は体を現すのか、名前負けをするのかと、訪れる人の期待感がひとしおに高い島かも知れない。私はそうだった。

少し話は脱線するが、わが国の有名な国産みの神話では、イザナギとイザナミの二柱が国土となる沢山の島を海上に作っていくとき、8番目に作られたひときわ大きな島を「秋津島(あきづしま)」と称し、これが本州の古称であるとされる。
そしてこの神津島にも、神話時代に伊豆諸島の神々がこの島の天上山(てんじょうさん)に集まって、それぞれの島に水を分ける大事な会議を行ったという神話がある。
島名への箔付けには十分過ぎるほどのエピソードである。

東京港からおおよそ180km、本土の最寄り港である下田から50km、最も近い有人島である式根島(東京都新島村)から12kmの距離に浮かぶのが、この神津島。
全体は、南北6.5km、東西5kmのひょうたん型をしており、面積約18km2。最高所は島のほぼ中央に聳える天上山で、海抜571mとされる。
また、伊豆諸島の有人島では最も西に浮かんでいる。

行政的には全島が東京都神津島村に属しており、唯一の集落は西海岸の前浜付近にあって、近年の人口は1800〜1900人である。
伊豆諸島には全部で9の有人島があり、このうち新島と式根島の二島を有する新島村の他は、島ごとに自治体が異なるため計8つの町村からなるのだが、神津島村は人口が第5位、面積が第6位である(隣の新島村は人口が第3位、面積が第4位)。

島内の交通インフラとしては、一般都道224号長浜多幸線という都道が一路線が認定されているほか、村道や林道があるが、他の多くの島のような環状路線は形成しておらず、集落がある西海岸に偏在している。
また、島外へ通じる交通インフラは海路と空路があり、前者は島内に2つある港が窓口となる(風向によって使い分けられている)。後者は神津島空港を窓口である。

…といったところが、神津島に関するごく簡単なプロフィールである。
ここからは、私が初の離島遠征でなぜ新島の次に神津島を選んだのかという、探索の目的について話そうと思う。




右図は、神津島にある2つの港、前浜港と三浦港周辺の地形図である。
そして本編の表題に登場する廃道の舞台、「砂糠山」の周辺図でもある。
ちなみに間違えられやすいのだが、砂(さとう)山ではなく、砂(さぬか)山である。

また、上では「地形図」と書いたが、正確には国土地理院が作成した最新版の「地理院地図」と、もう一枚重ねて比較用に掲載したのは、同じ国土地理院による「旧版地理院地図」である。こちらは「ウオッちず」のサービス名で、私が探索を行った2013年当時公開されていたものである。(現在は公開が終了しているため、同じものを「山旅倶楽部」の地図から引用した。そのため地形表現の陰影が付与されている。これは原図にはない)

2枚の地図は、図そのものの詳細さや凡例(図式)が少し変わっているが、僅か数年の違いでしかないので、描かれている内容そのものには大きな違いがない。
ただ、今回の探索目標の表現に関して言えば、この2枚の地図には大変大きな違いがあった。
その結果、私に対する“訴求力”がまるっきり違っていた。

それでは次に“核心部”、赤線で囲んだ辺りの拡大図を見ていただこう(↓)。



これは、なんだろうか?

↑この心の言葉が、私の探索の唯一の動機だったといったら、驚くだろうか。だが、実際そうとしかいいようが無い。

2013年当時に公開されていた旧版地理院地図には、見間違いようもなく、砂糠山と天上山の間の鞍部と呼べる辺りに一塊の建造物が描かれていた。
そして、そこへ至る道らしきもの(「徒歩道」の記号)が、なんとも頼りなさげではあるが、描かれていた。
現在の最新版地理院地図でも、この道だけは相変わらず描かれているが建物は完全に消えており、もしこの状態の地図しか見れなければ、私はわざわざ「徒歩道」の終点を探りに砂糠山へ行こうとはしなかったろう。

だが、ここまで読んでも、なお疑問に思う人がいるだろう。
「あれ?ヨッキは何時から廃墟探索家になったのか」 と。

ごもっともである。
確かに私が神津島を初の離島遠征に組み込んだ最大の目的は、「ここ」ではなかった。それはもっと有名だった(そして憧れていた)石材積出軌道であり、また確実に成果がありそうな黒根の未成道の方であったのだ。

だが、一度この“砂糠山の建物”を見つけてしまうと、私はどうしてもここを興味の外に置くことが出来なくなった。
その理由らしきものはいくつも述べられる。
まずは、神津島全体の中でもほとんど唯一といえる、“東側半分”にある人工物らしいということ。
なぜ集落から最も遠い、まさに誰の目からも遠ざけられたような位置に、まともな道もありそうにない場所に、それなりに大きな建物があるのか。
私の中ではあらぬイメージが膨らんでいった。例えば超人的な教義を伝える孤高の宗教施設であるとか…。(←結構真面目にそう考えた)

また、地図の等高線の羅列からも滲み出て隠すことが出来ない異常な地形の気配も、実際の景観を知りたいという興味を引いた。
地図上からイメージされる天上山の地形は、まさにテーブルマウンテンのそれであって、砂糠山へ行く唯一の道はテーブルマウンテン直下の海際(この山が唯一海に直接している場所)を通っていた。
そこにはどんな海と山のせめぎ合う景色が有るのか。実際に見るまで想像の出来ない所だった。

さらに言えば、この場所についての情報をいくらネットで検索しても、まるっきりヒットしなかったことも業深かった。さすがは離島だと思った。
(実を言えば、在宅のままでも、この場所の正体を知ることは可能だったのだが、当時そのルートは持っていなかった。)




果たして、私ほどにこの“砂糠山の建物”に興味を抱いた島外の人間が過去にいたのか分からないようなマイナーに、漠然とした恋慕を描きながら、私は遠征の途に就いた。



神津島への航海と、多幸湾への上陸。


2013/4/1 9:20頃 《現在地》

新島のかわいい属島である鳥ヶ島から大急ぎで着岸した大型客船「かめりあ丸」に乗り込んだ。
東海汽船が通年運航している東京―横浜―大島―利島―新島―式根島―神津島間の往復定期航路を利用して、一路、神津島へと向かうのだ。
時刻表によれば、この新島発8:45の船は、途中式根島に5分間寄港し、神津島への到着予定時刻は10:00である。
一番安い二等の運賃は850円と、外洋航海のイメージに反して庶民的で助かるが、私の場合は輪行袋にぶち込んだ自転車が手荷物扱いとなり、プラス500円を支払っていた。

なお、昨日新島へ行くのに下田から乗った神新汽船の「あぜりあ丸」は460tの中型客船であったから、この「かめりあ丸」の3837tは段違いに大きい。それゆえ、昨日は多少目眩を覚えるほどだったのと見た目変わらない波高を持った海原も、ゆったりと危なげない動揺を見せるのみで、淡々と航進していく。




1時間少々のさして長くもない航海であるが、折角なので、島では簡単には入手出来ない(ような気がする)温かなジャンクフードを自動販売機から購入する。
船旅の風情に身を任せてのレストランでの食事もありかと思ったが、今は探索の合間である。私の中でのジンクスで、探索中に“贅沢”をすると探索が“しょぼ”くなるというのがあるので、贅沢は全てが終わった帰りの船まで預けておこう。

考えてみれば、私が大型客船などというものに乗るのはいつ以来だろう。少なくとも探索でははじめての体験であり、この後各地で何度も乗ることになるとは…… この時点でも既に十分予感していた。それだけ昨日からの新島が面白かったのである。

はてさて、第2の戦場となる神津島では、いかなる探索を楽しめるのか。
先ほど式根島の港を離れて、今はもう神津島を舳先に向けているはずだ。
そろそろ遊歩甲板へ出て、ファーストインプレッションタイムと洒落込もうか。




いい海だぜ!!(笑)

完全に、私を戦闘モードへ連れて行こうとしているのを感じる。
この微妙に荒天を予感させる海と空の模様は、徐々に近付いてきた神津島の小高い姿を、まさに「神々の集いし伝説の島」へと高めていた。
あそこに上陸し、解き放たれてしまったら、私は即座に激昂して闘い始めることだろう。
そんな予感がするのである。
大袈裟でなく、新島にも感じたものを、神津島にも感じた。

こいつも絶対に、“ワルジマ”だ。



9:40 《現在地》

やがて船は神津島の北端に突起した黒根という岬へと近付いていく。
だが、間近に見えてきた陸地には、まるっきり人の気配が無いのである。
新島もそうであったが、これまた手荒い「おもてなし」であった。

(実はこの写真には、翌日に訪れる事になる、私の島での目的地の一つが写り込んでいるのであるが、なぜか気付かずにこれをスルーしていた)

そしてこの光景を見た辺りから、私の中である違和感が生じてきた。

…なんか、船の進路がおかしくないか?




そんなことを思うくらいに、私はまだ島旅のビギナーだったのである。

手元の乗船券を見ても、ネットや船会社の窓口で見られる時刻表などを見ても、単に「新島〜神津島」の航路としか案内されていないのだが、神津島にある客船が出入りする港は2つある。
昨日の新島には3つあったことも忘れていたわけではないが、そういうことなのである。
航行中の船長の判断でリアルタイムに入港地が変わるのが、これらの島へ風向きを問わずに着岸するための知恵であり、人類の尊い投資の成果であった。
現にこの航海でも、遅くとも着岸の1時間くらい前、つまり新島を出てすぐくらいまでには、船内アナウンスで「本日の神津島の着岸地は三浦港です」と放送があったはずなのだが、聞き逃していたようだ。

ビギナーがこういう勘違いをするのは、地形図や市販の地図の多くが、それぞれの島の代表的な港にしか“航線”を表示しないせいでもあろう。
私もてっきり島唯一の集落がある西岸の前浜港に入るとばかり思っていたので、その船が黒根から東岸へ入ってきたことを知った辺りで、違和感を覚えたのである。
それどころか、一瞬この船は神津島へ寄らずに三宅島へ向かってるのではないかと、焦りさえした(苦笑)。
そしてそんな可愛らしい不安が完全に解消したのは、神津島への接近を伝える船内アナウンスが流れた時だった。

ともかく、こんな自分では左右のできない運命によって、私は砂糠山の最寄りの地、多幸湾へと導かれていったのだった。



神津島の裏側というべき東岸より見た天上山。

地形図や、遠望からも感じられた“テーブルマウンテン感”は、今、圧倒的な現実感を手にした!
あの山の上に神々が降臨して、伊豆諸島の全ての島の“水”の取り分を決めたそうである。
ちなみに、歴史上は承和5(838)年に大噴火した記録があるといい、今も気象庁が観測を続けているらしい。



巍々たるさまを見せる東岸は、真面目に人跡未踏を思わせるものがあった。
岩壁に並ぶ数多の海蝕洞など、物語の中の海賊島の再現ではないか。

これから、この島で闘うのである。

戦慄を禁じ得ない心中ではあったが、唖然として島を眺める時間は、「着岸間近」という船内アナウンスによって終わりを迎えた。
次に私が外を眺めたのは、砂糠山のある岬を回って多幸湾の奥にある三浦港の埠頭に着いてから。
つまり、上陸の時であった。






10:09 《現在地》

上陸〜〜!

重苦しい荷物一式を埠頭に引きずり下ろすと、待ち受けていたのは島の定番、錆色を隠そうともしないどこかの民宿か釣宿のものらしき軽トラと、対照的に綺麗に磨かれたパトカーだった。
ここで言葉も無く(きっと)人相改めを受けながら、私は闘いの装備を整えていく。
普段よりも念入りに輪行を整えていたため、それを解いて行くのにいつもの数倍手間取る。
だいぶ時間が掛かってしまった作業の間も、周りでは慌ただしく船上クレーンが唸り、フォークリフトがコンテナを積み卸ししている。そしてまた東京ヘ帰る人たちが乗り込んでいく。



10:37 《現在地》

私の準備が全て終わり、いよいよ走り始められる状況になった頃には、

船は汽笛を上げて港を離れて洋上へ航跡を描いていた。

「かめりあ丸」は、この翌年に当航路を退役し、インドネシアへ売却されたらしい。(`・ω・´)ゞ






で、

今まで巨大な船があった場所に、
代わりに現れたのが。
↓↓↓



天上山 !

そして、右へ向かって……



砂糠山と、

我が 目的地 方面……。




マジかよ…。

なんであんな場所に“大きな建物”があることになってるんだよ…… 修行かよ…!



ビギナーの私から、ひとつだけ言えることがあるとしたら、

初めての神津島を多湾で始められたられた人は、きっと運だということだ。

なぜなら、こんなにもワクワクしながら上陸できるのだから!