… お は よ ー ご ざ い ま す ……。
よく眠れなかった。
昨夕、日が暮れる前に海岸の真新しいウッドデッキの下を一夜宿に定めた私は、潮騒と柔らかな砂の背心地には満足したものの、午前2時頃から降り始めてしまった大粒の雨と、朝方から急激に騒ぎ出した風のため、眠れぬ夜明けを過ごしていた。
ウッドデッキを伝う雨は最初テントの外壁を濡らし、それから内壁、寝袋の外、内の順に次第と浸潤して、朝4時の私は既に身体の大半を湿らせていた。
乾ききれなかった昨日の汗も混じっていただろうが、快眠とはかけ離れた… まさに野宿であった。
時間がなかなか進まなかったが、空に薄明かりを感じると同時にテントを出て、携帯コンロで朝飯のカップ麺を食べてから、探索の荷造りをした。
テントなど、探索に使わないアイテム(デカリュック)はここへ置いて行く。
島を離れる前には回収するが、こいつらを持ち歩くと移動だけで疲れるし、身軽な状態で探索をしたかった。
この雨では、島の人が海水浴場に下りてきてウッドデッキの下を覗くことも無いだろう。
午前5時04分、前浜海岸を自転車で出発。
まずは、すぐ近くの神津島(こうづしま)港へやって来た。
ここは私と東京の自宅を結ぶ窓口だったが、この時間は船の待合所も閉まっていて、人影は全くなかった。
埠頭を叩く雨の飛沫が、地面に押し付けられるように躍っている。
それほど海から吹き込む風は強かったが、その割に波は妙に落ち着いていた。
これなら帰りの船も予定通り迎えに来てくれるだろうか。
出発前に見た週間予報だと、今日まで晴れると言っていたはずだが、現実は雨だった。
それもかなり本格的な雨である。
加えて、南西の風が相当に強まっていた。
現状を説明したい。
今日2013年4月2日は、私の最初の離島探索の3日目、かつ最終日だ。
そしてそれと同時に、この島で朝を迎えた人生最初の日でもある。
だがこの島は、そんな記念日にも試練を与える心づもりらしかった。ありがたいことである。
今回の離島探索では、初日の新島で素晴らしい廃道と戯れたが、2日目にそこから15km南南西に浮かぶ神津島へ船で移動してきた。
そして着くなりこれまた途轍もない廃道と出会った。
(↑この廃道は2014年3月4日発売の『廃道ビヨンド』で紹介したい)
今の私の気分が優れないのは、雨のために今日の探索が不本意に終わりそうだと感じたことももちろんあるが、それ以上に気掛かりなのは、帰りの船のことだった。
波の動揺を恐れたわけではない。
船が出るのかどうかという、根本的な心配だった。
私の計画では、今日の14:00に神津島を出航する神新汽船に乗って、今回の出発地である(車が待っている)下田港へ帰る予定であった。
だが、事前に調べた情報によると、この神新汽船の就航率はあまり高くないらしい。風が吹けば休航するという前評判であった。
覚悟、しなければならなそうだった。
で、この神新汽船が出ない場合、今日中に島を離れる方法は二つある。
ひとつは神津島空港から出る飛行機だが、これはパスだ。大荷物と自転車を連れて帰ろうとすれば、途轍もなく高く付く。
残りは東海汽船の大型客船である。
これは就航率が相当に高いらしいが、あいにく下田へは行ってくれない。
東海汽船は大島を経由して東京の竹芝桟橋へ向かうので、下田へ今日中に着くには大島で下船して、大島〜伊東〜熱海間の高速ジェット船に乗り換えれば何とかなる(伊東〜下田は鉄道がある)ことを、ケータイの小さな画面でいま調べた。
ちなみに、東海汽船も一日一便しかなく、その神津島出航は10:30とのことだから、これに乗る場合は、当初計画よりも3時間半早く島を発つ事になる。
そして、昨日の夕方に港の観光協会へ問い合わせたところ、当日の神新汽船と東海汽船の就航の有無は、8:30の定時島内放送(スピーカー)で告知されるとのことであった。
これは私にとって、本当に重要な放送となる。
というのも、この放送では就航の有無だけでなく、神津島港と三浦港という3kmも離れたふたつの港(しかも高い峠に隔てられた)のどちらから出るかという情報も告知されるのである。
ちなみに昨日の船はみな三浦港に発着していた。
もちろん、両港の間にはバスの運行があるが、私のように自転車があったりすると、基本的に自力で港まで行かねばならない。
これが時間的に結構きついのだ。両港間の自転車移動は、たっぷり30分かかる。
私は、神新汽船が休航かつ東海汽船が三浦港から出港する場合に備えて、8:30の島内放送を三浦港からあまり離れない位置で聞かねばならないのである。
一言にまとめれば、今日はあまり大がかりな探索は出来ないということに尽きる。
では、 何をするか。
…そうだな。
限られた時間で是否とも行きたい場所は2箇所だ。
石材積出用軌道跡と、都道の終点である。
そしてこの2箇所はともに島の北端の神戸(かんべ)山にある。
まことに都合がよろしい。
――目指しましょう! 北限!!
2013/4/2 5:38 《現在地》
港を背に隣接する集落へ進む。
昨日の夕方はくっきり見えていた最高峰「天上山(てんじょうさん)」は、その雲霞を纏う姿で、この島を“大陸”のように演出していた。
面積 | 最高標高 | 海岸線の長さ | 島の人口 | |
新島 | 23.17km2 | 432m | 約30km | 約2400人 |
神津島 | 18.48km2 | 572m | 約22km | 約1800人 |
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上の表の通り、神津島は新島に較べて2割ほど小さな島だが、標高だけは勝っており、一層起伏の激しい地形であることが分かる。
また、この表では分からない違いとして、新島には集落がふたつ(本村と若郷)あったが、神津島には神津島というひとつの集落しか存在しない。
私が今いるこの集落を離れれば、人が定住している集落はどこにもないのである。
…そう考えると、旅立ちがいっそう寂しくなるのであった…。
神津島の道路地図はさほど複雑ではないが、神津島集落(以下単に集落と呼ぶ)から島の北部へ向かう道路は2本ある。
東京都道224号長浜多幸線と、神津島村道海岸線(海岸道路と呼ぶ)である。
これらはどちらを選んでも最終的には合流して1本になるが、前者は山を通り、後者はその名の通り海岸線を通る。
前者の方が歴史が古く、また村道よりは都道を体験したいという気持ちはあったが、いかんせん今日は移動の時間が惜しい。
勾配が少なく、短時間で島の北部に辿り着けそうな海岸道路を選ぶことにした。(島にもう一泊することは、気軽に受け入れられる計画変更ではなかった。既に乾いた着替えもない状況で、濡れたままもう一晩野宿するのは嫌だったし、宿泊施設に転がり込むには財布が薄かった。)
写真はその始まりである、集落外れにある東京電力の発電所だ。
島の電力は全てこの内燃式火力発電所が賄っている。
またこの左側は漁港だが、まるで人気が見られなかった。
今日は休漁らしい。
5:51 《現在地》
集落から1kmばかり離れると、前方に野球場くらい小さな湾(沢尻湾)が現れて、対岸に巨大なコブ状の山がそそり立っていた。
地図によれば、海岸道路はあの山の基部を、短いトンネルで潜り抜けているはずである。
だが私の目には、岩場の裾を巻く旧道の跡がはっきり見えてしまった。
旧道の存在は探索前に目を通した「神津島村史」から知っていたが、実際に目にすると、相当風化が進んでいる印象を受けた。
時間に余裕があれば当然探索するつもりであったが、今日はパスせざるを得なさそうだ…。
先ほど島に集落はひとつしかないと書いたが、集落外の海岸沿いにもいくらかの宿泊施設が立地している。
そして、その中にはご覧のような大きな廃墟も…。
この廃墟は、神津島港に出入りする船上からもよく目立っている。
そのため、島を訪れる人は大概目にしているだろう。
遠目には廃墟に見えないくらいしっかりした建物だが、近くで見るとなかなか… カオス・ジャングルだった。
沢尻湾奥の浜辺に面している廃ホテルから少し進むと、先ほど対岸に遠望した錆崎という岩山に出会う。
ここを穿つ、木目のような特殊な模様を坑門に施されたトンネルは錆崎トンネルといい、全長120mである。
竣工したのは平成4年で、神津島で最初のトンネルであると、錆崎の地名の由来を書いた旁らの案内板にあった。
なお錆崎とは、温泉が出て水が赤錆色に濁る場所から名付けられたとのこと。
旧道があった海岸沿いにはかつて一軒の温泉場があり、今もそのコンクリートの基礎の痕跡が残っているというような話しが村史にあった。
なお、旧道は車道ではなく、人が通れる程度の道であったようだが、詳細は不明。
ここは神津島の当初探索計画に盛られていたが、ご覧のように旧道の入口と考えられる辺りは尋常ならざる猛烈な藪で、短時間での攻略は不可能と判断。
帰りに時間があったら寄ってみることにしよう…。(結局ここは探索出来ず終わった)
北行に海岸道路を選んだのは正解で、追い風を度外視しても平坦な道路は走りやすかった。
全体的に海面すれすれに道は付けられており、晴れていれば青い海、青い空などと感激しただろう絶海の風景も、今は全てが錆色の冷たい世界だった。
風光に目移りして足を留める羽目にもならず、ハイペースに進む事が出来た。
集落を出発して25分、前方に新たな海岸線が見えてきた。
それは長浜と名付けられた名前通りの広がりを持った砂浜の海岸と、そこから続く岩礁の海岸線だった。
湾の対岸に聳える山々にも名前があり、右からメッポー山、名組山(写真中央)、その尾根の向こうに見えるのが島の北端を画する神戸山(269m)である。
この辺りからは島の北部である。
目指す軌道跡や都道の終点は、今見えている海岸線の少し先に隠されているようだ。
無人の世界が広がっていた。
6:11 《現在地》
ずっと平坦だった海岸道路だが、最後の最後で猛烈な急坂が待ち受けていた。
10%を優に超える激坂で、山から激坂で下りてくる都道を迎えたのである。
雪の降らない島ならではのアグレッシブな勾配設計だ。
出発から30分で都道合流地点に到達。
港から2.5km地点である。
そういえば書き忘れていたが、港から都道の終点(島の北端)までは5km弱だ。
石材軌道跡は少し手前だが、いずれにせよ往路の道半ばを過ぎたという事になる。
8:30の島内放送(その時は集落近くにいなければならない)は着実に近付いている。
引き続き、急いで進まねば。
長浜には大きな駐車場を持つキャンプ場が整備されていた。
しかし例によって、この時期のこの天気では、完全に無人だった。
そして問題が発生した。
この場所に、都道224号長浜多幸線の愛称である「神津本道」の起点を示す街路標識が立っていたのである。
スーパーマップルデジタルでは、この先島の北端で道路が物理的に尽きる所まで黄色く都道府県の着色がなされている。
一方、プロアトラスでは、この場所から先は無着色だ。
そしてこの路線名「長浜多幸線」である。
正確にはこの場所が都道の終点であるらしい。
この先は村道海岸線の続きなのだ。
村史は、都道の延長であるとも、村道であるとも取れる書き方をしているが…。
まあ、この話は目前となって来た石材軌道の探索が終わってからじっくりと…。
ところで、間もなく現れそうな石材軌道である。
神津島にも鉄道の廃線のようなものがある事は、90年代に出版された伝説の廃線バイブル鉄道廃線跡を歩くの7巻で知った。
そして風景に一目惚れした。
歴史的には特筆するような紆余曲折のある廃線ではないし、規模も凄く小さい。
だが、この廃線風景は自分の目で見たいと強く思った。
それから10年以上の月日は流れたが、ようやく神津島にやって来た。
帰りの船のことで悶々としている最中とはいえ、大きな目で見れば、本土と神津島の間のハードルは対して高くない。
半日程度の船旅(飛行機なら調布から40分くらい!)で来れる場所なのだ。
しかし現実として、この本で同じくらい憧れを抱いた奥羽本線の赤岩旧線や、東海道本線の大崩旧線に較べて随分遅い訪問になった。
……きキ
キタ〜!
こ…これは、
雨もいいんでないかい?
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