第1のヘアピンカーブが現れた。
しかし、壕の底のような本来路盤であったところは、地を這う灌木に埋め尽くされ、足を高く上げて歩かねばならない。
背負った荷物の重さゆえ、一歩一歩が深く木々の隙間にめり込んでしまい、容易に足を持ち上げられない。
また、バランスを崩して転倒しそうになる。
いきなり額に汗の玉も浮かぶ。
すぐにこれはタマランということになって、壕の内側を進むことは断念した。
路傍の高いところを進むべく、路肩へと近づいたとき、我々は遭遇した。
おそらく120年以上前に作られた、苔の生した石垣と。 (本文より)
辛いながらも進んでみれば、突然こんな鮮明な道形にありついたりもする。
緩急あるから飽きないし、また飽きたなどと言って逃げ出しようもない。
イイ感じの浅い掘り割り道が、数十メートル残っていた。
この道を、探索の日から遡ること122年1ヶ月前の明治18年9月7日の夕方、開通式一行数十名からなる騎馬車の行列が清水集落へと下っていったのだ。
というか、この道には他に知られた「通行の歴史」が無いので、それ以外語りようがない…。 (本文より)