起点:追分(下分岐)
終点:鉄塔下
全長:2.4km 高低差:140m
清水国道の廃道区間約12kmの冒頭を占める区間だ。
ここを踏破すると、ちょうど全体の五分の一ということになる。
地図上から想定されるルートの概要。
まず序盤、4つの切り返しからなる第1の九十九折りから始まる。ここで一気に70mの高度差を詰める。
そこから緩やかに上りながら東進し、東屋沢を渡る。この沢は、地形図に水線が描かれていないのでさほどの水量ではないだろうが、幅の広い沢の中央部に凸部が描かれていて、やはり太古の氷河地形を感じさせる。
東屋沢を渡った後、海抜800〜850mの山腹急斜面に沿って南東に進み、スタートから2.4km地点にてJR送電線の直下に達し、区間を区切る。
2007/10/7 6:50
追分。
第一次探索でもこの国道の入口を見てはいたが、実際に少しでも踏み込むのは、これが初めて。
近くの草むらに用済みとなった二人の自転車を忍ばせて、一旦降ろしていた重いリュックを背負うと、朝露でしとどに濡れた浅草が導く道を登りはじめる。
最初は右下方に居坪坂ルートの砂利道が見えていたが、数十メートル進むと若い杉の植林地に消えた。
路幅は3間(5.4m)も無く、それどころか軽乗用車幅の轍だけで一杯だ。
ここに国道の“おにぎり”でも設置してあれば、マニア受けしそうだが、そういうイロも全くない。
はじめ、路幅は極端に狭かったが、少し行くと浅い壕の中を進むような道に変わった。
馬車には少々勾配が厳しい(設計値であるである1/30勾配を超えているのでは?)ように思われたが、轍の外側に幾分の余幅の存在が見て取れ、第一次探索で一日中辿った群馬側の清水国道と酷似している。
やはり、この道こそが明治18年開通の清水国道、そのものであるらしい。
前回(第1回)も書いたが、ここから峠までの“12km+1km(現役登山道)”を、8時間かけて歩く計画である。
単純に考えれば、この第二攻略区2.4kmは1時間半程度で攻略せねばならないことになる。
我々は頭の中にそのことを置きながら、歩き出していた。
分岐から200mほど進むと、前方に広場が見えてきた。
なんだか、凄く嫌な予感がした。
いくら何でも、まだ早すぎでは……?
6:54
あー…。
まさに、「あー…」である。
追分に立っていた標柱により、清水国道の序盤は鉄塔の巡視路となっているのだと、てっきりそう信じていたのだが…
それは誤解だったのだ。
現在地は、第1の九十九折りの入口である。
そして、鉄塔巡視路らしい踏み跡は、ここから左の斜面に真っ直ぐ踏み込んでいる。(図中の紫色の矢印だ)
一方、国道はまだ曲がらず、直進するはずである。
我々も現地で地図を持ち歩いていたから、この状況は把握できた。
そして、巡視路がここで“離反”したということは、これから先の九十九折りの全てが“反故”にされているのではないか。
そんな予感(悪寒?)を生じさせた。
巡視路を行けば、相当にショートカット出来そうではあったが、我々はあくまで、清水国道の踏破が目的だ。
清水峠を目指すだけならば、いくらでも道はあるのだ。
これほど早い段階で藪漕ぎを強いられることになるとは…。
我々は覚悟を決めて、早速に腕を使い藪を掻き始める。
幸いにして、路盤の存在はすぐに明らかとなった。
思わず、歓声が上がる。
これが、伝説的廃道の名をほしいままにする清水国道の廃道区間。
その、始まりの姿である。
微かに堅さを残す朽葉色の路盤は、確かに浅い壕の姿を保って、森の中を潜るように続いていたのである。
そして、数十メートルほどで壕の道が左へ転回を始めたとき、我々は再び歓声を上げた。
この歓声は、「この道こそが目指す清水国道に違いない」ということを、地図との符合から確かめられたという歓声である。
道は、「言われていたとおり」と言うべきか、本当に荒廃している。
というよりも、既に道ではなくなっている。
122年前に作られたという道形は、もはや森の中の遺跡の形をなしている。
カーブの内側はひときわ大きく削り取られ、そこに巨石が露出していた。
その苔むした様子は美しく、とても絵になる情景だった。
第1のヘアピンカーブが現れた。
しかし、壕の底のような本来路盤であったところは、地を這う灌木に埋め尽くされ、足を高く上げて歩かねばならない。
背負った荷物の重さゆえ、一歩一歩が深く木々の隙間にめり込んでしまい、容易に足を持ち上げられない。
また、バランスを崩して転倒しそうになる。
いきなり額に汗の玉も浮かぶ。
すぐにこれはタマランということになって、壕の内側を進むことは断念した。
路傍の高いところを進むべく、路肩へと近づいたとき、我々は遭遇した。
おそらく120年以上前に作られた、苔の生した石垣と。
※以後、写真の枠が青いものは、クリックすることで別ウィンドウに大サイズの写真を表示します。
石垣の上によじ登り、そして振り返って道の姿を見る。
そこには、たしかに幅3〜5m程度の帯状の低地が見て取れ、全く通る者の無くなった国道であることが分かる。
しかし、ここまで荒廃しているとは、少し想定を超えている気がする。
いや。部分的にはこのくらい酷い場所もあるだろうと思っていたが、追分からまだ300mも来ていない。
まさか、鉄塔の巡視路でない場所は、全てこのような有様だというのだろうか。
まだまだ疲れを覚えるには早すぎるのだが、しかしこの出足には、正直怖れを感じた。
7:01
国道291号と巡視路の関係は左の図の通りである。
全くもって、天下の大道たる国道を舐め切った所業と言わざるを得ない。
せめて、鉄塔までの区間だけでも国道を利用して欲しかった…(涙)
こんな両者の関係ゆえ、清水国道に固執する我々は、いかにも歩きやすそうな巡視路を横切って、またも藪へと突入せねばならなかった。
そこに全く道の姿がないのでは興も醒めるが、こうやって確かにそれと分かるものが続いているだけに、おいそれと巡視路に楽を求める事も出来なかった。
清水峠の持ち味というか、やり口というのは、こうやっていつまでも我々に期待感を持たせて歩かせることにあった。
周囲は若い杉林だが、間伐などの手入れをがされている様子もなく、育つに任せるというか、藪化するのに任されている感じがする。
しかし、腐っても国道。路面上に植林することは許されなかったのだろう。
幅5mを数える路幅が、さながら防火帯として作られた空き地の様に続いていた。
廃道でありながら、道の籍は失っていないということを感じさせる景色だ。
そんな杉林も広くはなかった。
次のヘアピンカーブが現れる前に途絶えて、あとはもう雑木林が広がるばかりであった。
以後、二度と植林された林が現れることもなかった。
路上には、雑草より灌木が多い。
黙っていれば即座に涼風がもたらされる好条件ではあったが、歩き進む運動量は平地の比ではなかった。
主に照葉樹だが、闊葉樹も地面の近くに生えており、これが歩く上ではかなり邪魔な存在だった。
分厚い葉っぱが路面を見えなくしている上、幹はくねって地を這っていた。
この時点で既に刈り払いの痕跡もなく、
「オイオイ、どうした山菜オヤジ」の言葉が洩れた。
これは、東北人の二人ならではの感想であったかも知れない。
秋田や岩手では、いくら廃道だとは言っても、せっかく存在する道形は活かされ続ける場合が多かった。
人口比率の50%を超えるという(ウソです)山菜オヤジ・山菜カアチャンたちの巡視路として、数年に一度の刈り払いが個人のレベルで行われるのだ。
しかし、この上越の森からは、そんな森の狩人たちの息吹が感じられない。
一方で清水峠の場合、峠そのものは今も多くのハイカーが通っており、無人とはいえ山小屋も存続し、新潟側からは峠に立つための歩道が二本も現役である。
車道化していない峠など、東北であれば交通量皆無と成り果て、峠自体が廃道となっていただろう。山菜採りのほとんどは、峠まで越える必要などないのだから。
生活の糧を求めて入山する人々と、レジャーの場として「峠そのもの」を求める人々の違い …そんなところか。
入山が「手段」であるか「目的」であるかの違いのようなものが、この行き先のない廃道から当然のように、あらゆる踏み分け道を奪ってしまったのだ。
廃道マニアの踏破さえ、容易なからしめるほどに。
不鮮明なヘアピンカーブを折り返し、道は下から数えて三段目に突入。
やがて現れるだろう巡視路との交差にむかって、幾らか状況の良くなった藪道を前進していた。
まったく想像を超える“未踏ぶり”ではあったが、むしろ望むところだという気概もある。
峠に至る最後まで、そこに誰かの踏み跡が続いていたというのでは、「俺たちで道路の世界に名を残そう!」などと言ってくじ氏を無理に呼んだ面目がない。
私の前を事も無げに歩くくじ氏が、遂にへこたれるほどの廃道であってこそだ。
大丈夫。まだまだ時間はある、じっくり行こう。
全く顧みられなくなった道は、本当に困難な通路である。
道が無ければ全く歩きようもない密林であるから、これでも有り難がって通るべきなのかも知れないが、辛い。
特に、普段以上の背負い荷物の重さ、なによりその大きさには、狭い隙間をくぐり抜けねばならないこんな展開のある度に、とことん苦労させられた。
辛いながらも進んでみれば、突然こんな鮮明な道形にありついたりもする。
緩急あるから飽きないし、また飽きたなどと言って逃げ出しようもない。
イイ感じの浅い掘り割り道が、数十メートル残っていた。
右の写真は、この良好な古道残存部を振り返って撮影したもの。
「青いフレームの写真」は、クリックで拡大できる。(今後のレポは全部そうするつもり)
この道を、探索の日から遡ること122年1ヶ月前の明治18年9月7日の夕方、開通式一行数十名からなる騎馬車の行列が清水集落へと下っていったのだ。
というか、この道には他に知られたる「通行の歴史」が無いので、それ以外語りようにない…。
7:43
巡視路と2度目の再会。
ここは国道上の3回目の切り返しにほぼ重なっており、国道は巡視路の10mほど奥まで行って切り返して後、すぐに戻ってくる。
この連続交差の部分は、巡視路によって破壊されており、鮮明ではない。
巡視路側からは、4段目の国道の入口は判然としなかった。
しかし、直前のカーブの線形からアタリを付けて、くじ氏が足を踏み入れた斜面上。
そこに国道291号は横たわっていた。
道を見失わずに進めているのは良いが、時間が掛かりすぎているのがちょっと気になる。
というのも、追分を出発してからこの時点までで、ほぼが1時間を経過したのだ。
しかし、進めた距離は僅か600m。
当初予定していたペースに、全く及ばない。こんなペースでは、日没までの10時間たらずではとてもとても峠にはたどり着けないぞ。
4段目の道は、さらに荒廃の度が深かった。
30mも行かないうちに、路幅はどんどん狭まり…
そしてついに…
アーーーッ!
って言っても…、写真からでは分かりにくいだろう。
道は斜面によって完全に消え去り、そこに密林が嫌らしく立ちはだかる。
空手ならばこの木々を手掛かりに、さながら雲梯(うんてい)を行くように前進する術もあったかも知れないが、背の荷物がそれを許さない。
数メートル先までは偵察に行ってみたが、すぐに路盤が回復するということもないらしかった。
「…ショートするか?…」
くじ氏の視線の先には、道と直交する急斜面。
これを十数メートルほどよじ登れば、一段上の道にショートカットできるはずだ。
最も確実である「引き返して巡視路を行く」ことを潔しとしなかったのは、出来る限り忠実に国道を辿りたいという我々二人に共通した想いによるものだった。
木々を手掛かりによじ登ること20mほどで、再び平坦な土地が現れてくれた。
周囲には、若い杉の木が散見されるが、雑木林が優越している。植林地にしては不自然だ。
また、本来は空に向かって直立するはずの杉が、ほぼ例外なく谷側に傾いている事も不可思議だ。
私はここにリュックを降ろすと、見逃してきた4番目の切り返しを確認すべく引き返した。
空手を活かし、斜面と化した道に耐えて進んでいくと、50mほどで行く手に大きな窪地状の沢が現れた。
これは地形図にも描かれている地形だが、4度目の切り返しはこの中にあって、完全に流出してしまったようだ。
左の図で赤い斜線の範囲は、傾いた杉や路盤の連続的な消失などから考えて、巨大な地辷りの跡地と想像された。
この国道を監督する立場にある六日町土木事務所でも、おそらくこんな状況を把握していないだろう。
再びくじ氏と合流し、進路を戻す。
なお、これで4つのヘアピンカーブから成る第1の九十九折りは終了した。
地形図によれば、このあと先行している巡視路に合流し、東屋沢へと進む事が想像された。
願わくは、早く合流して欲しい。
この区間の路盤は危うく、灌木による藪の密度も物凄かった。
ほとんど大木と呼べるような木はなくて、とにかく一面の密林なのだった。
穏やかな朝日が差し込む廃道は、決して安穏としたものではなかったのだ。
しかし、高木が少なく、また斜面が急峻であると言うことは、自然に眺望に恵まれることとなる。
写真は、この辺りから望む登川対岸の眺め。
地形図にこの山の名は書かれていないが、山頂付近の入り組んだ小尾根や幾つも見られるピークなどに、このあたりでは谷川岳に代表されるような山岳的美観を示している。
まあ言ってみれば、いかにも山らしい、見栄えのする山である。
なお、肝心の清水峠方面はもっと東寄りなので、見えない。
うーおーー!
ぶどう園だ。
国道がぶどう園になってやがる!!
うんまい。
うんまいぞーー!
持ち帰りたいところだが、リュックの中がグチャグチャになりそうなので、我慢した。
国道を栄養にして育ったブドウは、思いのほか旨かった。
ヤマブドウの甘酸っぱさで、これまでに失った体力を少し回復。
なかなか合流できない巡視路のかわりに、行く手に現れるのは困難な障害物ばかり。
本当に密林である。
ぐーわーー!
這い蹲っても道はなく、飛び跳ねようにも荷は重い。
ここまでで最悪のブッシュに、思わずくぐもった喘ぎを洩らす。
8:23 《現在地》
右後方から細い巡視路の草道が登ってきて合わさると、そこから先は驚くほど広々とした道になっていた。
追分から入山して1時間30分を要し、ようやく第1の難所である九十九折りを突破した。
しかし、未だ第2攻略区の前半を終えたに過ぎない。距離にして、わずか1.1km。
もし大人しく巡視路に従っていたとしたら、ものの15分もあればここまで来られただろう。
ルート的にはこれが正解なのであり、時間を無駄にしたという気はしなかったが、しかしこのままのペースでは全然間に合わないという事だけは、はっきりと自覚した。
無論、くじ氏も共にその認識を持った。
とはいえ、まだ午前中も早い時間だという安心感もあって、このせっかく気持ちの良い道を、敢えて急ぎ通り過ぎようとは考えなかった。
結果的には、この辺りで焦っていたとしても何も変わらなかったとも言える。
なんという… 路幅だろう…。
稀に鉄塔巡視員たちが歩くにすぎない道は、その必要量の10倍以上の路幅で、横たわっていた。
近代国家として産声を上げたばかりのわが国が、最初の総合的国土開発計画の一環として打ち立てた、8つの土木大事業。
そのうちの一つが、そして道路に関する唯一のものが、この清水越え新道の建設であった。
列強に負けじと雄叫ぶ若き哮りが、この道無き雄峰に宏大な路幅を実現させたのだと想像すると、道路好きの胸は猛烈に熱くなる。
徒花に散ったが故に今まで温存されてきた、絶唱のような道の叫びが、求める私に語り始めた…。
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