あなたは、三島通庸という政治家をご存じだろうか?
鹿児島県出身の彼が、山形県の初代県令(知事)に任命されたのは、明治9年のことである。
彼は先ず、四方を山に囲まれ、中央との結びつきが絶対的に弱かった山形県の弱点を克服せんと、壮大な道路網の構想を持った。
そして、彼の凄いところは、それらを構想だけに止めず、豪快な決断力と統率力で、実際に次々と実現させていったところである。
その強引とも言える手腕は、「土木県令」「鬼県令」などと畏れられたほどだ。
彼が山形の地を去るまでの10年間に、幾多の道が生み出された。
一部を挙げれば、“万世大路”こと栗子峠に、雄勝峠、関山峠、宇津峠などである。
ここに挙げた峠はどれも、山形市と、隣接県の中心地とを結ぶ、最短の道であることに注目したい。
(栗子峠は福島と、雄勝峠は秋田と、関山峠は宮城と、宇津峠は新潟と山形とをそれぞれ結ぶ)
何よりも驚くのが、これだけの峠を一から開削、もしくは馬車や自動車が通れるまでに改良したのが、全て一人の男の決断であったと言うことである。
これらの道のどれ一つとして、現在利用されていない道はない。
それどころか、山形県の生命線と言える道ばかりだ。
幾多の峠を拓いた男の名は、永遠のライバルを連想させるものだ。
幾多の峠に挑んできた私にとって、三島の拓いた峠ほどに、熱くさせるものはない。
三島の野郎が、一体何を考え、どんな気持ちで、なぜそこに道を開いたのか、一つ一つのカーブに、どんな想いがあるのか?
そんなことを拾い集めながら往く峠は、私にとって、至福の瞬間にして、最大のバトルである。
先に挙げた峠の中で、雄勝と栗子に次いで、三番目に挑むことになったのは、宇津峠であった。
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