道路レポート  
国道113号旧線 宇津峠 その2
2004.5.18


 国道113号線の飯豊町と小国町との境に立ちはだかるのが、宇津峠である。
明治以来、ここを通る道は3度改築されている。
“鬼”が、それまでの十三峠街道とも呼ばれた越後街道を「小国新道」として自動車の通れる様改築したのが、明治十年代。
時は流れ、昭和の四十年代に、ここに初めてトンネルが切り開かれた。
延長915mの宇津トンネルである。
しかし、この道は長く持たず、改めて平成に開通したのが、現在の新宇津トンネルを介する道である。

今回は、旧道と、旧々道を順に攻略する。


宇津トンネル 内部へ
2004.5.12 9:03


 放棄されたトンネル表示板の制御ボックスは、高さ2m幅1mほどの巨大なものだ。
扉を引いてみると、なんと開くではないか。
初めて見る内部の様子に興奮が隠せない。
しかも、操作説明書まで残っていた…。

それを見ると、竣工時から有るものではなく、どうやら昭和57年に設置されたらしい。
となると、これら高額な設備は、平成3年頃までのわずか10年足らずしか使用されなかったと考えられる。
「安全はコストにかえられない」と言うことはあるだろうが、それにしても、他の場所で再利用できなかったのだろうか?

再び扉を閉め、そこを立ち去った。



 この標識の組み合わせ…。
異例に早く廃止されてしまった宇津トンネルだが、トンネルだけではなく、そこへのアプローチ部分にも問題があったのだろう。
特に、「勾配10%」というのは、主要国道では結構キツい。
ましてや、この区間はただの三桁国道ではなく、国土交通省直轄区間であるから、なおさら問題視されたのだろう。
チャリで旧道を走る分には、別にそこまで惨い道とは思わなかったが。
これだけ警戒標識が並ぶ様は、圧巻である。


 トンネル手前には、様々な形の警告が、しつこいほどに出されている。
とにかく事故が多かったのか、或いはそうでなくとも、行政からはよほどの「危険箇所」と認識されていたようだ。
それら警戒標示物も、朽ち方は様々であり、設置された時期にひらきがあることを物語っている。

写真の右側には、運動場ほどの広場があり、どこかの建設会社の資材置き場となっているようだ。
そのお陰で、トンネルまでの旧道はゲートなどで封じられていなかったのかも知れない。
これ以外には特に、トンネルまでの短い旧道区間の沿線に家屋などはない。


 流線的なシンプルな坑門は、廃隧道に似つかわしくない姿だ。
いままで、こういう形のトンネルで廃止されている物を見たのは、初めてだ。

坑門上部に扁額はなく、その代わりに、左右に一枚ずつ立派な鉄製のプレートが設置されていた。
左のプレートには、左書きで「宇津トンネル」。
右のプレートには、やはり左書きで「昭和42年7月竣工」とあった。



 『山形の廃道』様のレポでは、入り口を封じているフェンスの上部にある有刺鉄線がしっかりしていたが、なぜか、一カ所切り取られている。
これならば、労せず立ち入りが出来そうだ。
実は、氏のサイトでその姿を見たときには、トンネル内部へ如何にして進入するかあれこれ悩んだのだが、それは取り越し苦労というか、無駄な思案に終わった。
決して、有刺鉄線を壊して進入しようと思っていたわけではないので、それは誤解のない様に。

トンネルは真っ直ぐで、出口はもう見えている。
しかし、片道で1km近くも延長があり、このまま通り過ぎるだけならいざ知らず、戻ってくることも考えると、隧道好きの私といえど、気乗りがしない。
まして、近代的なトンネルの廃止されている姿には興味があったが、内部は別に荒れているとも思えないし、面白みという点では…。

めずらしく、トンネル前でテンションが下がってきた。


 ウダウダ言ってみてもしょうがないし、このまま立ち入らないで引き返せば、あとで絶対に後悔すると思ったので、チャリを置き、荷物を懐中電灯だけにして、トンネル内へ立ち入った。
案の定、内部はしっかりしているじゃないか。
1kmを往復するとなると30分近くかかる計算だ、この後に宇津峠越えという不安材料があるので、ここはさっさと片づけてしまいたいという気持ちは隠せなかった。


 やはり、飯豊側の坑口部は、地山を削って作った本来のトンネル部分に、落石や雪崩を回避するためのシェード部分が繋がった構造になっているのではないだろうか。
帰りに坑門上部へ登ってみたが、そこでもそれを裏付ける発見があった。
また、写真を良く見て頂ければ分かると思うが、延伸部分と思われる部分だけ、断面が異なっている。
側壁がやや、広まっている。
しかしこれは、ドライバーにしては危険な状況だったかも知れない。
なんせ、トンネルに飛び込むなり、坑口部で予想される広さから狭まるのだから。


 坑門側の内壁には、トンネル緒元のプレートも埋め込まれていた。
その内容は写真の通りであるが、『山形の廃道』様御提供の「全国隧道リスト(S42)」の記載と異なる部分がある。
一つは、延長である。
リストでは、915mとなっている。(しかし949とは不吉だ)
また、幅員も違う。
リストでは6mだが、プレートにはさらに狭い5.5mと刻まれている。

なぜこの様な差異が生じているのかは分からない。
リストはこのトンネルの開通した年の12月現在のものであり、本トンネルについては建設段階のやや古い数字をもとに記載されている可能性もある。
また、幅については有効幅員なのか全幅なのかによっても異なってくるし開口部と内部でも違う、延長も延伸されていると思われるから、これが原因で差異が生じたのかも。


 トンネルは奥に向かって結構な角度で上っている片勾配であり、此方側の封鎖部に強雨時には水が溜まるのか、一面に泥が堆積している。
また、現在も洞内の側溝から溢れた水流が、封鎖のコンクリートの隙間から外へと流れ出している。
そこで、このような注意書きの一部が落ちていた。


廃止後のトンネルを鉱山として利用しようという時代があったのか。
いずれにしても、この様な例外的なトンネル利用の時代すら過ぎ去り、完全に無人・管理放棄となった949mにこれより挑む。


宇津トンネル 内部の状況
9:26

 坑口付近の天井中央部には、二列になって大量の照明が取り付けられたままになっていた。
密閉されているだろう照明内部は綺麗なままだが、取り付け部や外観はかなり、錆び付いている。
ほかにも、天井にはぶっといケーブルが数本、取り付けられている。
それらがすべて、現役当時のままの姿で残っているのだ。



 フェンスで塞がれた坑口。
向こうに続く道路も、手前の洞内も多少汚れはしているが、さながら現役の国道のようである。
そのなかで唯一、この道の置かれた現実を知らしめるように、フェンスは高い。



 進むにつれ、急速に暗くなるトンネル内部。
背後の飯豊側坑門から常時勢いよく風がながれ、廃隧道特有のかび臭さや土臭さはない。
ひんやりとした風は火照った体を冷やしてはくれるが、たとえ行き先が分かっているとは言え、未知の廃トンネルは決して居心地の良い場所ではない。
ほんの50mほどすすむと、天井の最も太い架線が、その自重に耐えられなくなったのだろうか、落ちてしまっていた。
まだ隧道自体はそれほど傷んではいないようだが、廃止後に流れた10年余りの時間は、弱い場所から徹底的に責め立てているようだ。
出口まで単調な登りの勾配が続くが、路面は3cm程度の泥に覆われており、どこを歩こうとも靴の裏に粘着性のある泥が重く重く張り付いてくる。
どこから、これほど大量の土砂が流入しているというのだろう?
みたところ、崩落箇所など無いのだが…。



 大体等間隔にある天井のコンクリートのつぎはぎ部分からは、恒常的な地下水の流出があるようで、真っ黒に変色し、コンクリート鍾乳石も成長を始めていた。
これが直接の崩壊要因にはならないだろうが、どのようなトンネルにも起きるこの様な自然な破壊作用を、定期的な補修と点検によって改修していくのが、現役のトンネルである。
廃止されたトンネルでは補正されることのない小さな歪みが積み重なって、最後には、おそらくそれは設計者が考えた寿命(耐用年数)よりも遙かに早く、その機能を停止するのだ。
宇津トンネルでは、もうその破壊は戻れないところまで進んでいるのかも知れない。




 別のつぎはぎ箇所の様子。

昨年、山形県内のとあるトンネルの定期点検にて、内壁の施工厚不足が露呈し、現在もそのトンネルでは通行規制を敷いた補修工事が進められているところであるが、そのトンネルでは、通常30cmの厚みを持って施工されるべき部分を、最小3cmしか施工されていなかったという。
つまりは、内壁を3cm削ったら地山が出てくるような状態だったという。
現在最も一般的な山岳トンネルの工法である「NATM工法」においては、良く内壁に「NATM30」などと大きく陰刻されていたりして、それに気が付いているドライバーもいたかも知れないが、このときの「30」などの数字が、内壁の施工厚である。
よく観察してみると、坑門付近では「50」などとなっているトンネルも多く、やはり地下水の作用が多いような箇所に重点的な厚さを持たせていることが分かり面白い。



 昭和42年に供用が開始され、平成3年までは確実に使用されていた宇津トンネルである。
確かに短命ではあるが、廃止直前にあっては現代的なトンネル内安全設備が完備されていた。
例えば、トンネル内信号(外で朽ちていた電光掲示板だ)や非常電話、それに非常用押しボタンなどだ。
そして、これら設備が、殆どそのままの姿で、放置されていた。

ただし、洞内の設備はいずれも驚くほどに痛んでおり、たかが10年でここまで風化する物だろうか。
写真は、非常押しボタンだったと思われるもの。
生まれて初めて、その重いボタンを押し込んでみた。

沈黙。

内心ほっとしたが、全くなんの音沙汰もなかった。




 坑口付近で天井から剥がれ落ちた太いケーブルは、そのままずっと洞内をのたうっている。
また、この様な大重量物だけではなく、トンネル内照明すら、その3分の一程度が落下しているではないか。
あり得ない話だが、何者かが洞内に強烈な酸を撒いたのではないかと言うほど、あらゆる金属物が強烈に腐食している。

進むにつれ、壁一面に奇妙な文様が現れ始め、ここは、かなり強烈なスポットになりうると思った。
もちろん、アッチ系のスポットにだ。
無論、オススメはしない。
なぜならば、危険だからだ。

いまさら、「危険だから」とは、随分に単純な理由と思われるかも知れないが、このトンネルの危険性は、なみの廃隧道よりも高いのでは無かろうか。
というのは、このトンネルは、現在盛んに崩壊を進めている最中と感じられたからだ。
例えば、廃止から10年でトンネル内の照明の3分の一が落ちている。
これら一つ一つの落下に相互作用はないはずだから、今後も同様のペースで落下が続く可能性があると思うのだ。
つまり、あなたが探索しているその時、あなたの真上にあった照明が、あなたの頭めがけて落ちてきたら…。

天文学的に確率は低いかも知れないが、何十年も、或いは100年以上もの間、徐々に徐々に崩壊して現在にその姿を留めている廃墟よりも、その崩壊に遭遇する危険性は高い。
なんとなく、このトンネルは安定していないような気がするのだ。



 歩けども、歩けどもなかなか、出口は近づいてこない。
小学校の算数程度の計算で、私がこのトンネルを歩いて通過するのにどれだけの時間を要するかは分かっていたが、それでも、1km近いのトンネルを歩くという経験は乏しく、チャリならば結構あっという間なのだろうが、長さを痛感する。
確かに、トンネル内の事故、特に火災などで重大な人命被害が出るのも、頷ける。
この程度の長さのトンネルであっても、歩いて通過するのは、大変なのだ。

さて、写真の箇所はまた、想像外の景色となっていた。
まるで、コンクリのような硬い土砂(乾いた粘土?)が、まるで隆起したかのように洞内にふくらみを作っている。
付近の内壁には、これだけの流出の原因となる崩落はなく、封鎖された外部から流入してくるとも考えにくい、大量の土砂である。

洞内で、何が起きているのか?


 非常電話と非常用押しボタン。
トンネル内には、これらの設備が等間隔に置かれていたが、いずれも見るも無惨に朽ち果てていた。

なお、電話ボックスを開けると、中にあったはずの電話機は綺麗に消失していた。
他のボックスまでは見なかったが、誰かが持ち出したのだろうか?
そういえば、洞内には、人一人分の足跡が、泥の上に点々と残っていた。
以前に探索した者がいたのだろうが、帰りの足跡はなく、通り抜けただろう人物はどこへと消えたのか。



 約600mを進んだところで、内壁には行政区域の移ったことを示す標識が取り付けられたままになっていた。
蛍光塗料で設えられた看板は、私のヘッドライトにも浮かびあがってその存在を盛んにアピールして見せた。

現代的なトンネルが、殆どそのままに放棄された姿は、人の絶滅した世界を連想させる。
最近映画化された望月峯太郎氏のコミック「ドラゴンヘッド」などに描かれた世界観だ。
そんな創作は好きな私だが、ここはあんまりにもリアルすぎて、恐い。



 一旦は天井に戻ったケーブルだったが、再び落ちていた。
現在辛うじて天井に残っている部分に掛かる負担は相当のものだろうから、今に全部落ちてしまうだろう。
どんな軋みを上げて壊れるのだろうか?
想像すると、寒気がする。
それだけでない。
照明の一つ一つが落ちる時にも、もの凄く良く音の響く洞内には、不快な鉄の悲鳴が谺するのだろう。
人は、破壊にカタルシスという快感を得るが、そこに、ひと思いに壊されぬ恨みのようなものを認知してしまうと、それだけではすまされなくなる。
古来より、日本人の多くが物にも魂が宿ると信じてきたが、もしそうだとしたら、廃トンネルには怨嗟の唸り以外、どんな情が認められようか。




 いよいよ出口が200m程に迫った場所で、それまでにない奇妙な施工に出会った。
内壁の5mほどを支えるように巻かれた、鉄製のレールである。
その付近の壁は著しくひび割れ、何かこの壁の外から、得体の知れない何かが突き破ろうとしたかのようですらある。
そして、支保工で巻かれた箇所の壁は、既に一度剥がされて、再度塗り込められている。
この部分の施工は雑であり、規模から言っても、トンネル現役時の老朽化に伴う通常の支保工ではないと思う。

裏付けはないが、この場所こそが、坑門付近で見た、「粘土鉱物」の探鉱工事を行った箇所なのではないだろうか?
どう見ても、このわずかな部分の施工は不自然で、壁の様子も、普通じゃない。
また、どこから流入し堆積したのか不明だった、さきほどの多量の粘土は、この探鉱工事で発生した物ではなかったか。



 上の写真は、向かって右側だったが、これは左側だ。
両側に壁に横坑を掘り、そこで探鉱を行ったのだろうか?

私は、宇津峠よりもさらに10kmほど南にある白川ダムの工事関係文書(ネット上で閲覧可)に、関連性の疑われる記述を発見した。
以下、引用した。
(引用先=http://www.soumu.go.jp/kouchoi/knowledge/nenji/paper/46/s46-2.html

請求地域は,山形県西置賜郡飯豊町大字高峰地先に建設される白川ダム,貯水池及びそれらの周辺の地域である。<中略>
請求地域には,けい・・石,亜炭,耐火粘土を目的とする採掘権及び試掘権,金鉱,銀鉱,銅鉱,鉛鉱,亜鉛鉱,硫化鉄鉱,重晶石,石こう・・を目的とする試掘権各1件のほか,けい・・石,亜炭,耐火粘土等を目的とする試掘出願9件及び金鉱,銀鉱,銅鉱,鉛鉱,亜鉛鉱,硫化鉄鉱等を目的とする試掘出願4件がかかっている。

確かに、この地域にて粘土鉱石の試掘が成されていたいようである。
施工の様子から言って横坑は、もう二度と開放されることはないだろう。
試掘の結果は、思わしくなかったのだろうか?




 この試掘跡と思しき箇所を境にするように、トンネル自体の老朽化が非常に目立つようになった。
この変化の度合いには、私自身大変に驚いたのだが、比較的乾き、状態の良かった(と言うか竣工年度に相応の様子)飯豊側に比較しても、小国側坑門から200mほどの部分は、簾のように地下水が落ち、至る所に地下水が原因と思われる染みや、ひび割れすら認められた。
それだけではなく、内壁のつぎはぎ箇所に埋め込まれていた緩衝用のゴム状の物体の殆どが、ひねり出されるように洞内へ散乱し、代わりに見たことのない、オレンジ色の“何か”が露出していた。
得体の知れない何かは、毒々しい色と相まって、私が触れることを許さなかった。


 内壁の亀裂から、何かが露出している。
なにか、生体の組織のようですらある。



 さらに、小国側の光が内壁の隅々を照らすようになると、その余りの酷い様子にまた、驚いた。
コンクリが、ブニブニに変形している!
何故に、この様な状況になってしまったのか?
この状態は、強度にどのような影響を与えているのだろうか?
それは分からないが、この宇津トンネル、もの凄い速度で最後の瞬間へと進んでいるような気がする。

こんな酷い壁、見たこと無い。

…いや、どこかで見たような気もするが、思い出せない…。

 入洞から18分少々。
不気味なトンネルだった。
飯豊側に来るに連れて、特に。

やはり、此方側もしっかりとフェンスで閉じられている。



 その向こうには、ほっとするような平穏な景色が続いている。
このまま逃げ出したいような気持ちに駆られたが、チャリを置いて進むわけにも行かない。
そして、何よりもまだ、本来の目的である「宇津峠」を攻略していない。

今一度、怪しい洞内へと踵を返す。
今度は、ずっと下り坂なので幾分楽だが、楽しい物ではない。
また、余計に疲れる原因として、なまじ幅が広いので(普段良く探索している廃隧道に比べたらこれでも相当に広い)、どこを歩いていても落ち着かないと言うこともあったと思う。
私のヘッドライトでは、充分に光が届かないせいもあって。


 9時26分。
休憩もそこそこに(こんな檻の中で休憩したくはない)、戻ることにした。
写真は、小国側の様子。
飯豊側と構造は近いが、その傷んだ様子は同じトンネルとは思えないほどだ。

最後に、今まで知らなかった「宇津トンネル廃止の本当の理由」と思われる情報をゲットしたので紹介したい。
以下に引用する。長野県のダム工事に関する答申文書だ。
(引用先=http://www.pref.nagano.jp/doboku/tisui/kiroku/5gijipdf.PDF)
(←PDFファイルです)
工事の障害になるというのは、一般論であります。
工事終了後も保守、保安上、厄介な存在であるいうことになっております。
例えば、米沢と新潟を結ぶルート 113 号線の宇津峠のトンネルはスメクタイト岩盤に掘られたが、裾花凝灰岩層と似た白い凝灰岩質の山なんですが、これが 15 年も経たないうちに維持管理が困難となり、放棄せざるを得なくなり、別ルートに新しいトンネルを作り直しています。


 宇津トンネルがわずかな期間で廃止された原因は、トンネルの狭さや、前後の区間の線形の悪さだけではなかったらしい。
その地質に問題があったのだ。(スメクタイトというのはゲルとゾルとの間に可塑性のある粘土鉱物)
そしてそれは、いまトンネルの内壁を異形の物へと変容させつつある、元凶なのではないだろうか。

これが事実なら、日本のトンネル工事史に残る、失敗工事例であるかもしれない。


たった十数年で利用できなくなった前代未聞の長大トンネル「宇津トンネル」は、
その全てを抱いたままに、いまも最期の時を待っている。
地球によって壊される、その時を。





その3へ

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