資源開発道路 2005.10.24
2−1 資源開発道路
8:47
少し戻り、資源開発道路として開発されたという現在の町道へと入る。
写真の分岐を右に進む。
当座の目的地は、5km先の花立だ。
上り始めるとすぐに民家は途切れ、鬱蒼とした森のなかを上り始める。
手押し車を押すお婆さんに会ったので、挨拶もそこそこに、この道について伺ってみた。
お婆さんがこの地に嫁入りした、昭和20年代に「開拓道路」として建設された道だということである。
この話は、矢島町史巻末年表にある「昭和34年 鳥海開拓道路完成」の記事とほぼ一致する。
また、針ヶ岡地区に立つ道路新設記念碑によれば、「昭和19年 資源開発道路起工」とあり、これらは全て同じこの道を示していると考える。
現在一般に往来のある主要地方道32号・58号の重用道路は、同じ針ヶ岡を経由し同じ花立に至るといえども、経路には文字通り“山と谷ほどの”の違いがある。
資源開発道路(=開拓道路)は鳥海山が矢島に降ろす尾根に沿ってほぼ最短距離で登っていくのに対し、県道は荒沢、熊之子沢、石滝、濁川などの荒沢川沿いの小集落を結びながら登っている。
その高度差は序盤ほど顕著であり、写真は鳥海山方面を見ているが、まだ県道は左の谷底にある。
この後、県道もスパートをかけて登ってくるのだ。
私は、この開拓道路こそがかつての県道だったのではないかと思っていた。
それが間違いであったと気がついたのは、現地での本探索を含む2度の探索および図書館などでの机上調査の後である。
しかし、紛らわしい物がこの開拓道路には点在する。
その一つが、写真のデリニエータであって、「矢島町」と書かれたシールが剥がれかけ、その下から「秋」の文字が見えているのだ。
これなどは、一見すると県道だったことを示唆するが、どうやら、転用・シール張り替えによって町道に使われているだけのようだ。
このほか、秋田県と支柱に書かれたカーブミラー(相当に古そうなデザイン)などもあるが、県道由来である証拠とは言えないだろう。
入口から約2.1km、高度差にして100mを登ると、右に林道篭立場(かごたてば)線が分かれる。
この林道は砂利道だが、鳥海山麓線川辺駅付近の国道108号線に降りている。
直進する。
なおも上りは続き、次第に舗装も草臥れてくる。
そして、遂に未舗装路となる。
未舗装とは言っても、砂利が敷かれており、乗用車でも通行できるだろう。
道幅が狭いのと、小刻みなブラインドカーブが続くので、あまり車で走っていて面白い道ではなかった。
今回のようにチャリならば、逆に景色の変化が多いので疲れずに登って行きやすい。
途中、鶴田池という大きなため池が右にあり、林道からは見えないが、湖畔へ降りる林道が分かれる。
そこも通り過ぎてなお進むと、入口から約4km、登ること200mで、大きな広場の分岐に至る。
ここに来て花立牧場は近く、いよいよ稜線上に立ったと言える。
そのまま稜線上を下っていく小杉沢林道(名称は仮称)が右に分かれる。
写真は、分岐を振り返って撮影。
右が、今上ってきた道で、左が稜線上に続く小杉沢林道で、やはり川辺に続く。
そして実は、小杉沢林道は明治県道であるが、詳細は後ほど。
2−2 みちしるべ
9:30
現在地は右の通り。
鶴田池を過ぎ、小杉沢林道(=実は明治県道)と分かれた開拓道路は、すぐに三叉路となる。
左には勢いよく堰が流れ、分水する堰の壁にぶつかってしぶきを上げている。
右地図の通り、実はこの辺りはもう明治県道に重なっている。
そして、この分岐も明治から存在するようだ。
その現地における最大の根拠となったのは、鳥獣保護区の赤い看板(写真参照)の足元に佇んでいる、小さなみちしるべだった。
※写真の上にカーソルを合わせると、石碑の文字をハイライトします。
左 右
鳥 仁
海 賀
登 保
山 道
道
不鮮明ながら、文字は確かにそう刻まれてある。
思えば、この石碑を発見したことが、仁賀保道(これが明治に県道指定された「県道 仁賀保線」を示している)という未知の道との出会いだったのだ。
それまでは、従来の県道より以前の道が存在したとは思っていなかったし、その道から外れた場所に、このような重要な石碑が立っていることは思いもよらなかった。
この石碑との出会いが、まずは「開拓道路が旧県道なのではないか」という考えを生み、その後の調査によって、さらに明治の道は別にあることを発見したのである。
山行がにとっては、記念すべき石碑だ。
これまでは、「石の時代は調査範疇外」と棄てていたのだが、この発見により、考えは大きく改められた。
ご覧のように、自動車交通時代にとっては余りにも背の低い“道路標識”が、いまも確かな行き先表示を携えて、存在し続けている。
そう古くはないと思っていた道が、実は一番古い道だったという驚きの発見は、単に恋人の実家があるから頻繁に通っていたと言うだけの矢島を、我がオブ人生にとってもかけがえのないものに押し上げた。
見れば見るほど、この三叉路、好きダー。
私なんかより随分前から “この喜び”に触れていたTUKAさん(By『街道WEB』)よ。
林鉄の面白さを私が貴方にお伝えした(?)借りは、確かに返してもらいましたよ。
明治の標識の少し先(仁賀保道側)には、今度は昭和の色あせた標識が立っている。
白看でないのは惜しいが、小数点以下の距離も表示してある所など、白看時代の表示方法を踏襲しているようにも見えるし、かなり古そうだ。
昭和34年の開通からの数年間、現在の県道がまだ建設中だったため、この道が今より重要な道だった時期がある。
このような砂利道でも、敢えて青看が設置されていると言うことには、何らかの理由があるはずだ。
分岐を真っ直ぐ行けば1kmで花立牧場に至るのだが、その入口にあたる当地には、巨大なオブジェがある。
巨大な四角柱の石碑。
底辺は1m×1m、高さは背をゆうに超えており、3mは有ろうか。
石材が布積みという方法で積み上げられており、天辺には笠石の意匠が見られる。
しかもこれが、道を挟んで一対、合計2柱立っているのだから、ただごとでない存在感があり、圧迫感さえ感じる。
果たして、これほどの石碑を問の用に配置した真意は、何なのか?
それぞれの石柱には一枚ずつ巨大な扁額が埋められている。
左の碑には、詩らしいものが書かれている。
以下に全文を引用するが、意味が分かる方教えていただきたい。(→
感想板「当該スレッド」へ)
釈 迢空
とりのみの山のふもとに居りとおもふ
心しづけし獅子笛きけば
右の碑には、この巨大な石柱を建立した主の名前が書かれていた。
矢島町花立畜産センター
その添え書きには小さな字で、昭和38年起工などとも書かれている。
この大仰な石門は、現在の観光牧場としても名を馳せている花立牧場の前身である、畜産センターの正門だったのだ。
この当時、現在の県道が存在しなかったことも暗示しているだろう。
分岐を、まずは右に進むことにした。
明治県道の一部であるが、現在は町道になっている。
小川を脇に見ながら、紅葉の高原を緩やかに登ること600mで、一挙に視界が開ける。
2−3 高原牧場
9:42
そこは、平成16年に新設されたばかりの「土田正顕記念東証上場の森 in矢島」の一角である。
以前は花立キャンプ場があった一角で、私もチャリ馬鹿トリオ時代(確か96年だな)に泊まったことがあったのだが、すっかり様変わりし、人気の全くない草原にポツンと研修センターか何かの建物が建っている。
草原の道をなお300mほど登ると、県道32号線に突き当たる。
現在の鳥海高原のメーンストリート、主要地方道32号「仁賀保矢島舘合線」である。
この道と同じ性格(鳥海高原を横切り仁賀保と矢島を結ぶ)を持つ道が、明治県道仁賀保線であったわけだが、矢島〜花立間の道のりだけで見ればまったく重ならない。
近年の車道化工事によって多くの古道が消失したわけだが、本稿で後ほど紹介する「花立〜矢島間」は、当時の面影をよく伝える区間だと思っている。
花立牧場から花立堤を枕に眺める鳥海山の優美は、鳥海観光を扱ったパンフレットなどには必ず描かれるものだ。
鳥海山において、明治以前の修験道に律せられた修行の地から、大正の登山道改修を経て、本格的に観光の芽が吹いた、昭和初期である。
矢島町有志の手によって矢島保勝会という観光化推進活動が始められ、昭和28年にはその活動が実る形で県立公園に指定された。
以後、昭和46年には5合目である祓川まで併用林道が開通し現在に至る。
ここから海抜2236m(東北第2位)の山頂までは直線距離でなお12km、高度差は1700mにも及ぶ。
まだまだ相当に山懐は深く、もし山頂に立とうと志してここに立とうとも、生半可な気持ちでは萎えそうだ。
それもそのはず、鳥海山登山道全体から見れば、何とこの花立は、1.5合目なのである。
矢島市街地からは県道を8km登ってたどり着く場所が、まだ2合目ですらないという事実は、東北を代表する高山・霊峰鳥海の偉大さを物語っているようだ。
右の地図の通りの経路で探索を進めている。
現在地は、その折り返し地点である。
一応分岐地点には青看が立っているが、行き先は表示されていない。
右折する。
牧場の中を真っ直ぐ突っ切りながら下っていく、資源開発道路。
みちしるべや石柱が立つ三叉路までは約1km、玉の大きな砂利がめい一杯敷かれており、下るには良いが、登るのは一苦労だと思う。
車の場合も要注意ッスよ。
矢島盆地に張り付くテクスチャのような凹凸のない街並み、その向こうにはいたって日本的な八塩山地の大人しい山並み。
良い景色だ。
2−4 明治へのタイムスリップ
10:10
画像番号27の分岐に戻る。
右は針ヶ岡へ降りる資源開発道路で、直進が現在は小杉沢林道となった、かつて明治県道だった道である。
今度はいよいよ、満を持しての直進である。
直進するとすぐに道の左側に、小さな石柱が半ば埋もれているのを見つけた。
巨大な松の木が辺り一帯を取り囲むように生えており、その木陰にちょこんと開けた、小さな空間。
なにか、神社仏閣独特の神妙な雰囲気だが、それらしい社は見えない。
ともかく、石碑に注目すると…。
幸 福 神
と彫られていた。
土に埋もれた部分にはたぶんもう一字「社」の文字があるのではないだろうか?
別の面には、「
社守 佐々木 」という文字もある。
間違いない、ここは
幸福神社だ。
調べると、同名の神社は各地にあるようだ。
社は存在しないが、ご神体は明らかだった。
石碑の背後の小さな空間の中央には、ほとんどが土に埋もれたような、巨大な岩が顔を出している。
見たところ、ただ大きめな岩というだけだが、周囲には岩が露出している場所は少なく、目立つといえば目立つかも知れない。
なにより、その岩の真ん前に、ステンレス製の郵便受けが置かれているので、この岩に何かを期待するなと言う方が無理がある。
郵便受けは、賽銭箱なのか、それとも妖怪ポストなのか判然としなかったので、手を合わせるだけに留めておいたが、謎といえば謎のポストである。
一礼して離れる。
稜線上には、静かな牧草地があった。
この道はどこまで砂利道なのかは分からないが、ともかくずっと行けば川辺まで降りられるようだ。
しかし、明治県道は間もなくこの道から別れ、矢島市街地の
<この地点>に向け下っていくはずだ。
現在の地形図上では点線としてだけ描かれている明治県道への入口を慎重に探しながら、チャリを漕ぐ。
この分岐を見つけられなければ、計画はまるっきり振り出しに戻ってしまう。
10:16
私の中で、ピンと来る物があった。
この分かれ道。
かなり、クサイ。
松の木が一本だけ生えている辺り、やや出来すぎな感もあるが、いかにも明治時代の道じゃあないか。
周囲を見回すと、ここの他にそれ以上にそれっぽい場所がないので、意を決してここに入ることにする。
行く手には案の定、轍も疎らな草っぽい細道が見えており、楽では無さそうだが…下りだし何とかなるべえ。
読者さん!
そろそろ正統派の廃国道レポ辺りが欲しくなってきた頃かも知れませんが、もう一話ほど、お付き合いくださいな。