第119回 山梨県道513号 梁川猿橋線 後編

所在地 山梨県大月市
公開日 2007.5. 3
探索日 2007.4.10

続 地図にない道を追え!

廃モトクロス場


 2007/4/10 6:37

 生粋のモトクロッサーにとってはここへ来る道程自体も大いに闘争心を駆り立てる物だったかも知れない。
しかし、初心者は練習に来るだけでも命がけ…。
そんな場所に、このモトクロス場は存在する。
容易に誰でも見ることが出来る地図の中では一番詳しい国土地理院発行の二万五千分の一地形図にも、ここへ至る道は描かれていない。
現在では、何の案内もないばかりか電柵線にさえ阻まれる。

 藪に埋もれつつある廃モトクロス練習場。
道はその左へ付けられているが、解放された門戸に誘われ、そのうちへと進んでみた。



 入ってすぐ目の前にあるプレハブの建物は出入り口がしっかりと板打ちされ、さながら永遠の冬囲いの様相だ。
正面には大きく経営母体と思われる「丸正食品」の看板が架けられていた。
実はこのモトクロス場のちょうど対岸のあたりにも同じ会社が経営していた桂川キャンプ場がある。
しかし、ここも現在は封鎖されているようである。
この両者は桂川を挟んで向かい合っており、キャンプ場側には吊り橋の架かっていた痕跡や巨大なタコ滑り台の廃墟を認めた。
 しかし、吊り橋はバイクも渡れるようなそのような堅牢なものではない。私有地ゆえ、その写真をお見せすることは出来ないが…。


 現在のモトクロス場は、僅かにコースが判別できる程度まで植生に没している。
見た感じ小さな運動場くらいの広さしかない。
今はまだ緑も薄いが、真夏になれば大変な草いきれで一歩たりとも踏み込めないのが容易に想像できる。
そんな中に、まだ真新しく見える道路標識が建っていた。
もし標識にも心が宿っていたとしたら、我々はそのあまりに不完全燃焼な生涯を哀れに思うだろう。

 現在、敷地内に立ち入ることは特に禁止されていないようなので、だれか刈り払いをして成仏させても良いかもしれない。
もっとも、入り口の電柵線をどうにかしないとならないが。
もちろん、私がそんなことを言ったのは内緒だ。



 6:40

 バイク乗りでもない私には、その藪に埋もれたコースをつぶさに観察する意欲もなく、間もなく門を出た。
そして、なおも続く轍へと進んだ。

下畑への突破を期して…。




地図にない村


 モトクロス場までは年に数度は人が入っているのかも知れない。
そう思ったのは、そこを過ぎてから急に道が藪化したからである。
この季節の藪は比較的突破しやすいのであるが、朝露でびしょ濡れになった状況は頂けない。
まあ、我慢して濡れに行ったが…。



 笹だ! 笹が深い。
大体チャリに跨っている目線と同じくらいの深さがある。
足下にははっきりと路面の感触はあるが、緩い登りが続いており抵抗感は大きい。
あっという間に私は蒸され、体から湯気が上がった。

 嗚呼、どこまでこんな道が続くのか!
嫌だよ〜。
朝っぱらから藪は勘弁してクレー。



 深い藪はたいした距離ではなかった。
しかし、あっという間に太ももより下はびしょ濡れになってしまった。まだ辛うじて靴の中までは濡れなかった。
道はススキが浅く生えた広場に至った。
山側には家??

 その辺の新興住宅地にあっても馴染めそうな近代的民家に見えるが、廃屋…なのだろう。
ただ、その近代的民家の土台は石垣で、それは先祖累代の土地に建て替えながら暮らしてきたことを想像させた。



 そこは桂川の崖と山に挟まれた小さな平地だった。辺りには杉が植林されており、その日陰のために藪は浅かった。
そして、この林の中にはかつて人が暮らしていた証が確かにあった。
一軒の廃屋は言うに及ばず、主を亡くした石垣や明らかに庭木と思われる梅、物置の残骸。そして妙に白々しい電柱。
廃村の跡地利用に植林が成されることは、一般に見られることである。


 一軒だけ残された廃屋。
堅牢そうな作りの家である。
窓ガラスなども全て残っており、よく掃除すればまだまだ使えそうに見える。
しかし、本来庭であり、或いは車庫であっただろう場所は植林地となり、彼らの毎年落とす枯れ枝によって軒先は埋め尽くされようとしている。
おそらくその不便さゆえ村は捨てられたのであろうが、皮肉にも、そこに植えられた杉もまた手入れされている様子がない。



 右の写真は、林の中で見つけた欠けた茶碗の一部。
なぜか廃村には必ず割れた茶碗がある。 不思議なことだ。



 杉林はあまりに平坦で、私はここまで続いていた道の行く手を見失った。
嫌な予感がした。
 電柵線を越えた始めから荒れた道ではあったのだが、それでもモトクロス場までは車も通れないことはないと思われた。
だが、そこから廃村までの200mほどであったが、この間は藪となって久しい様子だった。
それでも、確かに車道は続いていた。

 だが、植林された杉林は、道が下畑まで続いていたと言うことを否定するようだった。
無理矢理に真っ直ぐ林を横断した私だが、そこにもはや道は無く、背丈よりも深い笹藪に行く手を阻まれたのである。


 チャリを停め、少しでも藪の浅い場所を選んで先へ進んでみた。
道を歩いているという感覚はなかったが、それでも何かしら行く手に開けた場所がある気がしたのだ。

 そしてその勘は正しかった。
藪を進むこと20mほどで、目の前に大きな窪地が現れた。
それはコンクリートと石材で作られた、巨大なプールのようだった。
おそらく、川魚の養殖場があったのだろう。
或いは、ここもモトクロス場やキャンプ場と繋がりのあるレジャー施設だったのかも知れない。
現在はその巨大な養殖池の周囲は全て藪となり、道がここを横断して反対側に通じているとも考えられなかった。

 私は、一度廃村へ戻り、道を探し直すことにした。



古道の名残、はたまた


 6:47

 おそらくこのレポートを読んで追体験したい、或いは再調査をなどという奇特者はいないと思われるので詳しい案内は省くが、廃村のある平地から山側に30mほど登った場所に、斜面を横断するような一本の道筋を確認した。そして、廃村からこの一段高い位置まで九十九折りの道が繋がっていただろうと推測できるある種の痕跡を認めたが、そこは藪がひどく、確定には至らなかった。
ともかく、道はまだ先へと続いていることが発見された。
 なお、この捜索の最大の根拠としたのは昭和30年代の地形図であり、ここから下畑までの道はかなりアップダウンがあってもおかしくないように描かれていた。しかしなにぶん古い五万分の一ゆえ、その細部に関しての信憑性は不安だが。



 その道は、もう車が通れるような規模ではなかった。
幅1〜1.6mほどで、本来的にもう少しあったとしても精々一丈(1.8m)であろう。
このさき下畑までの地形は、いよいよ桂川とその枝谷による浸谷が著しくなり、地形図でも等高線がかなり密になっている。
現在の地形図には点線の道さえ無いので、どこを通れるのかは古い地形図に拠るしかない。

 なお、私はこの上の道まで苦労してチャリを引き上げていた。
まだ、突破を諦めていなかったからだ。



 杉林の急峻な斜面に頼りない道形は続いていたが、遂に大きく崩れ落ちている場面に遭遇した。
そして、崩れた道の3mほど下の斜面には、2本のビニル製のパイプが並んで設置されているのを発見した。
既にパイプは所々が外れ、その役目を終えている。
地形図に拠れば、この先間もなく深い枝沢がある。
パイプは枝沢から水を養殖池に引き込むためのものだったと考えられる。

肝心の道は、その谷をどうやって越えていくのだろうか。



 崩れた場所を慎重に突破すると、地図は嘘をつかず、確かに深い谷が現れてきた。
その谷は滝にも等しい勢いで道のある高さへ登ってきている。
それは良いのだが、問題は対岸。
芽吹き始めたばかりの美しい山肌は、見るからに滑りやすそうな土山で、しかもそこに道らしい影を見つけられない。
こちら側の道と同じくらいの高さに、何らかの痕跡が認められて良いはずなのだが…。

 進むにつれ、確実に先細って行く道。
突破か撤退か。
もう押し歩かれるだけになったチャリが、怪しく黙った。


 「…おまえ、行きたくなさそうだな…」





 沢と合一。

案の定、そこまで続いてきた道も最後は沢にえぐり取られるようにして消滅。
橋などあるはずもなく、ただお椀状に削られた谷が道の代わりに南を目指していた。



 道が終着した地点から20mほど谷を遡ると(観念してチャリは谷底に捨てた)、ビニル管の起点である取水施設があった。
施設とは言っても小さな堰である。
そして、この地点より上流は谷が二またに分かれ、間もなく源流のようだった。



 取水堰の上に立って、下流を振り返ってみる。

桂川は水量も多く両岸の浸食が著しいために、猿橋の奇景で代表されるような懸崖(両岸が垂直に切り立った谷)を成している。
ここはその崖よりも上部であるが、足下の支流もチャリを置き去りにした地点の少し下流では滝になっていた。それより下に道があるとは考えられない。



 見渡す限り一様な土の斜面となっている枝谷の左岸。
ここに道を渡すとしたら桟橋か、それとも片側を掘り下げた道か。
どちらにしても、長い年月を経れば跡形もなく痕跡を失う道である。
いかにも崩れやすそうな斜面には、悔しいけれど、何ら道の存在を認めることが出来なかった。

 当然、こうやって谷底から眺めていたばかりではない。
私は荷物を捨て、身軽になってこの斜面をよじ登っても見た。
だが、結果は変わらなかったのである。
何度も滑り落ちたおまけ付き。



 この斜面で唯一発見したものと言えば、相当に古そうな鉄塔の土台だった。
切断された躯体の断面を見ると、あまり規模の大きくない鉄塔のようだが、それでもこの急斜面にしっかりと四つ足を乗せるべく石垣とコンクリートを併用した土台があった。
念入りに探せば他にもこの続きとなる遺構を発見できた可能性もあるが、そこは探している道とかけ離れた急斜面であったし、仮に鉄塔の管理歩道跡を見つけたとしても、あまり嬉しくない。
 古い地形図に描かれていた道は、そんな物ではなかったはずだ。
現状から考えれば眉唾くさいが、それはちゃんと実線で描かれていた。
保証する幅員は(当時の凡例に拠れば)「1m以上2m未満」である。

 あの廃村がまだ生きていた当時、道は存在していたのだろうか…。



 しばし、土を掴み泥を蹴る必死の捜索が続けられた。

もはや意地だった。

道を探して、平均斜度45度くらいはありそうな斜面を、縦横に彷徨った。



 7:18 《現在地》

 おおよそ30分の彷徨の末の最終到達地は、私がチャリを捨てた枝谷のもう一本隣に落ちている、更に規模の大きな谷の斜面だった。

 この谷を越えれば、下畑側の道の終点である神社までは残り僅かであるが、それでもまだ大きな谷が一つ残っており、完全に道の手がかりを失った状態でこれ以上不安定な斜面を進むことは非常に危険である。
また、時間的にも半日を要することも想像された。そのような状況から、この谷の対岸にも道が一切認められないことを撤収のきっかけとした。





 私は突破を諦めて引き返した。
途中チャリを回収し、沢水で顔や手を洗った。
朝一ネタで躓くのは結構テンションが下がるもので、悔しくてしばらくその場所を離れられなかった。

 写真は対岸の国道20号から桂川越しに見た不通エリアの概況。
深い谷が続いているのが分かる。



 帰宅後、想像を超える難度で私を退けた道が、果たして何であったのかを少しだけ調べてみた。
まだその調べはついていないのだが、「慶長古道」の一部である可能性があることを知った。




 慶長古道。

江戸幕府はその長い幕政の始めとして五街道をはじめとする全国の街道を整備したが、その中には新道を拓いた場所も少なくなかった。
慶長古道はその頃に本道でなくなった道の総称であって、全国に同様に呼び習わされた道が存在した。
それは文字通りの古道であって、多くは衰微しつつも「裏街道」などとして存続し得たが、歴史が下るにつれ廃道となった場所も多いようである。

 甲州街道が上野原宿から鳥沢宿までのあいだ桂川の峻険を避け、北方の犬目に進路を採ったことはよく知られている。奇しくも中央自動車道はそれに倣った。
この、政府主導による大規模なルート変更以前の道(鎌倉街道などと呼ばれたという)は素直に桂川沿いを通っていたということが、歴史愛好家などの調査で明らかになっている。
江戸時代には「川辺路」と呼ばれたその古道は、上の図の茶破線のように通ったと言うことであるが、今回辿った県道梁川猿橋線とその延長が関連していた可能性がある。

 沿道に散見される道祖神を中心とする大量の石碑、そして寺院跡といわれる場所の存在。
そこに深い歴史の深淵を垣間見たのは私だけではあるまい。