> どうでもいいですが当該サイトの「映像ランキング」はどうやらここからリンクをたどった人たちの結果がかなり反映されている気が(笑)
あれま。ダントツですね。(笑)
さて。仙納原大橋〜利賀大橋への流れですが。前後関係から私なりに推論してみましたのでお付き合いください。
昭和5年、小牧ダム完成。水を溜める前の仙納原大橋は、ヨッキれん氏のレポの通り、木橋だったようです。仙納原小橋のような?ということも考えられますが、橋梁のスパンの長さから、小橋のような、補助橋脚を付けたようなタイプではないようです。宇奈月温泉の近くの愛本橋の木橋タイプ(Web上に写真あり)だったというような記載がWeb上にありました。その後が私がNo.4722、4744で掲載いたしました、絵葉書3点のつり橋、と思われます。
このつり橋は、昭和9年に流失?ということですが、土木建築工事画報によりますと、昭和9年7月11日、富山県だけでも25の橋が流失した大豪雨災害があったようで、このつり橋もその一つになったのではないかと思われます。ちなみに、この流失、小牧ダムの下流の主要幹線でも起きていることから、ダムを守るべく小牧ダムが放流した?それほどの水が小牧ダムに流れ込んだ?という疑問が残りますが、逆にそれほどの洪水であれば、あの橋梁が低い状態であれば、流木にひとたまりもなかった、と考えられなくもないと思われます。なお、土木建築工事画報には、小牧ダム建設時のレポや、完成後のレポもあり、完成後のレポに、絵葉書の原画?と思しきつり橋の写真や、かの木材引き上げベルトコンベアとその作業風景、後に名古屋鉄道に譲渡されたという水力発電鉄道の凸形電機なども鮮明に掲載されています。
この後が利賀大橋なわけですが、竣工の昭和12年といえば、もはや戦時色が濃くなる一方であり、戦後の復興も含めると、橋を映像的に記録するようになるのは、早くても昭和30年初頭まで無いでしょう。ですが、その後昭和30年代といえば、洞爺丸台風や伊勢湾台風に38豪雪といった自然災害に、疑獄を含めた九頭竜ダム、庄川桜を含めた御母衣ダム、合掌造りと白川郷に国鉄名金線など、庄川峡はほんのわずかの違いとはいえ決して表舞台に出ることが無い状況にあったと思います。その後も東京五輪に大阪万博、札幌五輪。ディスカバージャパンで秘境に目が向き始めたのもつかの間、利賀大橋は焼け落ちるわけですから、昭和36から38年の間に、県の手で、よくぞ映像が残ったという思いがしてなりません。
さて、そんな利賀大橋ですが、橋の下をくぐる、庄川船舶の利用者的には、かなりの人数の目に触れてきているはずで、その人たちの手で、往時の姿が記録されているのでは?と考える次第です。庄川の遊覧船は、2008年まで小牧ダムの管理運営会社である関西電力の直営でした。ダムの保守管理がメインで、旅客が二の次だったことも加わり、さほどつり橋に目を奪われなかった?のかも?と思う次第です。その後はトナミ運輸の子会社の大牧温泉ホテルの直営になっているようです。そんな庄川船舶の別の顔が、ありました。平村への足です。積雪期、156線が不通になり、そんな時の砺波平野への平村村民の足が、庄川船舶だった、というのです。今では廃止されて久しい、祖山〜大牧温泉間連絡船を利用し、住民はもとより帰省家族が利用した、ということなので、フィルムに収まっている可能性が高いと思っていますが、Web上に存在しないようです。