さきほどの書き下し文を、「栃木・茨城県道1号 宇都宮笠間線仏ノ山峠旧道・前編」コメント欄に送りましたが、
現代語に意訳してみましたので、ご参考まで。
あくまで、意訳です。必ず、誤読が含まれています。
なお、コメント欄と重複しますので、こちらの板には載せずに、適当に処理されて結構です。
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およそ、害をとり除いて利をうむということ、世の利益となるならば、その経緯を碑に刻んで記録し、後世に伝えなければならない。
険阻なところを削り平らにして、交通の利便をはかるのは、そのなかでも第一[そのなかの一例]である。
常陸と下野との境は、けわしい山が幾重にも重なり、双方を通う道路が少なかった。
わが西茨城郡の西北にある、片庭村から下野の小貫村に達する国境のあたりは、
仏ノ山といい、坂道を上り下りすること、数里にわたる難所で、仏ノ山とはいいながら、ほとんどけわしい峰である。
封建時代には、その時代ゆえに、険しい地形を要害として重視していたので、この道は官道といいながらも、画期的に改修を施すことができなかった。
そこで、長い間、〔民間の便利なように整備したくても〕道路の状態は荒れたままにされ、徒歩はさておき、車馬となると通行に苦しでいた。
さらに加えて、この場所の地勢は山深くけわしいので、強盗が出没し、畏途(危ない・恐ろしい道)とも呼ばれていた。
時に明治十六年、片庭の村民はみなで議論して、次のような結論に至った。
「今や世のなかの動きは、封建時代から明治に移り変わり、昔から道がなかった土地でも切り開いて、道路が開通している。
それなのに、これまでのように、地形が険しいままにして、独りで通行することができないほどの憂いがあるのは、まさに我が村の恥である。
新道を切り開き整備しないでよいはずがない」。
下野の小貫の村民も、この片庭村の動議に応じて議論し、意見を一致させて、
なんとかそれぞれの県に申請して、新道整備の許可を得た。そこで、仏ノ山を境として工区を分け、
労力や費用を惜しむことなく、さらに、経費をやりくりすること並大抵ではなく、翌十七年一月に起工し、十九年十二月に竣工を宣言した。
切り開いた新道の総延長は480間、費用は1200円、人工は延べ5000人である。ただし、この数字には、小貫村に属する分は算入していない。
こうして、けわしく長い旧道はとても平らにされ、遠い道のりは短絡され、車道の往来はさかんで、もちろん、強盗などは姿を消した。
交通量は嘗ての何倍ともなり、常陸と下野の両国の交通の利益となるところ、ますます大きくなるだろう。
さて、今ここに、記念碑を建てて、この新道整備の労役に関係した者の姓名を記録しようとして、西茨城郡長の牧野正倫君が賛し、私[三村佐山]に作文を命じた。
私がここで述べたいことは、次のとおりである。
便利を楽しんで、それを生み出す苦労を忘れるのは、人の心情である。そして、時が流れてやむことないのが、世の中である。
今後将来、この道を巡るひとは、ただこの道の便利で楽ですぐれているりをよろこぶだけで、工事にかかわる苦労を忘れてしまうのだろうか。
いや、その苦労を思うからこそ、道路の完成とさらなる整備を目指し、求めてゆくのではないだろうか。
だからこそ、私はこの「佛山修路記」を著して、みちゆくひとに示さねればならないのだ。
この碑の背面に関係者の氏名が刻まれてあることの意味を、この記を読む者に知らせて、ここで私は文を終える。