メンバーはそれぞれの道を歩み、チャリバカトリオは過去のものとなりつつある。
いまだ冷めやらぬトリオの魂を、ディジタルな記憶にとどめん。
すべての始まりはここだった。
1991年4月26日(金)。これから幾多の冒険を共にするヨッキれんとの初めての山チャリは、生涯薄れることのないであろう強烈なインパクトを与えてくれた。
この日、平日にもかかわらず学校は休校。俺は朝からヨッキれん宅へ。
休みの日にヨッキれん宅にいることは珍しいことではない。
天気は良かったが、いつもとは何かが違っていたんだろう。
どちらからということもなくサイクリングへ行こうと話が進み、気がつけば砂防林の入り口に立っていた。
早速進入するも、数日前に降った雨のせいか林内の道の悪さに苦戦していた俺たちはある分かれ道に出たところで一休みすることに。
そのとき右方の奥から大きな音が耳に入る。
その正体はわからないが、確実に接近してきていることはわかる。
俺らが見つめるなかそれは姿を現した。黄色の工事車両だ。
その姿を確認するや俺たちは林の奥へと逃げ出した。
工事車両はキャタピラ付きでスピードが遅いとはいえ、俺たちとの距離をどんどん詰めてくる。
しかもなぜか俺たちが進む道と同じ道を追ってくる。
夢中に逃げた、道をはずれ、松に木々の間を縦横無尽に。
どれほどの距離を逃げてきたのか、気がつけば工事車両の姿はなく、あのうるさい音すら遠くに聞こえるかどうかといった感じだ。
俺たちは顔を見合わせる。そして笑った。
あの工事車両から逃げ切った満足感とこの広い防砂林内のどこにいるのかもわからない現状に。
そして再びチャリを漕ぎ出す。
かすかに潮の香りがしてきた。海が近い。
俺たちは林内の草とも土ともつかない香りの中にほのかに混じる潮の香りに導かれるようにチャリを走らせた。
木々の間からは青く光る海が見えていた。
これ以降ヨッキれんとの山チャリは数え切れない。
それは普段の生活では味わえ得ない非日常的な世界、あの興奮、あの感動を求めて。
そして俺たちの飽くなき好奇心を満たすため。
今回は、特別編として、先日トリオメンバーの一人、保土ヶ谷より寄稿されたものを、全文そのままに掲載した。
私と保土ヶ谷の最初のサイクリングにして、初山チャリともいえる、『黄色い装甲車事件』だ。
チャリでの冒険は、もう、どんなことでも楽しかった。
文章からも、そんな当時の空気が、感じられる。
もともと、遊びの足としてチャリを愛用した私たちが、「サイクリングをしよう」と実践した、最初の旅。
それは、手段としてのチャリが、初めて“目的”になった、そんな瞬間であったろう。
生活には満たされた中学生の、しかしなにか、刺激を求めてやまなかった、そんな気持ちが、サイクリングという舞台を得たあの日。
なんでもない防砂林での工事車両との遭遇が、エキサイティングな逃亡劇に変貌した。
…虚構といえばそれまで。
しかし、友 と チャリ。
この両者が揃わねば、決してあり得なかった、あの日の熱狂と興奮。
この体験が、二人の“山チャリ”へと繋がり、さらにその先のトリオ誕生。
その端緒となったことには、間違い、無い。
2002.12.12
道とは思えないような荒地に写る一台のMTB。
トリオのうちの誰かのチャリに間違いは無い。
記憶を辿る。
ここは、たしか…。
仁別は、トリオの愛した中ノ沢林道、その支線のうちの一本の終点部であったと思う。
路面は風雨に顕われ、そこには大小の岩石が散ばるのみ。
こんな終点の景色を、一体いくつ見ただろうか?
トリオは、引き返すということを知らない集団であった。
だから、トリオにとっての終点は、いつもこんな景色であった。
道いっぱいを埋め尽くした崩土や落石。
チャリを飲み込むほどに深く穿たれた路上の水路。
背丈よりも大きく育った、ススキの道。
その度に、トリオは汗をかき、傷を増やし、
そして、最後には顔を見合わせて、…笑った。
困難の後にのみ訪れる、至福の瞬間を追い求めた。
繰り返すうちに、更なる快感を求め、挑戦をエスカレートさせていった。
そんな、危険な旅を繰り返すトリオに、一人の死人も出なかったことは、奇跡的だ。
そして、私が当時を、色褪せない記憶として有する事実が、いまだに私の走りが、当時とほとんど変わらぬ信念に因っていることを示す。
一度知ってしまった快楽は、決して、スケールダウンすることが出来ないものなのかも知れない。
また、暴挙を繰り返したトリオが、苦難の果てに得た教訓もまた、私の中に真摯に生きている。
それは、今思えば当たり前のことばかりだが。
―どれほど、くだりのスピードが危険であるか。
―手放しでチャリを操ることに、どれほどのリスクが付きまとうか。
―山でのパンクが、どれほど致命的になりうるか。
私を育てたのは、トリオでの旅に他ならない。
励ましあい、笑いあい、時にはぶつかりながら、しかし共有した時間は、すべて一本の道の上にあった。
それは、トリオの挑んだどの道よりも、深く、長い。
いまだ、この山チャリ道、
その終わりが、見えぬのだから。
私を虜にしたまま決して離さぬ、この道の深淵は、何処まで深い…
ただ ただ 媚薬のようなスリルが 続くのみ …か。
2002.12.12
2002年9月5日、トリオの歴史に、数年ぶりに新たな一頁が刻まれた。
それは、本当に小さな一歩。
しかし、私は想う。 ふたたびトリオが歩みだす、その日を夢に見て…。
この日、私は保土ヶ谷の愛車に連れられ、能代市から八竜町へと連なる広大な砂丘地帯の一角にあった。
彼が案内してくれた道は、私も知らない道で、幅が車一台分しかなかった。
鬱蒼と茂る松林の中をしばし進むと、視界が開け、そして道が砂利道になった。
眼前には、二手に分かれる砂利道。
その向こうには、無数に並ぶ巨大な発電用風車。背景は、夕暮れを間近に控えた、かすんだような太陽と黄金色の空。
彼は、ここで車を停めると、「歩いてみねが」と私を誘った。
どうやら、ここへ私を連れてきたくて、寄り道をしたようだった。
それまでの景色からは想像もつかない…、誰が松林の只中にこれほどの広大な景色を想像できようか…、大変に雄大な景色に、しばし呆気に取られたが、勿論快諾。
やや蒸し暑いが、照りつける夕日の暑さは、明らかに秋のそれになっている。
そこは、能代風力発電所と言うのである事を帰ってきてから知った。
ここで、私は大変珍しい事に、チャリではなく、自身の足でしばし、さすらう。
ただ、一人ではなかった。
保土ヶ谷は盛んに、「なつかしい」を連呼していた。
そんなはずは無い、ここは、二人にとって、初めての場所だ。 が。
…そうだ、あまりにもこの景色は、似すぎている。
私の心も、彼に言われるまでもなく、あの場所を、あの時代を、思い浮かべていた。
トリオのもう一人の面子が足らなかったのは少し残念ではあったが、ここで嗅いだ空気は、まさしく、トリオが、たびたび味わった、あの追分松原のそれであった。
「今が、ふしあわせなわけではない。」
「しかし、この記憶は、あまりにも、輝きすぎている…。」
自身が未だにどれほどか、当時の、トリオの時代を大切にしているかを、図らずも再確認すると同時に、保土ヶ谷氏の“あつき魂”の健在を認めることが出来た。
彼は、確かに今、“おばあちゃん並みかそれ以下”の山チャリ力かも知れないが、トリオは未だに死してはいなかったのだ。
その事が、私に最大の感動を与えたのであった。
走行時間…1時間余り。
走行距離…約6Km。
走行手段…徒歩。
これは、トリオの新しい“山チャリ”正史である!
その始まりの一頁である。
そんな予感、…いやこれはまだ…希望、しかし確かな手ごたえを感じた、そんな夕暮れであった。
2002.1.26
ここに、一枚の銀塩写真がある。
丘のてっぺんに写るMTBたち。
これは、97年ごろの写真だ。
背景には地平まで続く様に見える一面の松原、こんな文句なく風光明媚な場所がかつて、あった。
写真ではわかり難いのだが、松原の向こうに、日の光を受けて輝く、大海原があった。
この場所からの景色は、本当に最高であった。
この場所は、秋田市にあった。
秋田港から北へ北へ、秋田湾を囲むようにはるか男鹿市まで続く広大な松原のなかに、ただ一点この場所はあった。
秋田市追分から、獣道のような小道をたどり、さらに道からも離れ、一面の松原の中わずかな起伏の変化を頼りに進むと、この場所に出るのだった。
まさに、トリオの秘密の場所であった。
よくこの場所へ集まった。
あるときは、深夜わずかなライトの明かりを頼りにここを目指し、散々迷子になった。
またあるときは、一日中この森をさまよい、点在する三角点とか、古い石碑を探して回った。
いつも3人を迎えたこの最高の景色は、3人の誇らしい秘密だった。
この写真から数年後、ヨッキれんの引越しを境に、3人が会うことが少なくなると、この場所から自然と足が遠のいた。
そして、ついには、予想だにしなかった最後を迎える。
現在この場所には、近代的なキャンパスが立ち、あのころの面影はない。
付近の松林は、いまだに当時のままだが、この秘密の場所だけは切り崩され、ビルの下に消えた。
無念にも蹂躙されてしまった秘密の場所だが、記憶の中で色褪せることはない。
2002.1.26
ここに、一枚の銀塩写真がある。
薄暗い砂利道で黙々と作業する男たち。
これは、トリオで行った最後の山チャリキャンプとなった、1996年夏のもの。
場所は、青森県鯵ヶ沢町津軽峠。
時刻は、既に17時を回っていた。
この地は、トリオが経験した中でもっとも長く…いや、ヨッキれんにとってもいまだに最長であるが…弘西林道の、
しかもその中のちょうど中間点である場所だ。
知る人も多いと思うが、この弘西林道について簡単に述べると、現在は青森県主要地方道28号線に指定されているもので、現在では整備も進み観光道路化しつつあるが、やはり「弘西林道」の名は、有名でいまだにその名のほうが通りがよい。
その名の通り、弘前と西津軽郡を結ぶべく開発された路線で、その宿命として…県下随一の巨大山塊である白神山地を東西に縦貫するものだ。
途中、大きな峠が3つ。
それぞれが、間に挟む峡谷越えの長大橋との高低差500mを数えんという、まさに、まさに最強最長最狂最悪最逝の林道である。
これは、誇大ではない。
…少なくとも、山盛りの荷物を背負った、山チャリ4日目の3人にとっては。
説明が大変長くなった。
はじめの写真に戻りたい。
3人は、3つの峠のうち真ん中の峠の頂で、まさに夕暮れを迎えんとしていた。
あまりに無茶な計画であったのだろう。
しかし、時既に遅く、前後をも峠に阻まれ…。
つらかった。
写真に写る、俯いたままリュックを漁る(ドリンクだろうか?)保土ヶ谷と、奥にはいまにも霧けぶる原生林に消えてしまいそうな、ヨッキれんの姿(彼は、小便だろう。)は、まさに、そのつらい心境をあまりにも的確に表現してはいまいか。
ここでは、図らずもフラッシュが反射し白く飛んでしまった小さな道路標識は文明の象徴に見える、それは日常生活のぬくもりか。
一方、訪れる闇夜と共に3人を飲み込まんとするかのように道にかぶさる異形な木々の陰、どこまでも鉛色の空、これらは、畏怖するべき自然の姿。
もしこの場に一人であったら、正気を保てるだろうか?
あまりに心細いこの空間。
3人は、なおも進んだ。
闇夜の峠での永遠にも長く感じられた格闘の中で、互いの存在がどれほど心強かったことか。
ついに最後の峠にたった時の、はちきれんばかりの歓喜。
どこまでもどこまでも、海まで下る究極のダウンヒルでの、興奮(と恐怖)。
街の灯を遠くに認めた時の、こころからの安堵感。
脱出の瞬間の…、いや、それはもう、今では言葉にすることのできない感情の激流だった。
ただひとつ言えることは、3人はこれらのすべてを共有し合ったということ。
事実上、トリオの最後の林道と言ってもよいこの道「弘西林道」での一日は、永遠の記憶に残るものだろう。
2002.1.23
ここに、一枚の銀塩写真がある。
三台のMTBが映る写真。
気がついてみると、こんな光景はもう何年も見ていなかった。
“あたりまえ”のことと思っていた景色が、実は遠い昔のことになっていたことに気がついた瞬間…。
みなさんも、何かしらこういう経験をされたことがあると思います。
正直、寂しさを覚え、また、こみ上げてくる懐かしさを抑えきれない気持ちです。
そして、突然これを書き始めたわけだ。
一度トリオについて、整理し、記憶にとどめる準備をしようか…というわけ。
しかしそれは、過去と、認めるという事に他ならない…。
もう、新しい場面はないかもしれないと、暗黙のうちに自分に言い聞かせるということ。
わからせるということ。
わかりたくないことを。
少し自分の世界に消えかかってしまいました(笑)。
この連載は、(本当に連載するかも疑わしいですが)内輪ネタになるかもしれません。
読み飛ばしてくれても結構です。
もし、トリオの戯言にお付き合いくださるという奇特な方(笑)は、トリオについては
ここに説明があります。
山チャリに新しい場面を追加することが難しい、冬期のネタに、ノスタルジーも悪くないでしょう。
この写真の正体ですが、これは95年に3人で秋田市下新城黒川油田近くの仮説とおぼしき林道に、いざ突入するか、という時のもの。
この後3人は、生涯忘れられない経験をすることに…。
特に私は、トラウマを抱えるほどの衝撃と恐怖を…。
われわれはこの地を、『アンプカ沼』と呼んでいる。
この地に潜む無数の恐怖…。
小さくて、茶色くて、うにうに。
うにうに。
うにうにうに。
2002.1.14