メンバー紹介
2002.1.3
 
 このホームページを開設した、“ヨッキれん”と、その頼もしい山チャリ仲間である“保土ヶ谷隧道”と“ホリプロ”や、
3人の総称である“チャリ馬鹿トリオ”を紹介したい。

下のクリッカブルマップから、詳細を見たいメンバーをクリックしてください!


保土ヶ谷隧道 ホリプロ ヨッキれん チャリ馬鹿トリオ

山チャリ中毒者
25才 男
 
 生涯現役を標榜する、山チャリ中毒者!
山チャリは彼の楽しみであるが、最大の喜びは、廃道や旧道との濃厚な時間を過ごすことである。
カメラ片手に各地に出没し、バッテリーの切れるまで撮影する。
チャリが彼の足に選ばれたのは、偶々彼に最適であったに過ぎず、特別MTBにこだわりがあるわけではない。
これまでに彼が破壊してきたチャリの台数は、まもなく二桁に達する。

 最大のこだわりは、完走することであり、何よりも途中で引き返すことを忌み嫌う。
また、柵があると乗り越えてしまうのも、自身ではどうしようもない衝動である。
ひとたび地図を開くと、その目に映る道すべてが挑戦的に見えるらしい。
困難な山チャリを生き残ることで得られる快楽に全身を蝕まれている。

 私生活では、コンビニ“ローソン”の一員として、ホットでフレンドリーな接客を心がけている。
声の大きさにだけは自信がある。
猫を愛する。
満一歳になった愛猫『ラク』のデブッた肢体を足でブニブニすることが、仕事帰りの日課となっているが、奴もまんざらでは無いようで、私の姿を見ると無言で腹を見せるようになった。愛いヤツ。
猫好きは保土ヶ谷と共通しており、「ニャー」は合言葉だ。

 実はテレビゲームも大好きで、PCのHDDには多くのROMイメージが貯蔵されておりその違法性が問題視されているとか、いないとか。
特にレトロゲームを愛し、ホリプロ同様、近年の性能競争には余り興味が無い。
…といいつつ、なぜか発売日に某黒箱をゲットしてしまったあたり、進歩が無い。
一押しのゲームは、懐かしいメガドライブの「ベアナックル2」だが、「トルネコの大冒険シリーズ」にも相当はまったくちである。
実は、洋ゲー好きなのではとの指摘をホリプロに受けている。

 座右の銘は、”ダートマニアックス”。
以前の火の玉のような走りから、徐々に叙情感を重視した旅に変化してきており、目下の目標は、県内全隧道の走破である。
そして、最終的な到達点と考えるのが、県内全道制覇である。
各地の道路たちへの愛情は深まる一方で、本当に気に入った道となら、命を共にしても良いとさえ思ってしまうのは、良くない傾向である。

2003年も、無事に生き残れるのか??


 廃道伝道師。愛する道の為に往く。
2003.1.9改訂

未知を求めて旅をする
25歳 男
 
 ヨッキれんと共に、初めての道川林道を走った男。
それ以来、共に幾多の山チャリに挑み、その度に、痛烈なインパクトを持ったエピソードを残した。
 しかし二十歳を過ぎた頃から、突如衰え、愛車“マーマレード”の故障と共に、現役を退いてしまった。
そして2000年秋に、彼の口から語られた衝撃の事実は、記憶に新しい。
「マルサに買い物に行くだけで限界だ。」というのだ。
これが事実であるとするならば、もはや現在の彼の体力は、おばあちゃん並か、それ以下と結論付けるしかなく、事実上の引退宣言ともとられた。
その後の2001年、ヨッキれんは強力に彼の復活をプロデュースする計画でいたが、これに失敗。
今では、トリオ時代の思い出話に、秘めたるアツさにじませるのみだ。

 彼は私生活でも、ほかのトリオのメンバーと共通の趣味を持つ。
ヨッキれんと共に猫好きだし。ホリプロと共に車好きだ。
それに三人ともゲーム好きだ。
しかし、彼は大抵一歩引いた冷静な視線を有する。
トリオでの山チャリ中も、よいペースメイカーとなっていた。
同時に、ギャグメイカーであったが、狙ったものは寒い結果に終わることが多いのもお約束だろう。

 2000年の最後には、遂に長年の夢であった日本一周旅行を単独にて成し遂げ、彼の未知なる世界に対するモーメントが依然高いことを感じさせた。
どうやら、生涯のうちにには自分の足で全国のすべての国定公園を旅する目標があるらしいが、多忙なようで、なかなか進んでいない。

 彼を語る上で外すことが出来ないのが、今は無きSNKとNEOGEOである。
自身が『ア動き』とよぶ、一連の動作は、多くのライバルを陥れてきた魔性の技だ。
それらはすべて、モニターの中でのことだが…。
 また、ゲームから離れると、彼の困ったエンターテイメント性が発露される。
彼を招き入れると、よく私の自室から、小さな備品が消える。
たとえば、テレビのリモコンや、みかん、メモリーカードなどである。
この現象は、彼の場違いなテンションとアクションと共に繰り出される、仮想テレビ番組『トレジャーハンちング』の開幕を告げるもので、なぜか私は、自分の部屋で自分の物を探すという屈辱を強いられるのだ。
いよいよ、5年以上続く“長寿番組”となってきたが、早期の打ち切りが望まれる。

 もう彼に、ふたたびチャリを駆り、林道を巡る日は来ないのかもしれない。
しかし、今でもトリオの一員である。
私のチャリバカ話を、最もよく聞き、笑ってくれる友である。
それと、愛車(チャリでない)を用いた緊急時の救助活動に感謝!!

 伝説は眠らない。 未知を愛する旅人。
2003.1.9改訂

孤高のマニアックマン
24歳 男

   中学3年の時にヨッキれんや保土ヶ谷と出会って以来意気投合し、いつのまにか山チャリストと化していた。
初山チャリが、トリオの中でただ一人寒風山であるなど、もはやはじめから彼の特異な生態は運命付けられていたに違いない。
さりげにハードな計画を提案し、何気なく実走に及んでから、初めてことの重大さに気付くこと多し。

 彼の山チャリへの参加意義は、己の限界への挑戦でしかないのではないかと思えるほど、ただ黙々と漕ぎ続ける姿は、神々しささえ感じる。
いついかなるときも誇りを失わない彼は、山チャリ界の沖田艦長だ!
マイナーを愛し、いついかなるときも大衆に迎合しないその生き様には、彼の自作曲『マイナーマンのテーマ』がよく似合う。
彼についての特別コーナーを用意した、ご覧頂きたい。

 2001年は、完全復活を宣言していたにもかかわらず、結局行く機会に恵まれなかった。
その後、「2002年こそは」と期待されたが、蓋を開けてみると、一度もサドルに跨らなかったらしい。

 私生活では、未だにケータイを持たず、ネットに接続しない、自称『アナログ人間』である。

 彼について語るのに欠かせないのがぴーしーである。
(このぴーしーは、今は無き8ビットゲームマシン「PC−ENGINE」のことである。)
一時期、「さすがにぴーしーは終わった。」などと発言し、ついにその8ビットの呪縛から解き放たれたかに見えたが、なぜか再びぴーしー化。
2002年の年越しシーンの彼のチョイス(もちろん年越しをゲームで迎えるのは、彼のお約束なのだ。)を見るとそのことが、よく顕われている。
2002年ラストは、次の4作だったという。(この順序で)
SEGA マークV版『アウトラン』、メガドライブ版『アウトラン』、メガドライブ版『アウトランナーズ』、メガドライブ版『アウトラン2019』。 『アウトランターボ』が抜けているのは、彼がこの作品をシリーズと認めていないためだそうだ。
 「ぴーしーじゃないじゃないか!」と思われるかもしれないが、そこが彼なのだ。
SEGA(家庭用ゲーム機史上では終始マイナーに徹した)に年を〆、そして…
2003年の初ゲームが、『ビクトリーラン』であったそうだ。
ご存知ないのも無理は無い、これが、ぴーしー用の最初のレースゲームなのだ。
今でも画面固定型レーシングゲームを愛し、ぴーしーを慕う。
それが、彼について、私が知りえた全てだ。


 最後に少しぐらいは彼の走りについても記しておこう。
たとえば、ジーンズ姿で山チャリに現れることが常だが(…。)、それを訝しがる私に対しおもむろに「今日は一番アチーやつはいてきた。」などと言い放つ。
故意に重いギアで坂を登攀したり、必要以上の速度で巡航したりと、己の肉体を鍛えようとする余りに、後になり体がいう事を効かなってしまい、旅半ばで果ててしまうことがある。
「ヤマトめ。」などの発言がたびたびなされる。

…お分かりだろう。
彼は只者ではないのだ。

 『私が、沖田艦長である』  byホリプロ
2003.1.9改訂


チャリ馬鹿は死んでも治らないかも。
 チャリ馬鹿トリオ。
この名は、当ホームページの前身であった「秋田県林道廃道通行不能道走破委員会」開設当時、ヨッキれんが名付けた物であったと思う。
チャリキチトリオの方がよかったかなー?
いずれ、全盛期の3人は、それほどに山チャリに打ち込んでいたのだ。

 3人で始めて臨んだ山チャリは、93年の太平山登山であった。
3人で走ることは山チャリ以外であればそれまでもいくらでもあっただけに、すんなりと“トリオ結成”となった。
トリオでその後、97年頃までに50回近くの山チャリに臨んだが、その中で幾多の伝説的偉業が成され、秋田の山河に刻み込まれた。

特に象徴的なのが、94年度から97年度まで年一回、それも決まって八月に実行された「キャンプサイクリング」であろう。
キャンプサイクリングは、その名の通り、チャリにキャンプ道具を積み込んでの、泊りがけの山チャリだ。
94年は3泊の県央一周、95年は3泊の県北縦断、96年は4泊に規模を拡大しての県南縦断、97年にも4泊の青森西海岸紀行が行われた。
しかし、惜しまれながらも、ホリプロの就職等の理由により、キャンプサイクリングはこれ以降行われていない。
このように、県内を中心にくまなく走り回ったトリオだが、メンバー揃っての山チャリは98年5月24日に仁別から畑の沢林道というおなじみのコースを走って以来、行われていない。
最大に理由は保土ヶ谷の愛車の故障であり、98年後半にヨッキれんがそれまでの天王町から秋田市に引っ越したことも影響しているかもしれない。

 2002年の今日、3人での山チャリどころか、3人が一堂に会す機会すら年数度の出来事だ。
それぞれの生活の中に、かつての山の記憶がどれ程の意味を持ちうるのか?
あまりに連絡もしない日々が続き不安になったことがあった。
 しかし、…考えるまでもなかった、半年振りに会ったホリプロとヨッキれんに挨拶はなく、「X-BOXくさい。」だった。
そういうことなのだ。
生き死にを共にした記憶は、永遠に、遺伝子にまで刻み込まれたのだとおもう。

 トリオの復活の日は来ないかもしれない。
しかしこの名は消えない。

 今、普段見慣れた太平山の真っ黒な山影の向こう側が、朝日を受けていろづきはじめる。
空気は、鮮烈で冷たく吐き出す息は白い。でも、真昼の猛烈な暑さを予感させる乾いた空気の匂い。
海の近くに住んでいた二人がまず、いつも寝坊する彼でさえ時間通りに現れる特別な朝、待ち合わせる。
 「おっス」
こぎだした道は暗く、すれちがう車もない。
背中の荷物は重く、早くも痛みを感じるが、心地よい引き締まった感触。
4つのゴムタイヤが、前日の熱気をまだかすかに含むアスファルト上を、すべるように走り、2人の耳には、規則正しい音が届く。
朝靄の中、二人は、もう一人のメンバーが待つ隣町を目指すのだった。

 すでにもう一人のメンバーは、準備を整え、その瞬間を待ちわびていた。
必ず、彼の家で、何かしら一本、お気に入りのゲームを動かす。

「いぐが。」

 誰からともなくその言葉が出る。
誰ともなく、つまらないネタを振る。
笑い声が、3つになり、伴って車輪の奏でる音は6つになる。

 まだうす暗い。
しかし、どこまでも深い藍が空一面に広がる。
快晴だ。
長い長い一日の始まり。
最高に贅沢な一日の始まりだ。


 山チャリ最高!
またいきたいぞ!!トリオで山チャリ!!

2002.1.3改訂