山形県主要地方道50号『藤島由良線』は、日本海に沿って国道121号線と国道7号線とをバイパスする路線だ。
僅か8km足らずの路線だが、『庄内夕日街道』の愛称を有し、湯野浜温泉に加茂水族館、由良海岸などの観光地を起終点及び途中に有する観光路線である。その歴史も古い。
そして、丁度その中間点付近にある油戸は、沿線唯一の人里であり、1957年まで同名の石炭鉱山が稼動する地であった。
この集落の前後の海岸線は懸崖であり、そこにはそれぞれ一本ずつの隧道が穿たれている。
現在利用されている物は、二代目であり、付近に廃隧道が残されている。
これを紹介しよう。
2003年2月6日。
海岸線の積雪は少ない、しかし海風は猛烈であり、その気温は零下を下回っている。
この状況での山チャリは、想像を絶する困難を伴う。
しかし、東北の冬の山チャリの舞台など、海沿いや都市部しか残されていないのだ。
主要地方道50号線に入り、うねうねと進路を変える海岸線に沿って走ると、強烈な海風が時には逆風に、時には順風になった。
油戸集落が近付き2門のスノーシェードに入ると、まるで風洞の中を風に逆らって進む苦痛がマックスに達した。
この体感風速は一体どれほどであろうか…、20m??
まっすぐ進めないほどの風というのは、久々だった。
どことなく未来的な内部の構造。
ナトリウムネオンのほかに、天窓から採り込んだ光も路面をより明るく照らしている。
このスノーシェードは、夏でも横風や飛沫から道を守る役目がありそうだ。
竣工は、平成6年である。
連続する2本のスノーシェードの総延長は約1kmほどある。
逆風に耐え、苦しみに塗れたスノーシェードを抜けると、その先には海に向けて突き出した小さな半島が現れた。
切り立った半島の付根には一本のトンネルが見える。
これが、油戸トンネルだ。
1973年竣工の油戸トンネルである。
余り新しいとはいえないトンネルだが、これが現道である。
延長は123mだ。
そして、このトンネルのすぐ左隣の岩盤に、もう一つの穴がある。
これが、その姿だ。
そして、これこそが油戸北隧道…廃隧道だ。
既に取り付け部の道は姿を消し、まるでぽっかりと岩盤に穿たれた穴は、古代人の住居か、はたまた自然洞穴のようだ。
再び現道である油戸トンネルだ。
内部の様子が気になったので、少し立ち入ってみたのだが、写真に注目。
なんじゃこりゃ。
こんな歩道、通れないよ。狭くて。
さ、旧隧道の探索に移ろうか。
坑門の前には、青々とした茂みが出来ていた。
雪に覆われた野外には見られない植物群のようだ。
そして、それ以上に私の目を奪ったのが、この巨大な亀裂である。
はじめ、人工物かと思ったほど、その亀裂は大きく、そして深い。
人の入れる部分の奥行きも5m以上あり、楔状の亀裂は巨大な岩盤を貫いていた。
また、坑門の手前にはお地蔵様とお堂が安置されており、添えられた真新しい供物からは、このお地蔵様の如何に大切にされているかが感じられた。
旧隧道の坑門前からみた、現隧道の坑門の一部と、現道、それに海だ。
寒そうでしょ。
寒いのだ。
しぬほど。
そして、これが内部の様子だ。
いつもそうだが、廃隧道の内部が見通せる位置に立った瞬間の興奮がたまらない。
戦慄が全身を貫き、恐怖におののく、でも。
内部に立ち入らなければ、沸き起こった衝動は治まらないのだ。
この時もそうだった。
出口の見えぬ暗闇に、踏み込む前から心はもう、入り込んでいた。
この日は笹立隧道攻略の直後であり、持参した長靴も、替えの靴下もびしょ濡れだ。
しかし、この隧道の内部も大部分が水没しており、浅いとはいえ、長靴が欲しい。
濡れた長靴に意味があるか分からないが、凍てつく地下水に直接触れるよりかはましだろう。
そう思って、再び濡れた長靴に足を通した。
内部へと立ち入って、20m。
振り返ると、寂しい外界の景色が黒い額に縁取られて見えた。
さらに奥に目を向ける。
水没している部分も多いが、地下水の発生は多くなく、時期によっては乾いているかもしれない。
手堀りのままなのかも知れぬ、大変に荒々しい内壁の様子は、独特である。
隧道断面も、半円形というよりは、四角形に近い。
まっすぐ続く隧道の反対側、本来出口の明かりがあるべき場所にそれは無い。
閉塞しているようだ。
もう少し奥へと進んでみよう。
もう進めなくなった。
目の前には坑門を塞ぐ大量の土砂が立ちふさがったのだ。
振り返ると、約100m離れた入り口が遠い。
塞がれた坑門だ。
これは自然の崩壊ではなく、人工的に埋められたように見える。
外の明かりが隙間から漏れ、相当の重労働に耐えれば、再開通も夢では無いかもしれない。
また、こちら側の坑門付近のみ、僅か5mほどだが、内壁にコンクリの保護が成されている。
あと一歩だが、通り抜けは出来ない。
油戸トンネルをくぐって、油との集落に達した。
この坑門にはゲートが設置されており、特に封鎖される条件は示されていなかったが、冬季閉鎖ではない何かの閉鎖要因があるようだ。
高波か、嵐か、或いは津波だろうか。
トンネルが貫いている小半島は、ご覧の通り荒涼としている。
余りの強風の為か積雪は全くなく、まるで月面のようだ。
荒れ果てた小屋の存在を除いては。
油戸集落はすでに鉱山を失い、漁撈による生計を立てているのだろう。
…いや、それは偏見かもしれないな。
ここは鶴岡市、しかも市街地から10kmと離れてはいない。
ただ、海岸の背後にそそり立つ急峻な山岳に隔てられ、その往来は容易ではないが。
距離的には都市から近い、このような僻地の生活が、これは単純な好奇心によるものなのだが、気になる。
集落の様子。
背後の山々にかつては石炭を産する鉱山があった。
現在では、当時の痕跡は殆ど失われたと聞くが。
この山並みの向こうには、鶴岡の市街地が広がっている。
想像しがたい。
さて、本題の戻ろう。
さきほど、引き返しを余儀なくされた旧隧道の、油戸側坑門を探索しよう。
それは、すぐに発見された。
現道の坑門とは、30mくらいしか離れておらず、やはり隣り合った位置にある。
すっかり埋没してしまった坑門。
簡単なつくりだが、コンクリートの坑門が設置されている。
そして、あそこに見える、小さな白い物は…?
おお、これは扁額だ。
小さいぞ、猛烈に。
これじゃ、民家の表札だ。
「油戸隧道」…、この名称は正式な名なのだろうか?
おなじみ、『山形の廃道』サイト提供の「隧道リスト」によれば、これこそ「油戸北隧道」とされるものだ。
対になるように存在した「油戸南隧道」は、北隧道の翌年の竣工であり、北隧道竣工時には、油戸隧道に南も北も無かったのだろうか。
ちなみに、この油戸北隧道の竣工は、昭和16年だ。
隙間から内部を覗き込むと、遥か彼方に青っぽく小さな坑門が見えた。
なんとも、寂しい景色だ。
油戸北隧道
竣工年度 1941年 廃止年度 1973年
延長 119m 幅員 3.0m 高さ 4.0m
油戸集落側の坑門は人為的に埋められており、通り抜けは出来ない。
現在は微かに光を通すのみである。
竣工年度 1941年 廃止年度 1973年
延長 119m 幅員 3.0m 高さ 4.0m
油戸集落側の坑門は人為的に埋められており、通り抜けは出来ない。
現在は微かに光を通すのみである。
油戸北隧道の探索はこれにて終了。
次は、南隧道だ。
じつは、この隧道、これまでのレポートで使用した写真にも写っている。
現道のほうだが。
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