私は、坑口部の僅かな緑の上に荷物を置くと、既に閉塞と伝えられている隧道への進入を開始した。
坑口部にだけ、小さな氷筍が無数にあるが、天井につららはない。
坑門に根を下ろした木の姿。
氷点下の気温に、煉瓦までが白く凍り付いているかのようだ。
単線用の隧道であったわけだが、その内部空間は想像以上に広い。
普段、林鉄用の狭い隧道に慣れているせいか、単線の鉄道隧道といえ、決して狭くは感じない。
むしろその広さ故に、奥へ進むにつれ私の貧弱な明かりでは全体を照らしだせず、不安感さえ感じた。
慣れというのは、凄いものだ。
閉所への恐怖を克服した代わりに、周りを把握しにくい大断面隧道の方が怖いだなんて…。
本隧道では、他の廃止隧道にありがちな、コンクリート補強の痕跡が、坑口部を除いては無い。
内部は、竣工当時のままと思われる完全な煉瓦組みである。
それがまた、異様な雰囲気を醸し出しているのだ。
30mほど進んだところで、吹雪の依然止まぬ外界を振り返る。
白と黒だけしかない景色。
まるでその景色が意識を持っているかのように、私に強烈な印象を送り込んでくる。
隧道は、私に何を伝えようとしているのか。
その声なき声を聞かんと、精神の帯域をすべて開放する。
それは、
私にとって、至福の瞬間だ。
地底の温度は外界に比べ通年の変化が少なく、それが崩落が坑口部に集中する理由の一つなのだが、この隧道においても同様である。
竣工から112年目の冬。
隧道は、今も次の列車を待つかのように、静寂と均整を保っている。
だが、すでに出口はない。
隧道は、緩やかに左へカーブしており、坑口から推定100mほどで、振り返っても入り口は直接見えなくなる。
より深い闇の奥、なおも空洞は続いているが、その暗冥の底に人間の気配を、ふと感じた。
ぎょっとして、ライトで照らし出した先には…。
白いお釜が一つ、主の帰りを待っている。
その傍には、無数の瓶が転がっている。
サイダーや、酒など、今は見ることがない年代物の瓶たちだ。
背筋に、嫌な物を感じた。
人が、いたのか。 こんな闇の奥に…。
他にも、明らかに生活痕と思われる遺構が点在していた。
入り口からは決して見えない暗闇に入った途端に、突然現れた、異様な生活臭。
私が、少ない明かりで発見した物は、隧道中央に置かれたこの釜。
この前後に相当数散乱している瓶。
水滴の滴る真下に置かれてた、水瓶のような大きな金属のバケツ(或いは別の物だったかも…?)
一面の土の洞床の上に、微かに残る数本の炭化した木…薪?
一体いつ頃まで、どんな人物が、この暗闇に息づいていたのだろうか。
足跡一つ残っていないが、
いまこのときも、
どこかで、私を見つめているのではないか…?
そんな恐怖を私は最後まで感じた。
入洞から200mを越えたと思われる辺りで、ついに終焉が訪れた。
外から持ち込まれたであろう土砂が、隧道中央に山積みされ、そのまま進むにつて、その丈は大きくなり空間を圧迫している。
それでも、人が入れる空洞のある内は進んだが、30mほどでいよいよ、閉塞という結末を迎えた。
これが、初代:大釈迦隧道の閉塞点の姿だ。
往時の全長は274mだったというが、この先にあったはずの大釈迦駅側の坑口は、廃止後の再開発によって地形が改変され消滅したらしい。
いまでは、坑口部を特定することすら困難だと言うが、この内部の様子では事実のようだ。
立ち上がることも出来ない狭い空洞に身を滑り込ませ最奥の写真を撮影中、アクシデントが発生した。
なんと、カメラが立ち上がらなくなったのだ。
私の愛機「FinePixF401」のバッテリーは、専用のリチウムイオン充電池で、換えが故障中のため、これ一つしかない。
もともと、低温下ではバッテリーの機能が低下することは知られており、フル充電の状態でも、最初から「電池残量半分」という表示だった。
ずっと、不安は感じていたのだが、氷点下の撮影でついに、電池が切れたのだ。
諦めきれず、難度も電源を入り切りしたり、電池を取り出して手で暖めたりしたが、効果はない。
終わった。
撮影、不能!
が、まだ私には最後の手段があった。
あの森吉での水没により死んだ携帯電話だったが、その後一時は復旧したかに見えた。
しかし、バッテリーが死んでおり、一日中充電しても半日も利用できない状態だった。
流石にこれでは我慢が出来ず、新しくカメラ付きの携帯を買ったのである。
そしていま、その130万画素単焦点CMOSカメラが、初めて役に立つ。
やった!
と、喜んだのもつかの間、
「フラッシュねーばなんもうつらねーじゃ!」
内部撮影は断念せざるを得なかったが、このカメラ付きケータイのおかげで、何とか野外での活動は続行できる。
坑口まで戻ると、吹雪は止んでいた。
コントラストの低い低性能のせいで、むしろ味のある写真が撮れたと思うが、どうか?
偶然だが。
最後に、おまけとして、坑門から50mほど進んだ所に残る、保線小屋の姿をお伝えしよう。
本来はここまで雪の中を歩いてくる計画ではなかったのだが、降りてきた急斜面は、とても登って戻れないと判断したのだ(涙)
左に見えてきたのが、保線小屋らしい。
そういえば、同じ物を矢立峠のサミットでも見た。
小屋は、残念ながら既に半ば倒壊していた。
私は、この小屋の裏手の斜面を登り、国道へ脱出した。
かんじき姿の私にへ向けられるドライバー達の視線が、なんか冷たい気がしたが気のせいだろう。
こうして、奥羽本線最古の隧道の探索は無事終了した。
だが、このすぐそばには、さらに巨大な廃線、いや、休止線の隧道が眠っていた。
それは、大釈迦トンネル。
初代大釈迦隧道の代わりに利用された、いわば2代目の隧道である。
洞内撮影のすべを失った私は、この遺構へ向かうべきかどうか、真剣に悩むのだった…。
完 ?