幅50cm程度の狭い隧道は、幾度かのカーブの先で、出口に繋がっていた。
延長は、せいぜい50m程度だろうか。
大規模とはいえないが、260年も前に人力だけで掘り進めたのだから、残っていただけでも大したものであろう。
出口付近は、澄んだ浅く水が溜まっており、かつて水路として掘られたムードを伝えてくれる。
長靴でバシャバシャと出口目指して突き進む。
脱出してみると、そこは入り口から単純に河岸を50mほど上流に遡っただけの場所であった。
写真奥に見える橋は、言うまでもなく名川橋である。
おおよそあそこの橋から、この地点までの、水路隧道であった。
足下の地面は乾いた岩肌で、水流が多少増えれば河床となるに違いない。
そのときには、かなり勢いよく隧道も通水するのではないだろうか?
となれば、水路としてもちゃんと取水できているようにも見えるが、常時取水できねば、潅漑水路としては失敗だったのだろうか。
いずれにしても歴史上での「へぐりのまんぼ」は、失敗作とされている。
今潜ってきた隧道の様子。
水路隧道ではあるが、人が通るのに支障がない規模を有していた。
ひとえに地質に恵まれているのだろう。
さて、さらに上流へと河原を進むことにしよう。
ほんの20mほど進むと現れるのが、この第二洞である。
なお、この名称は、便宜上私が付けたものである。
それにしても、器用に河岸の崖を削って水路を拵えてある。
川に沿って水路を作るにしても、全体を隧道にするのではなく、どうしようもない場所だけ隧道として、それ以外は直接に河原を掘って水路としていたようである。
しかし、この方法だと、川が氾濫したような場合でも、一定以上の水量にはならずに済んだのかもしれない。
第二洞は、第一洞にまして短く、ご覧の長さしかない。
やはりここも増水時には通水しているようである。
壁も、洞床も、すべてが均一な岩肌である。
まさに、掘りっぱなし。
江戸時代の息づかい、あなたには聞こえるだろうか?
…ちょっと、それは難しい注文かな。
私自身も、昭和初期に農民が協力して掘ったなどと言われれば、ああそうですか、と信じてしまうだろうほどに、別段に古いものとも思われない、格別の残存状況なのである。
まあ、江戸時代江戸時代と強調してみても、せいぜい昭和初期とは200年足らずの差なのだが…。
うーーん、200年。
やっぱ、今までの山チャリの尺度から考えると、断然大きな差だよな。
そして、いったん外に出たと思えば即座に、この第三洞が現れる。
短い地上部分もまた、まるで片洞門のような激しい崖の迫り出しを受けている。
その側面をよく見ると、元来の喫水線であったと思われる部分が、より窪んでいる。
そこより下部の部分は、水路として人工的に掘られた場所なのだと想像できる。
この日の喫水線より、だいたい30cmほど高い位置に、かつてのそれはあったようだ。
このわずかな差が、水路が失敗に終わった原因なのか、それとも、別の原因があったのか?
川が川底の浸食によって喫水線を下げるのは通常の現象だが、たかだか200年でどれほどの差が生じるのだろう?
ちょっと、専門家のお話も伺いたいものだ。
もっとも、現在の水位というのは、季節・天候などの条件のみならず、上流のダムの影響も受けており、必ずしも200年前とは比較できないが。
率直に言うと、私はどうも、この水路が失敗した原因というのが、水位の低下であるといわれていることに、何か疑問を感じているのである。
そんな理由で、果たしてこれだけ労作の水路を諦めて、放棄するだろうか?
第二洞を振り返って撮影。
水路の川側の壁は、浸食によってだいぶ失われてしまったようだ。
この道なんて、親水遊歩道として整備したら面白そうだが、まあ好んで歩く人もいないかもしれないし、整備してしまえば面白みもないか。
でも、なかなかに普段はみられない景観である。
いざ進んだ第三洞は、さらに短いものであり、わずか3mほどで、落盤により半閉塞となっている。
そこは、牛ほどもある大きな岩塊が、頭上から落ち込んで水路を埋めている。
もともとは、坑口上に張り出していた岩塊だったのだろう。
私は、細身を利用して、この隙間をはい出して先へ進んだ。
なお、ここを通れない場合でも、河原をへつって進むこともできるので心配はいらない。
ただ、水面下は急激に深くなっており、注意が必要ではある。
その先には、隧道の形を持つ場所はないが、かなり地被りが大きかった痕跡はある。
写真の場所なども、明らかに転げ落ちたと分かる岩塊が、河床に沈んでおり、元々は第四洞であった可能性もある。
そうして、この地点を境に、急激に水路の痕跡は失われていく。
喫水線に近づいたことにより、より長期間の浸食に揉まれたせいだろう。
名川橋からは大体200mほど進んでおり、本郷集落も間近だ。
川面の向こうには、古い佇まいの本郷橋が現れる。
そして、河岸の様子が変化する。
それまでの岩肌がなりを潜め、藪となる。
その一角には、写真のように奇妙に丸石が敷かれているような場所があったが、よく見ると崖側に小さな水流があり、長年かけてこの水流が運んできた堆積物なのかもしれない。
いずれにしても、この上流には樋でも使わぬ限り、水路を河床と分離させる手だてはなく、おそらくこの辺で「へぐりのまんぼ」と呼ばれるに至った古水路は、取水していたのだろう。
弘法大師の言い伝えが残る「弘法穴」も、この傍のはずだが、私は見つけられなかった。
今も小さなほこらが残っているそうだが、信心深くない人には見つけられない?!
河原はいよいよ藪となった。
すぐ先に本郷集落の民家が見えてきたので、ここで引き返した。
今歩いてきた水際の水路跡を戻る。
途中、奔流ぎりぎりを歩く場所もあり、この日の水量だとかろうじて濡れずに済んだが、多少でも増水すれば危険な探索になりかねなかった。
渇水期の探索をおすすめしたい。
そうして、第一洞の上流側まで戻ってきた。
さきほども、ほとんど同じアングルで写真を撮っているが…。
ところで、
穴が見えないか?
上の方にも…穴が。
穴、ハケーン。
そして、実はこの穴こそが、へぐりのまんぼ最大にして最強の謎なのである。
名付けて、二階層洞穴。
そして、
戦後初めて ?
上部洞穴に進入に進入した私が遭遇する、戦慄の結末。
執筆中にHDD全消去を食らった いわくつき (涙)のレポート…
いよいよ次回完結!!!
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