差出人は、細田様という26歳の男性。
森吉町は米内沢のご出身という彼からのメールは、私に驚きを与えた。
(前略)
私の生まれ育った森吉町米内沢地区より、本城地区に向かい、更に合川町へ抜ける峠道の頂上付近の右側ににささやかな廃道と廃隧道があり、
私が最後に訪れたのは18歳の時でしたので、現在ではどのような状態にあるのかはわかりかねますが、当時、やっと廃道廃隧道廃橋廃線趣味を自覚したばかりの若気の私には、抗門の雰囲気といい、金網越しに覗いた随道内部の崩壊具合といい、随道内よりそよいでくる不思議な風と伴に強烈な印象として残りました。
できましたら、今後の調査予定リストに加えて頂ければさいわいです。(後略)
じつはここ、今年の8月に一度探索していた場所である。
古い地図に描かれていた短い隧道が一本、最近の版では消滅しており、廃隧道の存在が疑われていた。
だがしかし、恥ずかしいことに、未発見のまま通り過ぎていたのである。
8年ほど前の時点で既に廃隧道が存在していたという証言には、自身の至らなさを自覚させられると同時に、再度探索したいという強烈な欲求を私に喚起せしめた。
そして、その後数度のメールのやり取りによって隧道の位置をほぼ特定できた11月5日。
羽根山の森林軌道跡の探索に乗じ、本隧道の探索を決行したのである。
そこに待ち受けていたモノは、戦慄だった!
今回私は、前回の探索や、細田様から寄せられた情報とは逆に、合川町側から森吉町へと向かうコースを取った。
本路線は、合川町三里地区の主要地方道24号線から東に分岐し、森吉町との間にあって小阿仁川と大阿仁川(阿仁川)の分水嶺である低い山地を越え、森吉町本城地区を経由し、同町の中心地である米内沢にて国道285号線に合流する、約7kmほどの2車線舗装路町道である。
隧道が眠るとされる峠はその全長の中央付近で、どちらから上っても100mほどのアップとなる。
時刻は15時を回っており、既に秋の日差しは夕日の色に染まっている。
この旅の最後のターゲットになりそうである。
三里にて本路線に入ると、始めのうちは田んぼの中を進むが、すぐに緩やかな上りとなり、そのまま山間に入る。
すぐに稜線が見えてくるが、峠までの上りは直線的であり、意外にアツい。
一日走った後で、だいぶ私の足がヘタっているというのもあるのだろうが…。
通行量は比較的多く、また、ジョギングらしい人影もあった。
特に変わったことも無く、峠も間近に迫った。
日が弱くなっており薄暗い写真で申し訳ないが、正面の鞍部を切り通しで越えている。
手前の左側は広大な採石場になっていて、この日は人影は無かったが、8月に来た時にはブルがけたたましいエンジン音を響かせていた。
じつは、この採石場によってかなり峠前の地形は変容しているようで、そのせいで、旧道・旧隧道へノアプローチを発見できなかったのである。
てっきり、古い隧道を切り通し化したのが、現在の道だと思ったのだ。
これが、その切り通しの峠である。
旧隧道は、ここの左側の山林の中にあるのだが、ちょっと、そんな物があるようには見えない。
夏場ならなおさら、ここに踏み込んで探索しようとは思わなかった。
…っていうか、何で今更言い訳をしている、自分。
よほど悔しかったらしい、自分。
ただ、今回といえども、完全にアプローチを把握している訳ではなく、ある程度当たりを付けてきたというだけの事だ。
とりあえずは、道も無いようだし、適当に入山してみよう。
採石場が切り崩した山肌の縁に沿って上ってみる。
ここは慎重に進まないと、滑落する危険がある。
こんな場所で落ちて怪我をしたりしたら、小学生じゃあるまいし、恥ずかしすぎる。
左側の視界はよく開けている。
さっきまで上ってきた道や、広大な事業地が一望できる。
一方で、隧道が眠っているとされる向かって右側は、物凄い薮であり、一向に旧道らしき痕跡は現れない。
しかし、これ以上登っていっても稜線の天辺にも達する勢いなので、この辺で覚悟を決めて、薮入りすることにしよう。
あー、やっぱりこの季節じゃなきゃ、かなりまずかったなー。
少し彷徨うものの、すぐに平坦な部分を発見。
しかし、ここが果たして道の跡なのかは甚だ疑問である。
舗装されていた痕跡はおろか、砂利が敷かれていたようにも思えない。
道があったようには、見えないのだ。
だが、もうここまでくれば、隧道は目と鼻の先なのである。
当てずっぽうに進んでも、いつかは見つけられると思う。
ああっ!!
あれは、もしや!!
その通り。
発見の瞬間である。
まだ見ぬ隧道が今また一つ、私の眼前に、姿を現そうとしていた。
その、おぞましい姿を…。
隧道と呼ぶにはなんとなく違和感がある、近代的な坑門である。
しかし、その様子とは裏腹に、坑門前の、かつて道があったはずの場所は、既に全くの自然に還っている。
本当にこの道が供用されていたのかと、疑わしく思えるほどに、こちら側の坑門に続く旧道は、まるっきり痕跡が無い。
本城側から伸びてきた道が、隧道を掘ったところで工事を中断されたという事実は無いのだろうか?
本隧道には扁額や、それに類するような物が一切見当たらない。
ゆえに、竣工年度はおろか、名称すら不明である。本城隧道という名も、私が便宜的に名付けたに過ぎない。
これも、本当に供用されていたのかと疑わしく思える原因の一つである。
さきほど、これを“おぞましい”と形容したが、それほどでもないんじゃないの?という向きもおられるだろう。
…確かに。
坑門は、小奇麗なくらいなのであるが、その内部はというと…。