三島通庸が明治15〜17年に建設した会津三方道路の一部として誕生した、初代の本尊岩隧道。
明治10年代の隧道であり、津川の街に最初に車輌交通を導いた大変貴重なものだが、平成18(2006)年の探索時に私がこれについて言及した分量は、右の通り、今読むと驚くほど少なく簡素だった。
え?! そんなんじゃ全国60万人の三島通庸ファンも、300万人とも600万人とも言われる明治隧道ファンも納得しないだろうに、16年も昔のヨッキれんは、中に入れない隧道にはとても淡泊だったらしいな。
若さのせいで、今よりも贅沢だったヨッキれん。もっと深掘りして文字数を稼げ。こんな良ネタ、そんなにポロポロは落ちてねーんだぞ。
というわけで、2022年現在のねっとり目線で、初代・本尊岩隧道を深掘りしたいと思います。
ちなみに追加の現地調査は一切していないよ。何枚か以前のレポートで使わなかった現地写真も使うけど、ほとんどは平成18年の探索時のもので、一部平成26年の再探索時の写真があるくらい。
第1章 初代隧道の東口探索の補足レポート
まずは右図を見て欲しい。
以前のレポートだとイマイチ分かりづらかったと思うが、初代隧道の東口と、その両隣にある2代目・本尊岩隧道と、鉄道隧道(清川第一隧道)の位置関係は、概ね右図のようになっていた。
もっとも、初代隧道には探索当時既に立ち入ることが出来ない状態だったから、その洞内の方向や西口の位置については、机上調査の成果による。
その机上調査の全般が、この追記のメインである。
改めて、探索当時見ることが出来た唯一の初代隧道の痕跡であった東口の周辺状況について、補足の説明しよう。
探索当時、右図の黒い破線の位置に工事用仮設通路や道形を確認しており、隧道を迂回して川べりが通り抜けられるようになっていた。
初代隧道の東口前にも、藪は濃かったが道形が存在しており、これは初代隧道に通じた道の跡だと考えられたが、芦田橋に対応する先代の橋はなく、鉄道と国道に挟まれたごく短い道形だった。
初代隧道東口の位置は、左写真の赤○の辺りにあるが、草の茂っている時期だと全く見えない。
そこへ近づくためには、右の線路脇の草むらを藪漕ぎで行くか、目の前にある工事用道路橋で行くかだったが、私は橋で行った。そちらが遙かに楽だから。
チェンジ後の画像は、工事用道路橋の上から撮影した写真だが、ここまで近づいても全く初代隧道は見えないし、点線の位置に道形があることも分からないと思う。
この部分を歩いて、初代隧道へ近づくことが出来た。
もう目と鼻の先まで近づいた状態だが、東口の存在はまだ見えない。
ちょうど落石防止ネットが掛っている所にある。
このネットは平成になってから施工されたものだが、その段階で東口に大きく手が加わったことが確認できている(後述)。
右奥に見える大きなコンクリートの構造物は、JRのロックシェッドだ。
つまり、鉄道隧道と初代隧道は、非常に近い位置に隣接していた。
お馴染み、東口の現状。
この写真ばかり何度も使い回しているが、藪が深いのと、川の位置的に正面に離れては撮れないし、近づくと閉塞のコンクリート壁しか写らないしで、なんとも萎えた覚えがある。
現存している奥行きは1m弱で、かつ断面の下半分が土で埋め戻されているので、素掘りのアーチ部分だけが残っていた。
周囲の岩質は堅牢そうだったが、小さな空洞でさえ危機的な本尊岩の安定性に与えるマイナスの影響は無視できないと考えられたのか、廃止されて何十年も経過した平成になってから、ここまで徹底的に埋設されてしまった。
まあ、隧道があったことが分かる程度には残されているだけで、喜ぶべきなのかも知れないが…。
落胆しつつ東口前の平場を鉄道側に進むと、わずか数メートルでロックシェッドの側面に行き当たる。
チェンジ後の画像はロックシェッドの中を覗いたもので、直ちに石造りの重厚かつ指標的デザインの鉄道用トンネルが口を開けていた。
大正2(1913)年に信越線の支線(新津〜津川)として開業した清川第一隧道で、大正3年に岩越線として全通、大正6年に磐越西線に改名されて現在に至る。
2022年現在、本尊岩を貫いている唯一の現役交通路である。
(←)
線路脇で振り返ると、古い道形らしき平場(点線)と、本尊岩の岩盤に対して斜めに入射していく初代隧道の東口が見えた。
古い道形は初代隧道で終わりではなく、そのまま2代目隧道の坑口を横断して、工事用仮設通路のように使われていた【川べりの細道】の原形へと繋がっていると考えられたが、よく知られている三島通庸の事績以前に、本尊岩を川伝いに突破する古道が存在したとでもいうのだろうか。
この疑問は現地探索時の宿題となったが、これまで私はその回答を用意してこなかった…。
一方、線路に突き当たった道の行先も謎の一つだった。
国道は芦田橋で、鉄道も小さな橋で脚下の小渓流を渡っており、両者に挟まれた位置にある初代隧道に通じる道が、どうやってこの小渓流をパスしていたかという問題だ。
2代目隧道や芦田橋は昭和39年の竣工だから、古いとはいえ大昔ではない。
国道49号の前身である二級国道115号新潟平線が指定された昭和28(1953)年当時は、未だに明治以来の初代隧道が利用されていたはずである。
おそらく先代の芦田橋が写真の中央辺りにあったのだろうが、線路脇は深い草藪になっていて、現存する橋がないことは確かであるが、橋台などの一切の遺構がないかまでは未確認だった。
以上が、これまでの現地探索で得られた、初代隧道に関する成果のほぼ全てだ。
洞内は不明であり、西口についても現存していないことは確かだったが、詳細な跡地の位置は分からずじまいだった。
ここまでを復習&補足したところで、今回の主題である、新たな机上調査に基づいた情報を紹介していきたい。
第2章 航空写真によって初代隧道の西口位置を特定
@ 昭和31(1956)年
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A 昭和55(1980)年
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B 平成26(2014)年
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昭和31(1956)年に撮影された航空写真を見ると、当時まだ二級国道115号新潟平線と呼ばれていた道が、本尊岩をどのように越えていたのかということが、はっきり写っていた。まだ初代隧道の時代である。
東口の前にはカーブがあり、線路のすぐ隣に短い橋を架けていたようだ。
一方の西口も阿賀野川に面したキツイカーブになっていて、飛び出せば直ちにドボンの立地に見える。
隧道全体は短く、30〜40mといったところだろう。
この素掘りの隧道は、大正9(1920)年から県道新潟福島線であったが、昭和28(1953)年に二級国道115号に昇格していた。そして昭和37年に一級国道49号へ昇格する。この頃にはいよいよ2代目隧道の工事が始まっていただろう(昭和39年開通)。
昭和55(1980)年版になると既に2代目隧道(40m)があり、初代ルートの大部分が踏襲されているが、隧道前後のルートは変わり、廃道となった部分の初代ルートは見分けが付かなくなっている。
この段階で、初代隧道は2代目隧道によって地中で分断されたようで、通り抜けは出来なくなった。
平成26(2014)年版だと、国道の改修が最終段階の姿となり、2代目隧道は事実上はロックシェッドである部分と一体化(71.5m)し、さらにロックシェッド(82.5m)が接続し、合わせて154mの一体化した構造物になっている。
現状、初代隧道の西口は確認できなくなっている。2代目隧道の完成と、その改修という2段階の変化によって、完全に痕跡を失ったとみられる。
現役当時の2代目隧道内の状況に照らすと、右図のチェンジ後の画像に示したような位置関係で、初代隧道とは大きな角度を持って交差していた可能性が高いことが分かった。
探索当時は大雑把に「洞内で衝突」と考えていたが、今回は慎重に航空写真等の照合を行って、この位置であると考えるに至った。
したがって、今でもこの画像中の水色に着色した部分に立てば、初代隧道として生を享けた地下空間に立っている……といえなくもないかもしれない?
そして、これも今回の精査による新発見だったが、2代目隧道の川側の側壁には2つ並んだ小さな横穴がある。
この横穴、探索当時は正体不明だった。
(←)なにせ、奥行きが全く無いので、取るに足らないと考えて写真も残してなかったが、冷静に考えると、道路構造物に全く無意味なものが存在する可能性は低い。
そこで考え至った。
実は2代目隧道が開通した当時は、ここに明り窓のような穴があって、川岸に出られたのではないか。
たぶんこの部分には土被りがなく、側壁にもコンクリート分の厚みしかなかったのではないか。
そしてさらに、明り窓があった位置は、初代隧道の西口の位置に重なっていたのではないか。
明り窓の存在まではほぼ確実だと思うが、初代隧道の西口位置については、当時の工事図面でも発見されない限り、証明は難しいかと思う。
でも位置的には、決して可能性の小さい説ではないと思う。
右の画像は、平成26(2014)年の探索時に撮影した、初代隧道西口擬定地付近である。
……逆光がキツすぎて分かりづらいと思うが、この左に見えているコンクリートの壁は、2代目隧道の西口に繋がる平成時代に入ってから作られたロックシェッドの外壁だ。
チェンジ後の画像は、そこからさらに本尊岩に近づいた部分で、黒い壁が立ち塞がっているが、ここが2代目隧道の改修後の西口、ロックシェッドとの継ぎ目の部分だ。
こうしてコンクリートの巻き厚を増やすことで、本尊岩の崩壊に対する防御力を高めている。
このように巻き厚が拡大されたことで、初期にあった明り窓が埋め戻されたのだろう。
位置的にも合致する。
したがって私の推測が全て正しければ、この奥に初代隧道の西口の位置があったことになる。
遺構がないものに考察の意味はないと考える人もいるかも知れないが、ずっと謎だった西口跡地に関しての最新の検討結果がこれである。
上の画像は、この場所の路上に飾られていた空撮の写真パネルから2代目隧道の付近を拡大したものだ。
(画像中の「現在地」は、ひとつ前の写真の撮影地)
開通当初は右端部分の40mだけだった2代目隧道だが、平成に入ってから大々的に改修されて姿を変えている。
初代隧道西口跡地と推定される部分(=かつて明り窓があった場所?)も、最終的にはぶ厚い側壁に覆われていることが分かるだろう。
『観光カラーガイドシリーズ4 上信越・佐渡』より
2代目本尊岩隧道の初期の姿へ意識が向いたところで、その姿を見たことがないと思った。昭和の時代にここを通ったことがあれば、自然と目にしていたはずだが、記憶にない。
右の写真は、昭和42(1967)年刊行の『観光カラーガイドシリーズ4 上信越・佐渡』(山田書院)に掲載されていたものだ。
撮影場所の明記はないが、「阿賀野川ライン」を紹介したページにあり、キャプションには「阿賀野川の清流に沿って完備された眺望豊かなドライブウェー」とある。
歴代の航空写真や、他の候補地との風景比較などから検証したところ、おそらく開通3年目の2代目本尊岩隧道の西口を洞内から撮影した写真である。
残念ながら例の横穴は写っていないが、もう3m下がれば左側に明り窓のような横穴が2つ並んで見えたはずだ。
なお、チェンジ後の画像は、おおよそ同一地点で平成26年に撮影したもの。
奥のカーブの形くらいしか共通点を見いだせないと思うが、この国道と隧道は、それほど大きな変化を遂げている。
ところで、こういう古いドライブガイド本にわざわざ項目があるほど、当時新装なったばかりの阿賀野川ラインは、メジャーなドライブコースだったようだ。
本文を少し引用してみよう。
阿賀野川が会津から国境を抜けて越後平野に出るまでのラインのすばらしさは、日本のスイスにもたとえられている。両岸から断崖が鋭く迫る底を阿賀野川の急流が岩をかんで走り、夏の新緑(深緑の間違い?)と秋の紅葉のころは特にすばらしく、ドライブ・舟遊び・ハイキング・家族づれの行楽で賑わいをみせる。近年揚川ダムの完成により、津川町から白崎まで人造湖となり、また違った美しさをみせている。
『観光カラーガイドシリーズ4 上信越・佐渡』より
最近の人は、ラインってLINEのこと? って思うかも知れないが(この発想が既にジジイを通り越してミイラ)、これはヨーロッパを流れるライン川(Rhein[独])をモチーフにした景色のことで、一昔前までは日本中の風光明媚な山間部にある大河風景が、こぞって「●●ライン」を称した。木曽川ライン下り、天竜ライン下り、最上ライン下りなどなど今でも名前が残っている。で、この阿賀野川の山峡部を「阿賀野川ライン」と呼んだのである。最近あまり聞かないかも知れないが、阿賀野川ライン県立自然公園にもなっている。そして本物のライン川の源流はスイスアルプスだから、「日本のスイス」にたとえられてい……た? と、これは初耳だが、ともかくそういう風光明媚なところの核心部が、本尊岩の景観だったわけだ。
以上が、初代隧道と2代目隧道の位置関係に関する、最新の考察である。
次の章では、さらに時代を遡り、初代隧道の在りし日の姿を見てみたい。全国120万分の三島通庸ファンと、1000万人の明治隧道ファンは、要注目だ!
第3章 初代隧道の古写真や記録を漁る
『阿賀の里 図説東蒲原郡史 下巻』より(作者改変)
本尊岩隧道は、三島通庸が福島県令だった時期に手がけた会津三方道路の一構造物として誕生した。
会津三方道路とは、会津地方の中心である会津若松を基点として、周囲の山形・新潟・栃木の各県へ通じる馬車の通る新道の総称で、総延長は200kmを遙かに超え、三島通庸が山形・福島・栃木の県令を歴任した中で最大規模を誇った新道工事だった。
県令は、周囲を山に囲まれていて交通の便が悪い会津地方を経済的に発展させるためには、何よりも周辺の都市と結ぶ道路整備が必須と考え、この計画を進めた。
これほどの距離を有する大工事でありながら、明治15(1882)年の着工から、わずか3年のうちに完成させているのは驚異的な速成だが、工費獲得と労働力確保の両面において、会津地方に住まう15才以上60歳以下の男女全員(おおよそ12万人)に対して工事現場への強制出役ないしは代夫賃の納入を強制するという、県令の強権を発動させて実現させた。こういうことは三島県令においては本工事のみのことではなかったが、その規模の大きいことから激しい反対運動を惹起し、福島事件などを引き起こすことにもなった。
賛否両論の激しい渦の中で完成した道路は、近代以前からの主要街道を大幅に近代化することとなり、今日における国道121号や国道49号の原形となった。
右図の太い実線が会津三方道路で、本尊岩隧道は若松と新潟を結ぶ路線(越後新道)に属した。
越後新道は全体を4工区に分けての同時進行で工事が行われ、隧道は津川町に工営所を設置した第一工営に属した。常浪川橋から小石取村の(この当時の)新潟県境まで、おおよそ25kmの工区だった。
路線は、津川町の中心部で阿賀野川を麒麟(きりん)橋で渡った後、県境まで同川の峡谷右岸に沿って建設され、地形的に難工事であったことは想像に難くないものの、工事の個別具体的な内容については記録が見当らず、本尊岩隧道がどのような工事であったかも不明である。
なお、三方道路の建設以前の越後街道は、津川から西では阿賀野川沿いでなく、北西の諏訪峠を越えて新発田城下へ抜けるという、新潟へ向かうには大きな迂回ルートを採っていた(右図の破線の位置)。
この部分の阿賀野川沿いに新道を切り開き、新潟へ直通する現在の国道のルートの原形を作ったこと、そして津川地方に車両交通を導いたことは、三方道路の大きな事績といわれている。
さて、三島通庸の新道風景を知る手掛かりとして、しばしば登場する“あの神絵師”をご存知の方は多かろう。
我が国における西洋画の黎明を司った一人、“鮭の人”こと、高橋由一その人だ。
彼は三島県令の委嘱を受けて、明治17年の大写生旅行で山形・福島・栃木の三島新道のほぼ全てを歩き回り、要所をスケッチした。このうち石版画として清書した128点を、明治18年に『三県道路完成記念帖』(全三巻本)として刊行している。
当サイトでも度々彼のお世話になってきたが、もちろん彼は本尊岩隧道も描いているぞ。しかも2枚!
ご覧いただこう! 開通当初の姿を!!
「福島県東蒲原郡字本尊岩隧道東口の図」
『東北の道路今昔』より
これが、石版画として清書された、明治17年当時の本尊岩隧道の東口の姿だ。
彼は大写生旅行中の明治17年8月16日から27日の間に越後新道の各地をスケッチしており、オブローダー的視点からだと藪の濃い時期だったはずだが、開通直後の新しい土工が道路周囲の藪を上手く退けているようだ。
描かれている隧道は素掘りで、内部は真っ暗、反対側は見えない。現在もわずかに痕跡が残っている東口が、当初から素掘りであったと分かる1枚だ。
入口に一人の人物が描かれていてサイズ感も分かる。馬車が通る新道を目指していたが、多頭立ての大型馬車などは決して通れそうにない素朴なサイズの隧道だ。馬引きの荷車が通れるくらいだろう。
ところで、隧道に通じている道路の描かれ方に注目して欲しい。
坑口前に分岐があり、隧道へ入らず左奥に向かう道の姿がはっきり描かれている。そしてその先には、見切れているが、木橋の欄干のようなものが!
おいおいそこは阿賀野川か? 阿賀野川を渡る巨大な木橋があったのか?!
チェンジ後の画像は、やや無理矢理だが、現状写真で近いアングルのものを表示した。
確かに現在も坑口を素通りして川の方へ向かう平場が残っているが、これが明治17年当時から存在していたことが分かる。
“謎の木製欄干”の全体像は、由一が描いたもう1枚の本尊岩隧道の絵で明らかになる。
「福島県東蒲原郡字本尊岩隧道を赤川水上より望む図」
『東北の道路今昔』より
この図は「赤川」こと阿賀野川の水上の舟から撮影されたもので、由一が描いた128点で唯一、舟から見た景色である。
道路がある風景全体の魅力を伝えるためにベストなアングルを求めて、わざわざ舟を利用しているところに、道路趣味者としての敬意を禁じ得ない。
チェンジ後の画像は、そこまでは頑張れなかった私が比較的近いアングルの写真を重ねたものだ。
由一の絵を見ると、本尊岩隧道の東口が中央右下に小さく描かれており、そのすぐ左に高い高欄を持つ木橋がある。
先ほどの絵に描かれていた木橋であり、位置的に明らかに現在ある芦田橋の旧橋ではない。
これは、【工事用仮設通路の橋】の位置に当時存在していた橋の姿である。
この木橋は、本尊岩隧道が開通する以前から存在した、本尊岩の川側を迂回する道のものだった。
三島通庸に事業に先鞭を付けたといえるこの道の正体は、文献によって後ほど明らかになった。
高橋由一よ今回もありがとう!
おかげで開通当時の道路風景をリアルに知ることが出来たよ。
写真なんてあるわけないもんね、写実的に描かれた石版画で満足しなきゃね!
「写真ならあるけど?」
ここでそう言って割り込んできたのは、宇都宮鉄砲町13番地にて上埜写真館を経営していた写真家・上埜文七郎である!
実は三島通庸は、当時としては最先端の技術である写真による新道風景の記録も行っており、山形県は菊地新学、福島県と栃木県は上埜文七郎という写真家にそれぞれ撮影を委嘱していた。
福島県分を担当した上埜文七郎は明治17年に撮影旅行を行い37枚の写真からなる『福島県下諸景撮影』を残した。
この中に、本尊岩隧道を撮影した写真が1枚、残されている!
というわけでいよいよ、明治17年に撮られた本尊岩隧道の写真をご覧いただく!
『近代を写実せよ。三島通庸と高橋由一の挑戦』より
開通直後の本尊岩隧道東口の風景!
高橋由一の石版画がいかに忠実に写実されていたかがよく分かる、全く同じ風景だ。
しかし、微妙な画角の違いにより隧道の奥行きが出口まで見えるのは極めて貴重。
これは私が知る限り唯一の、貫通している本尊岩隧道を撮影した写真である!
従来、数字としてはっきりとした記録が未発見だった隧道の全長は、40m程度に見える。
また、東口の真正面に張り出したような岩があり、いかにも邪魔そうだ。
雪の吹き込みを防ぐ為とか、理由を想像することは出来るが、
後で紹介する後の時代の写真だと、この出っ張りはないので、
車両交通の邪魔になるために、早い時期に切除されたのではないかと思う。
『津川町史』より
これもまた、明治時代に撮られたとみられる本尊岩周辺の風景だ。
明確な撮影年は不明だが、阿賀野川にたくさんの帆掛け船が浮かんでいるのは、津川に鉄道が全通して舟運が衰退した大正2年よりも前の風景である。
そしてこの写真には、本尊岩隧道自体は見えていないが、その西口に連なる三方道路の“雄姿”が、はっきりと写っている。
現在は旧国道となって眠りについている【川べりの広い道】が、開通当初は恐ろしい“コの字”の片洞門を有していたのである!
しかしその後、この岩場を切り開きながら鉄道が整備され、道路も幾度も拡幅され、当時の風景は完全に過去となった。
また、この写真にも初代隧道を迂回する“川べりの古道”の痕跡が見られる。
しかしまさに痕跡と化している。廃道である。明治時代に既に廃道になっていた道が写っている!
由一の絵には描かれていた木製欄干の橋も消え去り、絶壁に途切れた道形が散見される。
この古の道形が、本尊岩の国道が役目を終える最後に再び活躍していたのは、皮肉だが面白い。
平成18年の探索で私が歩いた【工事用仮設通路】は、明らかにこの古道を跡を再利用していた。
ところで余談だが、イギリス人探検家のイザベラ・バードは、三方道路が整備される直前のこの場所を、川下りによって通過している。明治11(1878)年7月3日のことである。
このとき、本尊岩付近の景観を次のように表現している。
津川を出ると、間もなく川の流れは驚くべき山々にさえぎられているように見えた。山塊はその岩の戸を少し開けて私たちを中に通し、また閉じてしまうようであった。露骨さのないキレーンであり、廃墟のないライン川である。
『Unbeaten Tracks Japan(日本奥地紀行:訳文)』より
ここでバードは阿賀野川峡の風景を、自身の故郷であるスコットランドのキレイン川や、ヨーロッパの大河であるライン川と比べることで、西欧の読者へ伝えようとしている。
『阿賀の里 図説・東蒲原郡史 下巻』によると、この作中で阿賀野川峡をラインと呼んだのは、全国の同様の景勝地に「●●ライン」がある最初のケースであったそうだ。
本当なら、日本のライン発祥の地だったんだな。ちょっと凄い。
『東蒲原郡史蹟誌』より
右の画像も上と同じようなアングルで本尊岩を撮影しているが、撮影時期はもう少し後だろう。
昭和3(1928)年に出版され同57年に復刻された『東蒲原郡史蹟誌』に掲載されていた写真だ。
おそらく鉄道開通後だと思う。写真中央右寄りに見える白い巨大な構造物は、鉄道の落石防止擁壁だろうか?
この写真には、初代隧道の東口が見えていてよいが、位置は分かるもののはっきり見えない。
そして相変わらず、隧道を迂回する古道の跡が、途切れて見えている。
現在よりも明らかに5mくらい水面が低いのは、揚川ダム建設以前だからだ。
この『東蒲原郡史蹟誌』という資料は、何らかの事情により発行されなかった『東蒲原郡史』に代わるものとして、郷土史家の寺田徳明が独自に纏めたものである。
そしてこの文献には、後の『津川町史』(昭和44年発行)や、『阿賀の里 図説東蒲原郡史(上・下巻)』(昭和60年)には採録されなかった、川べりの古道に関する貴重な記述があったので、紹介したい。
まずは郡内交通路の概要を述べている、「郡内交通の蹤(あしあと)」の項目から、三方道路の整備に関する部分の記述は――
阿賀川に沿うて下條村小松より津川に至る道路は、沿岸嶮峻なるを以て元と東西川を縫ふて津川に達せしものにして交通頗る困難なりしが、有名なる福島県令三島通庸、明治15年県道を開鑿するに当り、新潟県に於ても北蒲原郡に属せる今の三川村の部分を開きて連絡を通じ、始めて車馬の便を得るに至れり。大正10年道路法を施行せらるるに当り(中略)県道を新潟福島線とし……
『東蒲原郡史蹟誌』より
このように書かれていて、三島通庸の道路整備以前から阿賀野川に沿って東西に川を縫う険しい道は存在したが、三方道路の整備によって初めて車馬が通じるようになったと出ている。
では具体的に三方道路以前に存在した阿賀野川沿いの道、特に本尊岩に残されている古道の正体がいかなるものであったかについては、本書の「揚川村」の章に「阿賀川通り」という項目があり、そこに詳解されていた。曰く――
天保の頃に至りて本村より荒倉山を経て川口村に通ずる新道を開通したり、その後明治9年、津川町区長薄八三郎、清川村戸長佐藤和一郎、白崎村戸長皆川兵治カと謀り、沿岸各村戸長並に有志11人の協力を得、金2700円を拠出し、また県庁より金1000円を借り、以て川口村より白崎村を経、本村に抵(あた?)る新道を開鑿し、本尊岩絶壁崖下に長さ12間の桟橋を架して大に行通の便を開き、山戸峡中の絶景を世に公開するに至れり。
『東蒲原郡史蹟誌』より
明治9(1876)年に地元3町村の区長や戸長らを中心とした有志が謀って建設した新道が、本尊岩に今なお残されている川べりの古道の正体だった!
右写真の部分には、かつて12間(約22m)の長さの桟橋が架かっていたそうだ。
それが、高橋由一の石版画に描かれていた【木橋】の正体である。
この川べりを通れれば、従来の峠越えより遙かに近く便利であることは誰の目にも明らかだから、少ない資金を工面して頑張って整備したんだろうなぁ。三島の事績に隠れてしまってはいるが、岩を噛む執念を感じる素晴らしいエピソードである。
イザベラ・バードも、出来たばかりのこの新道を、川舟の上から目にしたことだろう。
そして次は三島の事績の話があり、ここにも値千金の新情報が!
次いで福島県令三島通庸の道路開鑿となり、明治十五、六年の頃大に道路を改修し本尊岩の下に長さ23間の隧道を開鑿して本道を大成したり。
然れども今や行通運輸急速を要し、緒種の車輌東西奔馳する時に当り、旧時の良道は殆どその用を為さざるに至れり、大に改修せらるるにあらずんば、地方の脈絡結滞麻痺を来すのみならず、延て国家の運行を阻害せん。
『東蒲原郡史蹟誌』より
新情報とは、初代隧道の全長が23間であったという部分だ。メートルに直すと約42mである。
これが、初代本尊岩隧道のいままで誰も語っているのを聞いたことのなかった正確と思われる全長である。
2代目隧道が開通したときの長さが40mだったから、それよりもわずかに長かったようだ。
しかし、上記の文章の後段は、三島が作った良道も時代が進むにつれて時代遅れの悪道となり、大いに改修しなければ使い物にならないよという、厳しい現状指摘になっている。
この文章が書かれたのは大正の中頃とみられるから、世の中には自動車による交通も現れ始めており、件の素掘り隧道では早晩に立ちゆかなくなるという危機感があったのだろう。
以上が、貴重な『東蒲原郡史蹟誌』の記述である。
『五泉・村松・東蒲今昔写真帖 保存版』より
新潟在住の読者ツートン氏からの情報提供によって、平成14(2002)年に郷土出版社が発行した写真集『五泉・村松・東蒲今昔写真帖 保存版』に、大正時代に撮影された本尊岩の道路風景が掲載されていることが分かった。右の画像がそれである。
これまで見たきた古写真には、本尊岩の東側から撮影したものが多かったが、これは珍しく西側から撮っている。
初代隧道の西口の姿を辛うじて確認できる、私が知る限りは唯一の写真である。
正確な撮影時期は不明ながら、鉄道の隧道が既にあり、大正2年以降である。
そして、未舗装の道路上には、自動車っぽい轍が刻まれている。
『阿賀の里 図説東蒲原郡史 下巻』によると、津川の町に初めて自動車が現われたのは明治40(1907)年のことであったと、著者自身が街角を往くそれを見て「まっ黒い怪物」だと驚いたことが出ている。その後、大正10年には、陸軍自動車連隊の車列19台が若松から津川を通って新発田まで大通行したこともあったそうだ。
しかし総じて見ると、並走する磐越西線が輸送の主力を担っていたため、大正8年に県道福島新潟線となった後もあまり整備は進まず、昭和30年代後半に国道49号としての本格的整備が行われるまでは、大正時代とあまり変わらない未整備状況が長く続いたようである。
(←)
右の古写真とほぼ同じ地点、同じアングルで、平成26年の探索時に撮影したのがこの写真だ。
例によって風景が変わりすぎていて面影はほとんどない。
鉄道とその隧道は、左の落石防護柵の向こうに隠されており、しかもロックシェッドのため元の坑門を見ることは出来なくなった。
また、時代が進んでも変わらぬものの代表のように思われている地形だが、ここではそれも大きく変貌を遂げた。
古写真では、切り立った上にさらに尖塔のような岩峰がそそり立っているが、現在ではこの突出した岩塔部分は存在しない。
調べてみると、この部分の岩塔は人為的に削除されており、しかも工事が行われたのは平成10(1998)年と最近のことで驚いた。(参考文献:『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H11』)
神をも恐れぬという言葉があるが、この本尊岩においては、人命の尊重は、神が与えた景観の改変になんら躊躇をしていない。もっともそれは現代人類にとっては多数派の選択だろう。
しかも、こんなに地形を改変しながら、それから15年ほどでこの道路を捨てて、対岸の新天地へ国道を移したわけで、人間社会の移り気の早さと行動力は本当に凄まじいものがある。少なくとも、明治以来はそんな感じだ。
とても長くなった本稿も、ようやく終わりが近づいた。
最後は、初代隧道が廃止された後にまだ原型を止めていた、そんな最後の時期の姿を見ていただこう。
『東北の道路今昔』より
右の画像は、平成元(1989)年に建設省東北地方建設局が発行した『東北の道路今昔』に掲載されている、昭和60年頃の本尊岩東側の風景だ。
この本のテーマは、高橋由一が描いた『三県道路完成記念帖』の石版画全128枚について、可能な限り現状との比較を行うというもので、私がオブローダーとなる随分前の本だが、極めてオブローダー的な欲望にまみれた名著中の名著だ。しかもそれを建設省自らが研究し、出していた。
これは、先ほど紹介した【この石版画】との現状比較写真である。
左から順に2代目本尊岩隧道、初代隧道、鉄道隧道が並んでいる。
現在は初代隧道前の灌木が成長し、このアングルで3つの坑門を一望に収めることは不可能だろう。
いやはや、私も実見してみたかったなぁ、この風景!
『東北の道路今昔』より
もう1枚ある!
これは初代隧道東口の近景で、現在とは異なり奥行きがあった!
断面のサイズは、【開通当初】より幾分拡幅されたのだろうか。心持ち扁平になっている気がするが、天井は低く、大型車はまず通れなさそうなミニ隧道だ。こんな姿で、昭和28年からは二級国道とよばれ、昭和37年から39年までの短期間は、一級国道だったんだから、昔って恐ろしい。
チェンジ後の画像を見て欲しい。
奥を覗き込むと、入口から20mくらいの位置に、45度くらいの角度を付けて斜めに坑道を塞ぐコンクリートの壁が見える。
言うまでもなく、これは2代目隧道の【側壁】の内壁の裏側である。
万世大路の栗子隧道の米沢側でも初代と2代目隧道のこんな接合関係を見ることが出来るが、それを思い出す風景である。
せめてこの状況で残ってくれていたら、いまでも多くのオブローダーが訪れる名スポットになっていたと思うが(本当はダメだけどね、もう現場への立ち入りは)、現状は【こう】だもんなぁ…。
今回の調査で判明した、本尊岩と格闘した歴代の道の位置を示した。
このうち3世代目の道については記録は未見だが、鉄道が開通した時点で、
昭和31年の航空写真に道が見えるこの位置へ付け替えられたと想定した。
いまは、この全ての道が廃止されているが、鉄道だけは健在だ。
……といったところで、平成18年の淡泊な探索レポートから16年の間に貯めてきた机上調査の情報は、おそらく全て出し尽くした。
ミッチーも、最近は話題にされず油断していただろうが、私はまだミッチーを深く愛している。
それはさておき、こういう新たな探索を伴わないレポートはイレギュラーだと思うが、今後も「いまだからこその深掘り」の出来るネタがあったら、机上調査のみの追記も積極的に行いたい。
皆様も、「あの古いレポートに机上調査を追加してくれ!」という熱いご要望があれば、どうぞお聞かせ下さい。