隧道レポート 大仏公園 謎の穴  

所在地 青森県弘前市石川
探索日 2006.12.14
公開日 2006.12.16
周辺地図

 津軽地方の雄都・弘前。
都市機能が集中する弘前城周辺を除いては、豊かな緑が満ちている。
その西側は岩木山のなだらかな裾野で名物の林檎畑が連なり、東側は平川の沖積地帯で旨い米がとれる。
この平川は秋田県と接する十和田外輪山の清流を集め流れているが、平川が大鰐の温泉街を通り抜け弘前平野へと流れ出すその場所に、弘前市で二番目に大きな面積をもつ大仏公園はある。

 この大仏公園には1つの都市伝説じみた話が伝わっている。
公園は城跡に造られており、その地底には城主が抜け穴として掘った地下道があるのだという。一説には弘前城にまで繋がっていると。

 私のもとにもこれまで、この抜け穴に関する情報が複数の方から寄せられていた。
しかし何れも、都市伝説の域を出ない情報と言わざるを得なかった。
が、つい先日、弘前在住の「一児のパパ」さんから送られてきた情報は、一歩以上進んだものだった。
なんと、彼はいまから25年ほどまえ、実際にその穴へ探険と称して潜り、しかも公園の地下を通り抜けて別の場所に出たというのだ。

 やはり、公園には戦国時代の地下道が存在したのか。
更に調べていくと、この大仏公園という場所は、確かに城跡だった。
石川城、別名は大仏ヶ鼻城といい、はじめ建武元年(1334年)に築城されたと伝わる。
戦国の世、津軽地方の覇権を巡る激しい争乱があり、やがて南部家がその居城とした。(天文2年、1533年)
しかしなお平穏は訪れず、元亀2年(1571年)、大浦為信(後の津軽氏)に攻められ落城、ときの城主南部高信は自刃して果てたそうだ。
津軽氏は弘前城を築城し本拠としたため、そのままこの石川城は廃城となったという。
そして今日に至る。

 もし現存を確認できれば、或いは山行が史上最古の隧道となるやもしれぬ物件。
私と細田氏は現地へ飛んだ。





公園の地下に眠るもの

呆気なく発見!!


 秋田方面からこの地へ向かってきた我々は、大仏公園となった石川城趾の南東端より接近することとなった。
右の航空写真のように、大仏公園は平川と奥羽本線の堀割に囲まれた範囲にあるが、元々の石川城は石川十三楯とも呼ばれていた通り、かなり広い範囲に城塞機能が点在していたらしい。
その中の中心的な場所で大仏ヶ鼻城とも呼ばれていたのが、後に大仏公園となったこの丘である。

 


 市道を北上しながら大仏公園の入口である北面へ向かっていた我々は、車窓に思いがけず穴らしき影を見た。
おいおい、こんな簡単に見つけちゃって良いのかよ。
比較的よく車が通る市道に、穴は思いっきり面している。
公園ということで草むらも刈り払われ、あまりに目立ちすぎる。

 しかし、場所的には紛れもなく大仏公園の一角である。
はたしてこれが、25年前に読者が探険し、何処かへ抜けたという、その穴なのだろうか。

 近くの空き地に車を停め、おもむろに侵入開始。



 薄暗い穴の周辺。
崩れやすい岩場が露出しており、周囲のなだらかな土の斜面とは明らかに趣を異にしている。
紛れもない人工的な洞穴。

 果たしてこの穴は何処へ通じているのだろう。



 糸冬 了 --

余りにも呆気なさ過ぎる結末。
穴は坑口から2mほどで終わっていた。

崩れて…と言う雰囲気ではなく、これだけの穴だったと言うことなのだろうか。
読者が潜ったという穴は、果たしてこれだったのか。
奥行きのない穴をよく観察すると、不自然な部分を見つけた。



 終端部分だけでなく、洞内の床の殆どが、このような砕石で覆われていた。
或いはこれはもしや、埋められたのかも知れない。
ただ、想像していたのは、城の建っていた丘の上部と麓を繋ぐ避難路(抜け穴)で、もしこの麓の穴がそれだとしても、入ってまず最初に下っていたと言うことになる。
これは、かなり不自然な気もするが、残念ながら、もはやそれを確かめる術は失われていた。
この土砂を寄せることは、並大抵ではない。
しかも人目に付きすぎる。

 まだ他にも洞窟があることを期待し、(情報提供者の探険では、少なくとも2箇所の坑口が存在していたことになる)我々は車に戻って移動を再開した。



秘めし地 大仏公園


 大仏公園の入口は弘南鉄道石川駅の傍にある。
公園の駐車場は車数台が停められるものだが、この日はちょうどトイレを設置する工事中で、工事車両が多く駐まっていた。
既に午後4時をまわっており、辺りは急速に薄暗くなってきた。
こんな時間に犬連れでもない大人2人が園内へ入っていく所を、工事関係者に訝しげな目で見られた。

 丘全体が公園となっており、起伏のある園内を巡回する歩道沿いに33体の石仏が祀ってある。
ひとはこれを石川三十三観音と呼ぶ。
とりあえず我々も公園内の遊歩道を歩いて、郭(くるわ、城主・館主の住む場所、大概は城の最も高い位置、規模の大きなものは「天守」)を目指すことにした。



 どんどんと暗くなっていく園内。
その起伏はやはり自然のものではなく、城跡らしくかなり調整されたものだ。
具体的には、丘の北側に広い平場があり、現在は運動場になっている。
その南側は、何段かの段差を経て郭のあった最高地へと続いている。
郭は三方が険しい崖に取り囲まれており、しかも東側はそのまま平川に没している。

 白い灯りが照らす園内を歩く。
灯りは数が少なく、ツツジの植え込みの周りは影が深く見通せない。
そんな悪条件下でも四方くまなく観察するものの、やはり穴らしきものは見当たらない。



 郭の一段下の広場。
小さな公園になっており、古びた遊具が色々と置いてあるが、ブランコは使えないように処理されている。
最近はあまり見なくなった回転式のジャングルジムが残っていた。
足下には落ち葉に紛れて黄色い実が無数に落ちていた。
独特の匂いがある銀杏の実だった。



 ものの数分で山のてっぺんである郭の跡地へたどり着いた。
かつて血なまぐさい争乱が繰り広げられた場所だが、静まりかえっている。
小さな東屋が佇んでいるのみだ。

 案の定、穴など見当たらなかった。
やはり、人目に付く場所には無いのだろうか。
それとも、完全に埋め戻されてしまったのだろうか。
情報提供者が訪れてから、既に四半世紀を経ている。
このご時世、公園の中に“穴”など、残っていないのが普通だ。



 郭から北方、弘前中心方面の眺め。
戦国時代、石川城を討伐した大浦氏はあの弘前に城を築いて、現在の街の繁栄の礎とした。
靄がかかる街並みにぽつぽつと灯りが点り始めている。
もう少しすればあの街からどっと、家路を急ぐ車達が溢れだしてくる。

 南方の眺めも良好だった。
山頂から麓まで白いシートがかけられたように見えたのは、大鰐の有名なスキー場だ。



 午後4時18分、もはや時間的な猶予はない。
穴の手掛かりを得ることも出来ぬまま、来た道とは別の歩道で下ってみることにした。
特に、城の裏側のあまり人々が来ない、目立たない場所を選んで歩いた。

 道端には、暗くてもはや石の塊にしか見えない石仏が点在していた。
彼らに穴のありかを聞きたい心持ちだった。



 公園裏手の立ち入り禁止地帯


 郭の裏手、南面は地面まで一気に落ち込む急な崖地である。
穴を求め、歩道を外れてこの危険な崖地へ近付いた我々の前に、今回初めて見る、立ち入り禁止の文字。
コンクリート製の手摺りがさらに奧へ続いているが、落ち葉が厚く堆積しており、もはや廃歩道となっているようだ。

 これまでは、どこを突いても優しい公園をそつなく演じきっていた城跡。
だが、いまはじめて別の表情を見せた。


 笹が茂る崖下には、深い堀割と鉄道のレールが見えた。

 ますます暗くなる足下をマグライトで照らし、2人は更に崖の奥へと進んだ。
その行く手を何度も松の倒木が行く手を阻んだ。

 コンクリート製の疑木で造られた手摺りは、落石や倒木で至るところが破壊されていた。
しかし、かつてはここにも歩道があったことは間違いない。
進むにつれ更に傾斜は厳しくなり、白っぽい岩盤が見えてきた。



 カメラを高感度モードに切り換えた。
そして撮影した一枚には、肉眼でもまだ見えていなかった“穴”の姿が、くっきりと写っていた。

 そう。
穴は再び我々の前に現れたのだ。
まるで、岩の割れ目のような細長い穴が、岩場の中程にはっきりと。
場所は郭の真下である。

これが本当に、戦国時代に掘られた、秘密の抜け穴なのだろうか。