残って は いた。
正直オブローダーとして、この状態を手放しで喜ぶのは無理だ。
明確な痕跡が残っていたことは嬉しいが、「通り抜ける」という希望は果たせない。
坑門の大部分は、硬く締まった土の下に埋め戻されていた。
地表に現れているのは、その上部の胸壁(パラペット)のみで、坑口は完全に地中に没している。
知らない人が見れば“謎の壁”に終わりそうなところだが、そうはさせじと巨大な扁額が掲げられていた。
坑門の素材は、場所打ちのコンクリートである。
素材としては今日一般的に使われているものと変わらないが、全体的に地衣をまとい、緑青のような風合いを湛えている姿は、古色蒼然たるものがある。
(…と思いきや、後付けであるはずの封鎖壁(平成7年以降建造)も同様の風合いである。コンクリートの見た目からの経年判断は難しいという一例だ。)
また坑門の上端には、現在のトンネルでは省略されることが多い笠石を、コンクリートで形骸的に表現しており、昭和初期の隧道らしい姿といっていいだろう。
しかしなんといっても特徴的なのは、扁額である。
近付いてみたことで、大きいだけではないさらなる特徴も判明した。
この扁額、
坑門に直彫りされている!
それに気付いたのは、坑門の中央を縦に割って走る亀裂が扁額も同様に割っていたからだが、平均よりも大きな扁額と坑門への直彫り、この2つの特徴を有する隧道は他に1本だけ心当たりがある。
隣県である山梨は身延町の下山隧道がそれである。
大正12年竣功の下山隧道と、この昭和12年竣功の一色隧道との間に、直接の関係が有るとは思えないが、場所打ちコンクリートの黎明と言って良い当時において、今日失われた“ある種の”デザインが存在していたことを思わせる。
扁額全体の大きさは下山隧道に敵わないが、文字自体の大きさや力強さは特筆に値する。
最も大きな「隧」の一字は40p四方の広がりを持ち、線の太さも5cmくらいある。
また、下山隧道には見られなかった工夫もある。
それは、扁額部分の表面をモルタルにしたことで、遠目には石の銘板のように見えることだ。
これは低予算で見栄えをつくるための苦肉の策だったかもしれないが、コンクリートでありながら型押しにせず、半凝固状態のやり直しが利かないキャンバスに、これだけ達筆な文字を彫り込んだ職工の苦労は、いかほどであったろうか!
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バランスを取りづらいはずの「一」の文字も、思いっきり筆書きのような形を強調して彫り込み、十分な迫力を出している。
敢えてこの扁額を埋め戻さなかったところに、道路管理者の精一杯の良心を感じたいところである。
なお、扁額下部には小さな文字で「昭和十二年三月竣功」と彫られているが、この労作の作者については不明のままである。
といったところで、“巨大力作銘板”の存在感ばかりが強調された、南口のレポートを終了する。
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《現在地》
現道の切り通しを通って、北口へ。
え?
そっくりそのまま?!
残ってる!?
なんだ〜、あるんじゃん(嬉)!
てっきり、両方とも埋め戻されているんだと思っていた。
これは、嬉しい誤算!
妙に右側が明るい、旧道の切り通し。
本来なら、右にも左と同じような高い法面がそびえていたはずだが、今はそこを車が行き交っている。
路面にはアスファルトが敷かれているが、路肩や側溝といった余地はなく、ぎりぎり2車線分である。
今は降り積もった落葉が土を生み、土が草木を育みつつある。
現状であっても、夏場は坑門まで見通せないくらいかもしれない。
以上のようなことを観察しつつも、結局のところ20mほど先に見える“闇”が、ここにいる私の全てである。
吸引されるように近付いていく。
100%閉塞が確定している、闇へ。
予想以上に
大迫力!
なるほど、こんなに背の高い坑門が埋もれていたのか!
これだけ胸壁が広いと、あの大きな文字の扁額も、ぴったり似合うな。
思うに、下山隧道といいこの一色隧道といい、黎明期のコンクリート隧道の中に、胸壁が広くそこに収まる扁額も大きなものが出て来たのには、それなりの理由があるように思われる。
というのも、明治以来の石や煉瓦、或いはコンクリートブロックなどで“組積”された坑門は、組積であるがゆえに強度が弱く、補強のためにアーチや壁柱や笠石、帯石などの様々な構造を必要としたし、それが同時に様式美を伴う意匠ともなった。また、礎石造構造物の表面は、自然と目地の模様や凹凸ができるから、厳密な意味で“余白”が生じることもない。
一方、現場に型を作りセメントを流し込む場所打ちのコンクリートでは、従来的な意匠は補強的な意義をほとんど失い、基本的には不要となった。
また、表面も平板でノッペリとしたものにならざるを得ない。
そこで、従来的な意匠の中では唯一生き残った“扁額”のデザインに傾注することになったのではないだろうか。
この坑門、コンクリート全体の荒んだ色合いと、乱れ髪のようなツタの組み合わせが、廃され埋められたことへの恨みを語っているようで、少し不気味だ。
支障が多く全体を見渡すことができない扁額だが、間近に見ないと、石彫りの銘板を埋め込んでいるように見える。
これはまさに、建造者の意の通りではないだろうか。
書かれている内容は、南口と同じようだ。
また、南口では気付かなかったが、無装飾と思われていた坑門の壁全体に、組積造を思わせる模様が刻まれていることが分かった。
これなども、コンクリート黎明期の隧道坑門の、重大な特徴である。
う〜ん、マッシブ。
坑門に線描されていたのは、布積みの胸壁と、要石を略したアーチの迫石。
様式美としては最低限度のものを描いたのだろうが、とにかく坑門全体を覆う地衣の斑模様が不気味で、お世辞にも美しいとは言えない状態。
閉塞が確定している状況もあり、心地の良い坑口ではない。
たとえ塞がれていなくても、肝試しでもなければ敢えて立ち入る人もなさそうだ。
めっちゃ丸い!
道路用トンネルで、こんなに正円に近い断面は見覚えがない。
ここだけということはないだろうが、滅多に見ない事から、かなり珍しいと思われる。
当然、この特異な形状にも理由があるはず。
というか、そんな理由はひとつしか考えられない。
地質が相当悪かったのだと思われる。
同じ伊豆半島では、伊東市と熱海市の境にある旧宇佐美隧道(JR伊東線、昭和13年開通)の一部が円形断面を有している。
あそこは温泉余土という劣悪な地質に阻まれ、円形断面のトンネルになった経緯がある。
もし地質に不安があったのならば、現道が新トンネルではなくオープンカットとなったことも頷ける。
一色隧道
延長:101m 車道幅員:4m 限界高:4m 竣工年度:昭和12年
路線名:主要地方道下田石室松崎線 コンクリート覆工あり、路面未舗装
・『道路トンネル大鑑』(昭和42年)巻末リストより転載。
洞内の照明は、当然消灯している。
しかし、平成7年まで国道136号として管理されていただけあって、まださほど傷んでいない。
もう10年も経つと、こういった照明も落下してきて、より鬼気迫った感じになるだろう。
また、地質に不安があるかも知れないという話をしたが、目に見えて分かるような内壁の変状もない。
とりあえずは静かで平穏な閉塞隧道なのだが、闇はかなり濃い。
また、壁面が円形なのが妙に落ち着かない。
壁に手が届きにくいというか…。もちろん、実際は手は届くのだが…。
8:41
来ちゃった。
いちゃった。
奇跡の開口(?)を見せていた北口から、闇を辿ること約100m。
パイプのような隧道は、唐突な結末を迎えた。
…決定されていた終着。
おそらく、埋め戻された南口の閉塞壁。
ここはその裏側である。
なお、右上の壁にこり固まっているのは、冬眠中のコウモリたちだ。
フサモフ。
ここまで来たら、後は来た道を引き返すのみ。
短くとも、語りたくなる隧道だったな。
おつかれさまでした。