上の写真と同じ地点で、左手、すなわち網代駅方向(宇佐美隧道方向)を見ると、柵に沿って小径が続いている。
また、柵の内側には線路との間に広い雑草帯が続いているが、この中にレールは埋もれているのだ。
私も当初は気付かなかったが、小径を進んでいるうちに気付くこととなった。
小径に少し入って、宇佐美駅方向を振り返って撮影。
奥から来て緩やかにカーブする線路が見えるが、旧線はカーブの起点あたりでなお直進し、左の草藪へ続いていた。
旧線から新線に切り替えられて20年以上を経過しているとはいえ、将来の複線化のため古い設備を存置したままになっているという話からすれば、大分トーンダウンした風景である。
ちなみに、新線との分岐器は無いようだ。
そう。
ここで私は旧線にも、線路がちゃんと残っていることを知った。
それは、僅か1mほど、何故か草が全く生えない帯があったのだ。(除草剤か)
…一応はバラストの上に乗せられているはずの軌道敷きが、これほど藪化してしまうという事実に驚いた。
まして、私が生まれた余裕で後の話である。
小径は、徐々に深くなる掘り割りの縁に沿って続いている。
途中にはポツポツと、鉄道用地を示す「工」の文字の刻まれた標柱が立っている。
写真は小径から隧道方向を撮影している。
前方には、天城山地の支脈として行く手を阻む、海抜350mほどの山地が迫る。
中央に写る鞍部は、今の海岸沿いの車道が通ずる以前、大正初期まで使われていた網代峠である。
新旧二本の宇佐美隧道は、そのほぼ真下を3km近い長さで貫く。
小径は、現在の新宇佐美トンネルの坑門傍まで来て行き止まりとなる。踏切から180mほどだ。
ここまでずっと旧線敷きが新線に沿って、藪に路盤を完全に隠された姿ではあるが、続いていた。
そして、新線がトンネルに入った後も、まだ掘り割りで隧道を先延ばしにしているようだが、益々深いジャングルと化した旧線路上を見通すことは出来ない。
どうにかこの藪の中に入って坑口を確かめたいが、コンクリートで固められた掘り割りは深く、容易に旧線敷きに下ることは出来ない。
しばらく悩んだ末、藪漕ぎの距離が長引く懸念はあったが、踏切近くの高低差のない辺りまで戻ることにした。
引き返しながら、掘り割り内に新旧線並んだ姿を撮影。
将来的には両者を使って複線運用を行う計画だった訳だが、結局、現在までに複線化を完了しているのは、起点の熱海から一つ目の駅来宮まで1km強に過ぎない。この区間も実質的には並行する東海道線の複々線のような外見である。(事実、伊東線の“ゼロキロポスト”は来宮駅構内に設置されている)
切り替え後の写真はJRの電車だ。ミカン色のラインが伊豆っぽい? このアングルだと、まるで藪の中を走っているようだ。
列車の運行は見ての通り頻繁なので、これまで田舎で活動してきた様な気楽さでは、線路に接近できない。
まして、新宇佐美トンネルから飛び出してくる列車を予期できない。
自身の危険を防ぐため、もちろん乗務員に不安を与えぬためにも、私は楽に進める線路間際を歩かず、敢えて藪を掻き分けて進んだ。
これはなかなか大変だった。
この日は真夏日で、茹でるような熱気に覆われた藪は、今にも命がすり減りそうだった。
それだけに、絶対涼しいだろう隧道が待ち遠しかった。
昭和61年に完成した新宇佐美隧道は全長2985mあり、これは旧隧道よりも66mだけ長い。
そしてこのトンネルには、一目見て他と違うと分かる、珍しい特徴がある。
トンネルの断面が、正円なのである。
通常、トンネルといえば馬蹄形だとか、釣鐘型だとか、或いは半円形といった言葉で形容するし、実際楕円や多心円をベースとした断面で建設されるものが殆どだ。
だが、この新宇佐美隧道は、あらゆるトンネル断面形の中で最も土圧に対する力の強い正円を選んだ。
無論それは、コストを犠牲にしてでも、前任と同じ轍は踏むまいと言う意思表示である。
『第二の丹那』とまで言われた難所「宇佐美隧道」の、その苦闘の片鱗が、早くも見え始めたのである。
新トンネルから微かに漂う冷気に頬を撫でられ、思わずセイレーンに惑わされた舵取りのごとく、その禁断の坑へと身を転げそうになったが、ここはグッと我慢。
俺にはお前がいるジャマイカ!
つか、 連れて来ちゃったよ(えへへへへ…)。
上手く旧隧道をチャリ同伴で突破できれば、この後予定の国道旧道探索へとスムースに繋げられるからなぁ。
ムフフフフ。
まんず、非常識な悪りぃ子だごど。
いよいよ、旧線だけが地上に残されての単独行となる。
猛烈な藪、所謂マント群落に覆われており、この奥わずか30mほどに口を開けていなければならない坑口は、まだ全く見えない。
しかし、草むらの根本にはちゃーんと、レールが埋もれながらも続いている。
ここでのチャリは全く足手まといで、殆ど担ぎ上げて前進した。
両側を高い谷積みの石擁壁に塞がれた旧線を進んでゆくと、ある一線を境に高木からなる藪が晴れ、浅い草むらだけに変わった。
これは、多くの藪化した隧道前で見られる現象で、涼しい空気が及ぼす植生への影響だろう。
この変化によっていち早く予感された坑口は、いよいよ、私の眼前にその黒い口を示しはじめた。
辺りに町の音は届かず、蝉の声だけが幾重にも降り注ぐ。
全く廃線跡にしか見えないが、やはりJRは管理を放棄してしまったのだろうか。
で、 出たー。
いままで私が潜ってきた廃止隧道の中で、これが最も長い隧道となる。
これまでの最長は、2004年に探索した岩手県釜石市の製鉄所専用線にある山手東側隧道で、全長約2400mあった。
次いで、我がオブ人生最大の蛮勇を奮った最狂の坑、青森県の田代隧道が、約1800mでこれに次ぐ。
東北地方を活動地としている以上、もはやこれ以上に長い廃隧道にはそうそう巡り会えないと思っていたわけだが、今年関東に出てきて、目の前には廃の沃野が広がったわけである。
比較的容易に、これまでの自己最長を覆す廃隧道に遭遇してしまった。
(写真左)
坑口前の密林地帯。
ここに2条のレールがしっかりと埋もれている。
踏切からここまでの距離は、250mほどであった。
(写真右)
坑口前には、変圧器らしいボックスが備え付けられたままになっており、洞内から伸びる架線を集めている。
しかし、坑外の架線は撤去されている。
坑門に取り付けられた、扁額代わりの金属板。
そこには、「宇佐美」という隧道の名前と、その下に「10525」の数字と、さらに小さく「60」の数字が書かれている。
地図上で計算してみるとこれは、伊東線のゼロキロポストがある来宮(きのみや)駅(来宮は起点である熱海駅の一つ伊東寄りの駅で、熱海〜来宮間は東海道線と平行している)からの累算距離のようである。
つまり、10k525m60cmが、この坑門までの距離である。
この隧道一本で、一挙にこの数字は三分の一近くを減らすことになるわけだ…。
入口には予想通り柵が設置されていたが、なんと通用口は開いていた。
鍵自体が見あたらず、何者かが破壊したのか、或いは最初から無施錠だったのかは分からない。
だが、これは「入るな」と言われなかったも同然である。
私の意識は既に、目の前の3km近い闇を通り越し、かつてチャリとしては誰も成し遂げなかった速度で宇佐美から網代へ行くという、はっきり言って子供じみた興奮に汗まみれの胸を躍らせた。
確かに3kmの隧道は長かろう。
しかし、これまで経験してきた「2位」や「3位」の得体の知れ無さに比べれば、ほんの20数年前まで品行方正な国鉄の庇護にあった隧道など、たかが知れている。
もはや闇への恐怖など消え去ったと自負する私は、特にこの長さを警戒していなかった。
だがこのとき、私は例の通り、沸騰する好奇心によって、本来あるべき冷静な判断力を鈍らせていた。
史上稀に見る難工事によって開通し、巨額の費用と手間をかけて維持されてきた隧道が、
二十と数年をも放置された結果は、私の想像を遙かに超える異様な光景を醸成していたのである…。
いままで、その長さゆえ、気軽な来訪者を許さなかっただろう旧・宇佐美隧道。
その真相は、次回より、明かされる…。