隧道レポート 伊東線旧線 宇佐美隧道  第1回

所在地 静岡県伊東市〜熱海市
探索日 2007.7.25
公開日 2007.9.29

 太平洋へ大きく突きだした伊豆半島の住人にとって、半島の外、特に東京圏へと繋がる交通路の開発は最大の関心事であり、歴代の為政者の特に注目するところでもあった。
かつて江戸の昔、山地と険しい海岸線に占められた半島の陸路は大変に未熟であり、江戸や各藩の築城において豊富に使われた「伊豆石」や、天城山近辺で産する良質の薪炭材を積み出すのは、専ら海運の役割だった。
明治新政府が馬車や鉄道といった西欧の技術を積極的に導入したことにより、それまで人や馬の背が精一杯だった半島内の街道も漸く発達し始める。
だが、まだ当時の未熟な土木力では、最大の文明の力たる鉄道を半島内に持ち込むことは困難で、辛うじていくつかの馬車鉄道や人車軌道といった私設軽便鉄道の類が、半島北部にあたる本州との結節地附近に開発されたに過ぎなかった。
大正時代に入る頃になると、日本の土木力はいよいよ地力を身に付けはじめ、遂に半島の基部を貫く「丹那隧道」が東海道線の新路線として決定され、日本の隧道工事史上に特筆される難工事を見事克服、昭和9年に全長7804mの隧道は開通した。

 この開通により、東京から見た半島の新たな玄関口になった熱海は、旧来の静かな温泉地から一気にリゾート都市としての繁栄を手にする。
これを見て、熱海から南に延びる旧来の「東浦筋」、すなわち伊豆東海岸の街道に沿って連なる伊東や下田などの各町村も、それまで以上に活発な鉄道誘致活動を展開するのである。
 そうした結果、官設の予定鉄道路線に「静岡県熱海ヨリ下田、松崎ヲ経テ大仁ニ至ル鉄道」として加えられ、昭和4年に測量開始、同7年熱海より工事に着手されたのが、後の国鉄伊東線(JR伊東線)、当時は「伊豆線」「伊豆循環鉄道」などと言われた鉄道である。
 伊東線は当初の名の通り、半島を一周するような遠大な構想の下で建設が始められたのであるが、その後の情勢の変化により、昭和13年12月15日に伊東まで開通したところで打ち切られた。(後に私鉄の伊豆急行が、この計画を踏襲する形で下田まで開業させている)
伊東線の開通により東京への直通列車を得た伊東住民の喜びは大きく、昭和33年に刊行された市史には、開通の日を指して、「町の将来の発展が約束された日」と、はっきり書かれている。

 開通した伊東線は、熱海と伊東を結ぶ全長16.9kmの単線であったが、当初から電化されていた。
山が海岸線ぎりぎりまで迫る地形を反映し全線の三分の一近くがトンネルになっているが、特に網代駅と宇佐美駅の間にある宇佐美隧道は、全長2919mに及び伊東線最長である。
この宇佐美隧道は、工事当初に『第二の丹那』と呼ばれたほどの難工事で(『土木建築工事画報昭和14年3月号』より)、その開通には5年もの歳月を要している。その困難さの詳細はレポートの中で紹介していくが、ともかく全国的に見ても稀な難工事であった。
そして、開通後も昭和22年頃からたびたび変状や亀裂の発生といったトラブルに見舞われ、その都度手が加えられていた。
もはや満身創痍となっていた昭和61年、利用客増による複線化事業の一環として新宇佐美隧道が並行して完成し、旧来の隧道はひとまずの眠りに就いたのだった。

 だが、翌年には国鉄の分割民営化が成されると、以後今日まで、複線化工事は再開されていない。

地元自治体を中心に組織されていた「伊東線複線化同盟」も平成13年に解散されたと聞く。

思いのほか長い眠りに置かれた旧隧道は、果たしていま、どうなっているのだろうか?

 

もしそれが“廃”隧道であるならば、全長2,919mは、山行が史上最長の廃隧道となる。


参考資料
 鉄道廃線跡を歩く(])、伊東市史、土木建築工事画報、他



山行が史上最長の…廃…隧道

伊東市宇佐美より探索開始


2007/7/25 11:55 【静岡県伊東市宇佐美】

 目の前を軽快なステンレスカーが駆け抜けていく。
水平線と空をイメージしたのだと容易に分かるカラーリングのそれは、伊豆急行線の8000形電車という。
伊東から先の下田まで、国鉄が果たせなかった伊豆循環鉄道の使命を一部受け継いで、昭和36年に開業した私鉄だが、その当初の使命を思い出させるかのように、JRの線路を熱海まで悠々と乗り入れている。その逆も然りである。

 ここは、宇佐美隧道の宇佐美駅側坑口に最寄りの小さな踏切である。
実は、既にこの地点では新旧線の切り替えが済んでおり、旧線のレールも踏切の両側に残されている。
だが、踏切部分のレールは綺麗に撤去されており、通行していてそれに気付くことはない。
遮断棒手前の道路右側に、黄色いバーが二本横に渡されているが、この位置で旧線は道路を横切っていた。



 上の写真と同じ地点で、左手、すなわち網代駅方向(宇佐美隧道方向)を見ると、柵に沿って小径が続いている。
また、柵の内側には線路との間に広い雑草帯が続いているが、この中にレールは埋もれているのだ。
私も当初は気付かなかったが、小径を進んでいるうちに気付くこととなった。



 小径に少し入って、宇佐美駅方向を振り返って撮影。
奥から来て緩やかにカーブする線路が見えるが、旧線はカーブの起点あたりでなお直進し、左の草藪へ続いていた。
旧線から新線に切り替えられて20年以上を経過しているとはいえ、将来の複線化のため古い設備を存置したままになっているという話からすれば、大分トーンダウンした風景である。
ちなみに、新線との分岐器は無いようだ。


 そう。

ここで私は旧線にも、線路がちゃんと残っていることを知った。

それは、僅か1mほど、何故か草が全く生えない帯があったのだ。(除草剤か)


…一応はバラストの上に乗せられているはずの軌道敷きが、これほど藪化してしまうという事実に驚いた。
まして、私が生まれた余裕で後の話である。

 小径は、徐々に深くなる掘り割りの縁に沿って続いている。
途中にはポツポツと、鉄道用地を示す「工」の文字の刻まれた標柱が立っている。
写真は小径から隧道方向を撮影している。
前方には、天城山地の支脈として行く手を阻む、海抜350mほどの山地が迫る。
中央に写る鞍部は、今の海岸沿いの車道が通ずる以前、大正初期まで使われていた網代峠である。
新旧二本の宇佐美隧道は、そのほぼ真下を3km近い長さで貫く。



 小径は、現在の新宇佐美トンネルの坑門傍まで来て行き止まりとなる。踏切から180mほどだ。
ここまでずっと旧線敷きが新線に沿って、藪に路盤を完全に隠された姿ではあるが、続いていた。
そして、新線がトンネルに入った後も、まだ掘り割りで隧道を先延ばしにしているようだが、益々深いジャングルと化した旧線路上を見通すことは出来ない。
どうにかこの藪の中に入って坑口を確かめたいが、コンクリートで固められた掘り割りは深く、容易に旧線敷きに下ることは出来ない。

 しばらく悩んだ末、藪漕ぎの距離が長引く懸念はあったが、踏切近くの高低差のない辺りまで戻ることにした。



 引き返しながら、掘り割り内に新旧線並んだ姿を撮影。
将来的には両者を使って複線運用を行う計画だった訳だが、結局、現在までに複線化を完了しているのは、起点の熱海から一つ目の駅来宮まで1km強に過ぎない。この区間も実質的には並行する東海道線の複々線のような外見である。(事実、伊東線の“ゼロキロポスト”は来宮駅構内に設置されている)

 切り替え後の写真はJRの電車だ。ミカン色のラインが伊豆っぽい? このアングルだと、まるで藪の中を走っているようだ。



 列車の運行は見ての通り頻繁なので、これまで田舎で活動してきた様な気楽さでは、線路に接近できない。
まして、新宇佐美トンネルから飛び出してくる列車を予期できない。
自身の危険を防ぐため、もちろん乗務員に不安を与えぬためにも、私は楽に進める線路間際を歩かず、敢えて藪を掻き分けて進んだ。
これはなかなか大変だった。
この日は真夏日で、茹でるような熱気に覆われた藪は、今にも命がすり減りそうだった。
それだけに、絶対涼しいだろう隧道が待ち遠しかった。



 昭和61年に完成した新宇佐美隧道は全長2985mあり、これは旧隧道よりも66mだけ長い。
そしてこのトンネルには、一目見て他と違うと分かる、珍しい特徴がある。

 トンネルの断面が、正円なのである。
通常、トンネルといえば馬蹄形だとか、釣鐘型だとか、或いは半円形といった言葉で形容するし、実際楕円や多心円をベースとした断面で建設されるものが殆どだ。
だが、この新宇佐美隧道は、あらゆるトンネル断面形の中で最も土圧に対する力の強い正円を選んだ。
無論それは、コストを犠牲にしてでも、前任と同じ轍は踏むまいと言う意思表示である。
『第二の丹那』とまで言われた難所「宇佐美隧道」の、その苦闘の片鱗が、早くも見え始めたのである。



 新トンネルから微かに漂う冷気に頬を撫でられ、思わずセイレーンに惑わされた舵取りのごとく、その禁断の坑へと身を転げそうになったが、ここはグッと我慢。
俺にはお前がいるジャマイカ!

 つか、 連れて来ちゃったよ(えへへへへ…)。

上手く旧隧道をチャリ同伴で突破できれば、この後予定の国道旧道探索へとスムースに繋げられるからなぁ。
ムフフフフ。

まんず、非常識な悪りぃ子だごど。



 いよいよ、旧線だけが地上に残されての単独行となる。
猛烈な藪、所謂マント群落に覆われており、この奥わずか30mほどに口を開けていなければならない坑口は、まだ全く見えない。

しかし、草むらの根本にはちゃーんと、レールが埋もれながらも続いている。
ここでのチャリは全く足手まといで、殆ど担ぎ上げて前進した。




 両側を高い谷積みの石擁壁に塞がれた旧線を進んでゆくと、ある一線を境に高木からなる藪が晴れ、浅い草むらだけに変わった。
これは、多くの藪化した隧道前で見られる現象で、涼しい空気が及ぼす植生への影響だろう。
この変化によっていち早く予感された坑口は、いよいよ、私の眼前にその黒い口を示しはじめた。

 辺りに町の音は届かず、蝉の声だけが幾重にも降り注ぐ。
全く廃線跡にしか見えないが、やはりJRは管理を放棄してしまったのだろうか。



 で、 出たー。

 いままで私が潜ってきた廃止隧道の中で、これが最も長い隧道となる。
これまでの最長は、2004年に探索した岩手県釜石市の製鉄所専用線にある山手東側隧道で、全長約2400mあった。
次いで、我がオブ人生最大の蛮勇を奮った最狂の坑、青森県の田代隧道が、約1800mでこれに次ぐ。
東北地方を活動地としている以上、もはやこれ以上に長い廃隧道にはそうそう巡り会えないと思っていたわけだが、今年関東に出てきて、目の前には廃の沃野が広がったわけである。
比較的容易に、これまでの自己最長を覆す廃隧道に遭遇してしまった。



 (写真左)
坑口前の密林地帯。
ここに2条のレールがしっかりと埋もれている。
踏切からここまでの距離は、250mほどであった。

 (写真右)
坑口前には、変圧器らしいボックスが備え付けられたままになっており、洞内から伸びる架線を集めている。
しかし、坑外の架線は撤去されている。



 坑門に取り付けられた、扁額代わりの金属板。
そこには、「宇佐美」という隧道の名前と、その下に「10525」の数字と、さらに小さく「60」の数字が書かれている。
地図上で計算してみるとこれは、伊東線のゼロキロポストがある来宮(きのみや)駅(来宮は起点である熱海駅の一つ伊東寄りの駅で、熱海〜来宮間は東海道線と平行している)からの累算距離のようである。
つまり、10k525m60cmが、この坑門までの距離である。

 この隧道一本で、一挙にこの数字は三分の一近くを減らすことになるわけだ…。



 入口には予想通り柵が設置されていたが、なんと通用口は開いていた。
鍵自体が見あたらず、何者かが破壊したのか、或いは最初から無施錠だったのかは分からない。
だが、これは「入るな」と言われなかったも同然である。

私の意識は既に、目の前の3km近い闇を通り越し、かつてチャリとしては誰も成し遂げなかった速度で宇佐美から網代へ行くという、はっきり言って子供じみた興奮に汗まみれの胸を躍らせた。

確かに3kmの隧道は長かろう。
しかし、これまで経験してきた「2位」や「3位」の得体の知れ無さに比べれば、ほんの20数年前まで品行方正な国鉄の庇護にあった隧道など、たかが知れている。
もはや闇への恐怖など消え去ったと自負する私は、特にこの長さを警戒していなかった。



 だがこのとき、私は例の通り、沸騰する好奇心によって、本来あるべき冷静な判断力を鈍らせていた。

史上稀に見る難工事によって開通し、巨額の費用と手間をかけて維持されてきた隧道が、

二十と数年をも放置された結果は、私の想像を遙かに超える異様な光景を醸成していたのである…。


 いままで、その長さゆえ、気軽な来訪者を許さなかっただろう旧・宇佐美隧道。


   その真相は、次回より、明かされる…。