隧道レポート 北寺家隧道(仮)改め 市場隧道 前編

所在地 富山県富山市寺家
探索日 2009.4.27
公開日 2009.5. 3

一攫千金を目指して掘られた隧道?!



【周辺地図(マピオン)】 2009/4/27 10:45

つい先日、4泊5日で岐阜富山方面の探索に行ってきた。
目的は神岡軌道の再訪と追加調査および、北陸有数の電源地帯である庄川沿いにある国道156号の旧道探索などであったのだが、富山市付近に行ったのならば当然体験せねばなるまいというくらいの、有名な「道路スポット」がある。

それは、廃道ではなく現役の道路、しかも県道、さらに一個格上の主要地方道なのだが、乗用車がようやく通れるくらいの極狭隧道が3本もあるという。
これまでも、たくさんの読者様からその調査依頼を頂いていた。
右の地図にもその一部が写っている。

「富山県道67号大沢野宇奈月線」なのであるが、実は今回その序でに見てきた隧道が思いのほか印象的だったので、マイナーを承知で紹介したいと思う。
個人的には、知られたる大ネタより知られざる小ネタを愛する質なので、県道の方を期待してくださる方には申し訳ないのであるが…

仮称、北寺家隧道を先にお伝えしたい。

ぶっちゃけ、こちらは机上調査云々で何かが出てくる期待も薄いくらいマイナーなので、現地で見聞きしたものだけで気軽に書けちゃうと言うのもある(笑)。






2008/6/27 12:48

入口は、全く何の変哲もないこんな場所だ。
地名で言えば、富山県富山市舟倉である。
平成17年までは、神岡軌道の起点である笹津(ささづ)と同じ大沢野町に属していた。

そしてこの交差点。
手前を走っているのが“問題”の県道67号だが、とりあえずこの辺ではまだ普通の2車線道路である。
奥へ向かう「寺家北隧道」への道も、まったく何の変哲もない。
当然のように私の期待感も、まだ低調。
ちなみに、県道67号の方は一度味わった後の探索である。




舟倉という大字は変わっていて、周囲をグルリと寺家(じけ)や市場などの広い大字に囲まれている。
しかも、舟倉は一箇所ではなく、飛び地のように何か所も点在していたりする。
面積の上ではどれが本体で飛び地なのかも分からないが、とにかく道はそんな大字舟倉をすぐに出て、寺家と市場の境界線に沿って東へ向かう。
どうやら人家のある辺りが舟倉であるらしく、それ以外の場所には広大な水田地帯が広がっていた。

地図に隧道が描かれているのは、起点の交差点から900mほど東南東へ進んだところ。
開豁(かいかつ)となった地形に照らし合わせてみると、だいたい矢印の辺りにそれはあるようだ。
まあ、ものの数分もあれば辿り着けるだろう。




山際に近づくと、呆気なく鋪装は無くなってしまった。
しかも、地形図にはない細かな分岐が現れて私を惑わした。

相手の性質…つまり、それが旧主要道路なのか林道なのか私道なのか…そう言ったところが全然分からないので、地図にない道から正解を選ぶのは難しい。
というか、半ば運頼みである。
自分の勘を信じて進んでいく。

とりあえずこの写真の交差点は、右へ行った。




まさに渡りに舟とはこのことである。
前方を、いかにも現地に精通していそうな空気を漂わせたご老人が一人歩いているではないか。
なぜ周りに一軒の人家もない中、しかも車もバイクも自転車もない中、さらには山菜篭もリュックも持たない農協ハットのおじいさんがここを歩いているのか、些かの訝しさを覚えたが、相手にとってはよほど私の方が怪しいに違いない。
ここは極めてフレンドリーに、この先に有るはずの隧道についての情報収集を試みた。

そして、

隧道の存否さえ超越した衝撃的証言を得ることになる。





古老のおかげで、この極めて分かりづらい分岐も、
確信を持って正解の右を選ぶことが出来た。

いま私が向かっている隧道の正体は、林道だという。

始めに「林道」という言葉を聞いたときには、正直少しだけ萎えた。

だが、それが掘られた時期というのが、昭和10年頃だと言うのである。
想像していたよりも大部古いではないか。

さらには、自動車が通っていたのかと聞くと、違うという。
この道を通っていたのは、馬車だったというのである。

昭和10年頃に馬車?!
意外な取り合わせに、俄然興味が湧いてきた私は、さらに質問を加えた。
あともう一押しで、古老のなかの記憶の扉が開きそうだった。





このたおやかな勾配、車道にしては頼りない道幅…
確かに馬車道の雰囲気を備えている。

ずばり、この先の隧道は何のために掘られたものなのかを、具体的にこう質問してみた。

「先ほど寺家公園から池原集落跡を通る、狭いトンネルが有る県道を通ってきたのですが、この道も池原集落へ向かっていたのですか?」

富山の人とじっくり言葉を交わすのはおそらくこれが初めてだったが、意外なほど訛りは無い。
住み慣れた秋田でさえ高齢の方との意思疎通は難しいと感じていたのに、富山はほとんど標準語に近いように思えた。
それはさておき、返ってきた答えは始めよりさらに具体的なものになっていった。

この道の行き先は、池原集落ではなかった。
山を越えた先で行き止まりになっていた。
そして、その場所で木を伐って運び出していた。

つまり、最初の答えと同じく、この道は純然たる林道であった。
馬車が通う林道だったということだ。




金沢や能登の木樵(きこり)達が、
一攫千金を求めてこの道を通ったという…

そして、私の質問攻めを熱心だと好意的に感じていただけたのか、遂に古老の口から決定的証言がもたらされた。

昭和10年頃に、この山の裏側の沢で大規模な地滑りが起きたのだという。
そして、その崩れた土砂の中から、もの凄く太い杉の木が何本も現れたのだそうだ。

土の中から木が現れた。まるで昔話のような展開。
最初私には、その土の中から現れた巨木と隧道とがどう結びつくのかが分からなかったが、次の言葉が明確に結んでくれた。

金沢や能登のほうから大勢の職人(木樵)たちがやって来ては、隧道を掘って馬車道を通し、出土した杉の木を丸太にして運び出していった。




それは腐っていなかったのですかと聞くと、そうだという。
とにかくそれはとんでもない巨木で、大変なお金になったらしいというのである。

確かに日本各地で埋没林の話を聞いたことがある。
天変地異や自然災害で、何千年何万年と昔の森があっという間に地中深く埋没し、そのまま腐ることなく温存されて、やがてまた何らかの事情により地上で発見されるケースだ。

調べてみたところ、富山県内では魚津市の海岸線で発見された魚津埋没林が国の天然記念物に指定されるほど著名であるらしい。
この大沢野の山中でも、かつて巨大な埋没林が発見され、しかもゴールドラッシュならぬウッドラッシュが起き、さらには隧道まで掘られたというのか。


おじいさん!!!!! 熱すぎるぜ!! それ!






10:56 《現在地》

このおじいさんに出会っていなければ、ただ廃隧道が有りました有りませんでしたというだけの体験で終わっていたに違いない。
もちろん、声を掛けた自分も偉い(笑)けれど、とにかくおじいさんがそこにありましたことを感謝!!
ありがとう、オブの神様!!

おじいさんに二度三度頭を下げ、漕ぎ足にも自然力が入ってウキウキランランと進んでいくと、数分で雲行きが怪しくなってきた。
というか、浮かれすぎて隧道の現状を訊くことを忘れていた(あぅ)。
ただ、別れ際に「人しか通れないぞ」と言っていたので、当然あるものと安心しきっていた。

しかーし…

こ、この雰囲気は……。




なにやら、ちょうど隧道がある尾根の一帯で、大規模な採土事業が行われている模様。
私が通ってきた道はもちろんそのための道ではなく、別にダンプが出入りする道があるわけだが、しかし、何ともいけずぅな事に、隧道はその採土事業地に組み込まれている感じなのだ…。

かたわらには、引っこ抜かれて捨てられた「富山県」の境界標。
流石に県道を疑える状態ではないので、単に採土場の外が県有林だとかそんな意味だろう。
詳しくは分からないが、とにかく隧道の現存は絶望的と思われた…。


くそぅっ…。

伝説は、伝説のまま終わってしまうのか…。






否!

まだ希望はあるぞ!!

禿げ山にされた採土場と自然の森とが接する境界線に、一条の道がある。
しかも、草むしてはいるが、僅かに鋪装が残っていたりする。
明らかにダンプが通るような道ではないし、古い道の雰囲気だ。

しかも、なにやら凹んだ部分へと延びている…。




11:01

僅かばかりの轍も、ここで無理矢理切り返して引き返した痕がある。

つまりは、終点。


だが、私の目はごまかせない。

というか、オブの血を引くものならば絶対にこの奥が気になるはずだ。




ある。

そこには確かに道がある。

水の流れに形を変えた轍がある。

道を塞ぐようにして置かれたガードレールの、倒れ伏したるものがある。


もう間違いない。

この奥に、目指す隧道はある!
大字寺家の北端にあるから、寺家北隧道(仮)。
古老が教えた、一攫千金へのマネーロード。

私好みの正装…廃道姿を身に纏い、今その姿を見せる。






あったー!



たかが林道の廃隧道のくせに、こんなに俺を興奮させるなんて…ッ

悔しい…

でも、 嬉しいッッ!!



最近はこんな廃隧道に限らず、道はストーリーが一番オイシイと感じるようになった。
どんなに派手な遺構を見付けたって、そこに語るべき想いがなければ、その場で終わってしまう。

金沢や能登のことを、私は全く知らない。
だからこそ、余計にこの隧道が興味深いと思えるのだ。
隣の県という微妙な距離からやって来た彼らの目に、埋没林はどれほど魅力的であったのだろう。
そして、なぜ彼らが木を伐りだし、地元の人びとは関わらなかったのであろう。
そこまでのストーリーは分からなかったが、何だかとっても面白い。


そして、何よりも私が惹かれたこと、驚かされたことは…


数本か数十本かは分からないが、

巨大な杉材の儲けが、こんな隧道を穿つよりも遙かに勝っていたという、

今から70年前の経済性である。





この隧道、決して短いものではない。

地図読みでも250mほどあり、問題の県道にある3本の隧道のどれよりも長いが(ちなみに県道の隧道は昭和8年竣功)、現れた隧道はさらに長く見えた。

というか、出口が見えていたのには安堵したが、それにしても小さすぎないか? 光…。


それに、坑口中央を滝のように落ちる水柱が野性的だ。





【坑口前動画】

隧道はちょうど自然の谷を利用して、その谷底を掘るような無茶な真似をしている。
確かにこれだと隧道の長さを最短に出来るメリットがあるが、水分を多く含んだ地質と戦うことになるし、そうでなくても作業はし難いはず。
保守性も悪いだろう。

いかにも古い林道らしいというか、長くは使いませんという感じがする。
伐るだけ伐ったらサヨウナラの精神を感じるのだ。
まあ、道はどこの集落にも繋がっていなかったというのだから、そうなるのも無理はなかっただろう。

…これで良く、閉塞せずに残っていたものだ…。





だが、そんな作業然とした隧道であっても、山の神様、道祖神、地神、水神、産土神、…福の神?

どんな神様への祈りかは分からないが、ご加護を願うカタチだけはしっかり示していた。

そんな70年前の精神性も垣間見えてくるようである。

明治だって昭和だって今だって、ヒトはお金を前にすれば現金であった。
でも、昔はがむしゃらな中にも、厳然とした仕来りが生きていたのだと思う。
今その位置にあるものは技術性だろうか、或いは経済性に尽きるのだろうか。
せめてそこは、環境への配慮デスとくらいは言いたい。





似ている。

この前に見てきた、県道の3隧道に似ている。

県道の方は、一応現役なのでコンクリートが吹き付けられたり坑門があったりするが、中のサイズはこんなもんだ。
(そこを自動車が通っているのだから、もうレポートするまでもなく驚きなのだが…笑)


ただ、本当にこっちは長い感じがする。

250m先の光は、すごくちっちゃい。









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