神岡軌道 猪谷〜神岡間 第1回

公開日 2008.7.5
探索日 2008.7.3


これを書いている時点での昨日、2008年7月4日まで、私は『日本の廃道』での盟友nagajis氏と共に、飛騨の山中で連続4日間の廃道・廃線探索を行った。
そして、その中で最大の時間と労力をかけて解明を試みたのがこの「神岡軌道」であった。

神岡軌道は、大正初期から昭和40年代初頭にかけて、岐阜県北端に位置する神岡町から県境を越えて富山方面へと延びていた、軌間610mmの鉄道である。
その特殊な軌間が象徴するように、「神岡鉱山」の坑内軌道と連結する「鉱山鉄道」としての性格を濃くした路線であったが、交通不便な地域の足として利用されていた事も事実で、昭和24年以降は正式な地方鉄道として市販の「時刻表」にも記載されていた。

本路線の廃止は母体鉱山の閉山を待つことなく、並行する国鉄の延伸に追い立てられるように行われたことに特徴がある。
まず、国鉄飛越線(現在の高山本線)が富山側から猪谷(いのたに)まで開通した翌年の昭和6年には、神岡軌道として最初期の開通区間を含む笹津〜東猪谷間を廃止している。そして新たに猪谷と東猪谷の間に神通川を渡る連絡線を設け、輸送の便を図った。
戦前から戦中にかけてが神岡鉱山の最盛期であり輸送量も最大となったが、昭和37年には国鉄神岡線(猪谷〜神岡)の計画が本格化したことをうけ旅客営業を廃止し、同42年には最後まで貨物の輸送が続けられていた猪谷〜茂住間も廃止された。(ちなみに、国鉄神岡線→JR神岡線→3セク神岡鉄道→平成18年廃止)

なお、地図中では「神岡町」として一駅の表現をしたが、本線は市街輸送線としての性格も持っており、市街地に支線や多くの駅を持っていた。
また、神岡町内から浅井田までの8kmあまりの区間は、森林鉄道と接続する貨物専用線として昭和12年に開通、同33年まで利用されていた。


いかにも産業鉄道らしく目まぐるしくその起終点を変えていた神岡軌道は、名称も一定ではなく、後期には「三井金属鉱業神岡鉄道」というのが正式名であったらしい。
このなかで今回踏査を試みたのは、同時には存在しなかった区間もすべて合わせれば全長50km近い路線網の中にあって、その本領を最大限発揮したといえる「猪谷〜神岡町」のあいだ、おおよそ24kmである。

この区間は全線が神通川の支流高原川の右岸をなぞるように通っており、地域の動脈・国道41号が並行している。
しかし沿線の集落は少なく、地図が見せる地勢はかなり険しい。
廃止から40年あまりを経過した廃線跡の風化ぶりは、『鉄道廃線跡を歩く』にも一部明らかとされており、それは踏破の困難を十分予感させるものであった。
そして、その全貌をこの目で確かめたいという以前からの願いは、かつてない強力な仲間とのタッグオブローディングの舞台として、この地を私に選ばせたのであった。

参考文献:『鉄道廃線跡を歩く〈8〉 JTBキャンブックス
参考URL:『40年前の鉄道風景』さま http://6.pro.tok2.com/~haasan55/kamioka.htm
wikipedia 神岡軌道』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B2%A1%E8%BB%8C%E9%81%93




出発 そして軌道跡との遭遇 

JR高山本線 猪谷駅


《現在地》

今回の踏査計画は、丸一日で猪谷から神岡までを踏査するというものであった。
探索の足は、自転車と徒歩を現地の状況に応じて臨機応変に使い分けることとした。また、連泊探索のベースキャンプとなるエスクードは、この日は猪谷駅付近に留置していた。

それではさっそく地図を見ていただきたい。
最新の2万5000分の1地形図に、今回の探索で判明したルートを赤線で示している
しかし、正確性は保証でき無いことをあらかじめお断りしたい。
というのも、今回の探索前に手に入れることが出来た基礎資料は、前書きで参考資料としてあげた『鉄道廃線跡を歩く8』(以後『鉄歩』と略)掲載の「20万分の1地勢図」と、別途購入した昭和22年修正版の「5万分の1地形図」という、いずれも小縮尺な地図のみであった。
これでは細かなルートは分からず、現地で発見した廃線跡と思しきラインを都度地形図に落とし込みながら、探索を進めることとなったのだ。

前置きが長くなった。
猪谷〜東猪谷(約2.5km)は、昭和5年の国鉄飛越線の猪谷延伸開業の翌年、元来の笹津〜東猪谷間を廃止して代わりに新設された区間である。
この区間の特色としてはなんといっても、全区間中でただ一箇所神通川を渡る大橋梁の存在があった。
『鉄歩』の記述も猪谷駅と神通川橋梁、そして東猪谷駅の3地点に関して触れているのだが、これらを結ぶ途中の区間についてはほとんど言明されていない。
我々の探索の目的は、点ではなく線としての廃線解明にあった。

しかしこの目論見。
最初の段階から、いきなり暗雲の立ちこめる展開となったのであった…。







2008/7/3 7:56

JR高山本線の猪谷駅構内を北望している。
レールバスのような小さな気動車が、数人の高校生と運転士だけを乗せて、いままさに発車しようとしているところだ。

駅本屋と島式ホームの距離が、かつてここが主要なターミナルであった証と言える。
神岡軌道の後を継いで神岡への鉄道輸送を担った“神鉄”も廃止されたいま、ここは本線と名の付くくせに地方交通線に指定されている高山本線の、一通過駅になってしまった。

我々が辿るべき神岡軌道だが、この広大な構内右側の空き地および団地付近に乗り場があって、神岡へ続く610mm軌間のレールが発していた。




「飛騨合調」と銘打ったこのたびの合同探索の相方、nagajis氏である。
彼はこの日で家を出てから既に6日目。私は4日目であった。
二人が岐阜県高山市内で合流し、互いがプロデュースする探索を課し合いながらの合調は、これで3日目となる。
そしてこの神岡軌道は、今回の合同調査のトリを飾る予定の、最終ターゲットでもあった。

二人は、事前情報の極端に不足した道行きと、やや怪しげな雲行きに不安を憶えながらも、初めて来る土地の空気にそれ以上の期待を感じつつ、一日を乗り切るための装備をテキパキと整えていった。
そして、構内の列車が出発していった少し後、我々も駅前から北へ向けて漕ぎ出した。




『鉄歩』によると、かつて神岡軌道の猪谷駅があった跡地に建てられているという社宅。
並んで2棟建っており、廃墟とはいわないまでも、入居率は極端に少ない様子。

一棟の壁面には、「神岡鉱山」の生産スローガンが巨大な垂れ幕となって掲げられていた。
この猪谷駅が三井金属工業神岡鉱山にとって重要な地点であることは、平成17年に硫酸類の鉄道貨物輸送を中止するまで軌道時代からの伝統であった。



駅を出てから神通川を渡るまでの数百メートルには、軌道時代の遺構と断定できるものは見出せなかった。
駅周辺の地形は神通川へと落ち込む西高東低の片勾配になっており、そこに高山本線と旧国道および国道41号がこの順序で並んでいる。
わずかな隙間に猪谷集落の民家や商店が並んでいるのだが、合間に人工的な擁壁が多く見られるほど急峻で、状況的に考えると神岡軌道の線路も高山本線と同じ築堤上に置かれていたと考えられる。
すなわち、写真前方のクズの茂みに覆われた築堤がそれであろう。(これは高山本線の線路敷きでもある)





 神通川大鉄橋と、舟渡地区の軌道跡


「大鉄橋」として親しまれ、本線の象徴的光景となっていた神通川橋梁だが、残念ながら今日その勇姿を目の当たりにすることは出来ない。
橋は既に解体されており、下流の神通第1ダムによって水位の上がった水面上に、そのとてつもなく巨大な橋脚の基礎を残すのみである。
しかし、河原近くまで降りて確かめると分かるが、この橋脚基礎の大きさは本当に尋常なものではない。

いったいどれほど大きかったかといえば、建設当時のいまよりも低い水位に対してではあるが、レール面が水面上57mの位置にあったという。
目もくらむどころの高さではなかっただろう。
この高さで橋は川だけでなく谷全体を一挙に跨いでおり、対岸の杉林となっている高台のてっぺんが東猪谷側の橋台であった。
その橋長は、なんと294mと記録されている。



これは『鉄歩』に掲載されていた、鉄橋の貴重な写真。

4本のトレッスル橋脚(写真に写っているのは2本だけ)によって、上路プラットトラスが支えられるような構造に見える。
橋脚は均等に配置されてはおらず、カンチレバートラスのような片持ち梁の構造も印象的である。

確固たる根拠もなくこのようなことを書くのは乱暴かも知れないが、おそらく、日本にかつてあって現存しない交通工作物のなかで、歴代十指に入る巨漢だったのでは無かろうか。

40年前までは確かに存在していたものが、現地に一枚の案内看板さえ残さず消えてしまったことが、惜しまれる。




猪谷側の水面上に現存する橋脚基礎の拡大写真。
比較対象物が写ってないので分かりにくいかも知れないが、これだけでアパート数軒分以上はあるだろう。

この地点に軽便鉄道としてはあまりにも大仰と思われる橋が架けられた事は、猪谷駅も東猪谷駅もともに水面から数えて第二位の河岸段丘上にあって、谷底から50m以上の高低差があったという地形的な必然性の他に、当時の筆頭株主である三井金属の潤沢な財力と、この路線の将来性に対する期待の大きさが認められるだろう。
また、この橋を実際に架設した清水組の技術力の高さも特筆されるものがある。

我々の軌道探索は、予期していたとはいえ、いきなりの進路消失という事態になった。




8:04 《現在地》

鉄橋を渡った軌道は、以後神岡までずっと、神通川およびその支流である高原川の右岸に沿っている。
また、岸に沿っているとは言っても、大部分が並行する国道よりも高い山腹寄りを通っていた。
特にこの東猪谷付近が最も水面からの比高が大きく、鉄橋の500mほど上流に位置する「神峡橋」から東猪谷側の山腹を見ると、横断する軌道のラインを見ることが出来た。(画像にカーソルを合わせると、黄色いラインで軌道跡を表示します。なお、以後の画像も赤枠のものは全て同様です。またラインの矢印は「神岡」方向を示します。)

軌道はこれほど高い位置を通っていたのであって、鉄橋の大きさも改めて認識される。




私とnagajis氏は、連日の探索で朝から疲労の溜まった足に気力という鞭を叩き、神峡橋の架かる第一位の段丘面から第二位のそれへと急坂を登った。
そして数分後、大鉄橋の東猪谷側たもと付近と思われる水田地帯に到達した。

この辺りは、『鉄歩』にも触れられていないのでどうかと思っていたが、案の定遺構らしい遺構は無い。
奇麗に区画整理された水田が広がっており、写真に示したような軌道跡のラインを想定するものの、確信は得られない。




上の写真の右に延びる農道上から、軌道の進路方向である神岡方面を写したのが右の写真。

おそらく前方の民家の敷地あたりを軌道は通って、笹津へと通じていた旧線と奥の山裾辺りで分岐していたものと思われる。

どうにも歯切れの悪い成果で申し訳無いのだが、このとき辺りに人影もなく、これ以上調べられなかったのが悔やまれる。




上で“奥の山裾”とした部分には、実際に軌道跡らしき細長い平場が現存していた。

この笹津側延長線上の田圃に接する部分では、農業用水路用地として開渠が通され軌道跡からの転用を臭わせた。
また、写真の辺りで猪谷連絡線が笹津への旧線から別れていたのではないかと想像するが、あるべきスロープ状の築堤などは見当たらなかった。
いずれにしても、これより神岡側は一挙に急斜面に変わっており、2本以上の平場が近接して平行できる状況にはないので、分岐はこの辺りと見て間違いないだろう。

我々は自転車を近くの農道に停め、廃道となった軌道跡への一歩目を踏み出した。





先ほど神峡橋から登ってきた急坂の法面上に、軌道跡と想定される細い平場が続いていた。
なおその地中には水路が暗渠として通されている気配もあるが、地上部分の荒廃はご覧のとおりである。

…とても、あの大鉄橋を有した同じ路線とは思えない光景だ。




なおも細道は山腹に沿ってほぼ無勾配で続いている。
状況証拠的にこれが軌道跡ということで間違いなさそうだが、レールや枕木といった明らかな遺物は無い。
そもそも、礎盤が土砂や植物に完全に覆われ確認できない状況である。
地図を見る限り、神岡軌道にとってここが特別な風景とは思われないだけに、初っぱなからこれでは先が思いやられるというのが本音であった。

自転車と一緒に進めない廃線跡が多発すると、必然的に行動は往復を前提にしなければならなくなって効率が著しく低下する。
そのことも、私の心を重くさせていた。




だが、100mほど進むと石垣(←)やコンクリートの擁壁(→)が、いずれも路肩の下に現れた。
特に前者についてはかなり古びている。
シダや苔に覆われた空積みの石垣である。

しかし、いずれの場面も足だけではなく、手も使わなければ恐ろしくて進めない危険地帯だ。
取りあえずこの道が軌道跡であることは間違いなさそうだが、いきなりこの荒廃はどういう事だ。

正直「キター!」の声をあげる気にはなれない、トゲトゲした発見。
それが、神岡軌道とのファーストコンタクトの印象だった。




300mほど荒れた道を進んだ地点で、やや路盤は平穏を取り戻したように見えた。
そして、その先にもなお草生した道が続いているのだったが、二人はここで、普段から考えるとやや不可解な決断をする。
一時撤退を決定したのである。

しかし、これにはやむを得ない事情もあった。
時間や体力(特に前者)が無限であるならば、24km近い踏査区間の全線を通して歩いてみたかった。
だが、1日でこれを成し遂げようと言うことは、完全踏破をはなから諦め、橋や隧道の現存可能性が高い部分を重点的に探索するという事を選ばねばならなかった。

これは、こと廃道に関しては完璧主義を標榜する我々にとって苦肉の選択であったが、いきなりの激しい荒廃と危険な斜面の連続でチャリを置き去りにしなければならなかったことにより、復路を気にして弱気の芽が出たのも事実だった。
このペースでは、24kmを踏査するのに3,4日はかかりそうだったのだ。

ちなみに、ただ無為に撤退したのではない。
最新の地形図には、ここから200mほど先の軌道延長線上において実線の車道の記号がある。
そこを次なるターゲットとして考え、チャリへ戻ったのだ。




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舟渡〜東猪谷


8:40 《現在地》

我々は市道を迂回し、舟渡地区の裏手山裾を通る軌道の続きへと向かった。

段々に仕切られた水田の合間を縫うように、舗装路と畦道が通っている。
我々は少しでも早く軌道跡へ復帰すべく、畦道を駆使して斜面を登っていった。

軌道跡が近づいてから振り返ると、写真のとおり対岸に猪谷の街並みが一望された。
軌道は神通川橋梁や先ほど少し辿った区間を経て、既に猪谷駅の高さからだいぶ登りつつある事が分かる。
地図で見ると猪谷駅の海抜が約220m。そして、次の東猪谷駅は250m付近にある。なお、目的地神岡の町は約400mの所に位置している。



すばらしく鮮明な軌道跡が我々を出迎えてくれた。

やはり水路が埋まっているのだろう。
ほとんどの水田が軌道敷きよりも下位に位置することからも、そのように考えられる。





チャリでも走れそうな軌道敷きに出会えて一安心。
これでようやく地に足が付いた気持ちで探索できそうだと思った。
まずは先ほど前進を断念した地点の続きを求め、猪谷方向へと軌道跡を戻ってみた。(写真奥方向へ進む)




軌道に復帰した地点から300mほどは軽トラも通るらしく、路盤には2本の轍が続いていた。
全く不安のない、快適な林間の道である。




そして、最後は鉄塔巡視路の急な踏み跡を右に分けて、軌道敷きは藪に没していった。
だが、藪の先には右に切れ込んだ小さな谷が存在している。
これは地形図にも鮮明に表現された谷で、軌道には橋が架けられていた可能性がある。

期待しながら、藪の中を進んでみると…。




 「おーっ!」


小さな歓声が二人からあがった。
初めての新たな発見らしい発見だった。

そこには、谷を挟んで対になったコンクリートの橋脚がはっきりと見て取れた。
この向かいの杉林の中を100mほど進んだ地点が、先ほどの撤退地点である。
取りあえずこれで一本のラインが繋がったことになる。

橋の現存はやはり難しいのだろう。
落胆が全くないではなかったが、こればかりはやむを得ないことだ。




橋のたもとで引き返し、再び東猪谷・神岡方面への進路をとる。
路盤は堅く締まっており、チャリでの走行に何ら障害とはならなかった。
廃線跡らしく勾配が緩やかなのも嬉しかった。
なんとなく嫌なムードから始まった神岡軌道探索だが、これでようやく“軌道”に乗れそうである。

やがて「野仏の道」と銘打たれた市道が、右下から軌道跡の農道へ合流してきた。




「野仏の道」となった軌道跡は、またすぐに別の市道を右から合わせた。
写真の地点である。

この地点には、軌道がかつて直進していた痕跡がある。
右写真のなかで黄色く囲った部分に、半分埋められたような橋台の残骸があるのだ。
これで少なくとも三本目の橋ということになる。
なかなかいいペースである。

橋の跡を過ぎるとまた「野仏の道」と重なるが、今度は発電用水路を渡る。
しかし、そこには軌道跡の橋は痕跡さえ認められなかった。




おそらく水路を渡った後の軌道は、急坂となって下っている市道からは外れ、この発電水路沿いに進路をとったのではないだろうか。
民家と水路との間には一定の隙間があり、また自転車が通れるくらいの平坦な踏み跡も続いている。
その可能性は大きい。(写真は振り返って撮影)





 東猪谷駅跡


この辺りが東猪谷の集落である。


軌道跡は自然に集落道の一部となっていた。
ちょうど集落と山林を隔てる位置を一本通っている感じで、所々に築堤を設けてあるのもいかにも鉄道らしい。

間もなく『鉄歩』の記述によれば東猪谷の駅跡が現れそうだが、発見できるだろうか。
掲載されている写真があまり特徴のない風景だけに、不安であった。





9:02 【現在地:東猪谷駅跡】

道沿いに民家が途絶えた辺りから、なぜか路傍の草地がかなり広々としていた。
そして、山側には空積みの石垣が長々と続いていた。
そのような状況の中で、「見たことのある光景」が現れた。
『鉄歩』で見たそのまんまの、東猪谷駅跡の風景であった。

掲載されている小さなモノクロ写真が撮影されてから8年ほどは経っているはずなのに、一目見て同じ場所だと分かった。
特徴の薄さがむしろ特徴のような景色だが、余りに変化のない姿に、生きているでも死んでいるでもないような廃線跡車道の微妙な空気が感じられた。

ともかく、ここまで300mほど続いていた路幅の広い区間は、既に駅構内だったのである。
610mmという、林鉄よりも遙かに狭い軌間に似合わず、橋も駅施設もなかなか立派なものであったことが窺える。




傾いたコンクリートの標柱には、はっきりと「東猪谷駅跡」と書かれている。
我々が今回辿った区間の中で、神岡軌道に関しての数少ない記念物の一つがこの駅跡だ。
実際に乗車したことがあるという世代も徐々に歳をとり、今後は急速に忘れられていく定めの神岡軌道にとって、単なる草むらに過ぎない空き地ではあっても、その存在を明確にする貴重な記念地といえるだろう。




東猪谷の次の駅は、茂住(もずみ)。
一挙に5km近くも離れて、途中で岐阜県境も越える。
茂住は神岡鉱山の主力坑道があったところであり、神岡軌道で最後まで残っていたのも茂住〜猪谷の間の貨物輸送であった。

今回は24kmの踏査目標内に合計3箇所の是非攻略したい“ハイライトシーン”があったのだが、東猪谷と茂住の中間に位置する横山地区の軌道跡は、そのうちの一つであった。




ようやく端緒についた神岡軌道探索。

駅を過ぎても、簡易舗装の軽車道となった軌道跡は、鉄道らしい緩やかなカーブを連ねながら、集落より一段高い山腹に続いていた。
そして、駅から200mほどの地点で、道は二手に分かれた。
最新地形図に掲載されているのは左の道で、直進は記載がないが、勾配からみてこれが軌道跡なのだろう。
その行く手は隧道のように薄暗いが、これは木陰のトンネルである。

なかなかいい雰囲気だ。




上の写真でトンネルのように見えていた木々の隙間へと入っていく。
ここまで来て気がついたが、木陰の向こう側は村の墓場だった。
軌道跡と思しき小径は、まっすぐ墓場を突っ切るようにして先へ続いているのだった。
610mmという極端に狭い軌間だからこそあり得た、何とものどかな鉄道風景が想像された。

そしてこの墓場の入口には、勢いよく清水が湧いていた。傍らには柄杓やヤカンも。
この日も朝から気温が高く、早くも25度を超えようとしていたので、私は清冽な水を口に含むべく、チャリをとめてしゃがみ込んだ。

その直後。





「水道あるやん!」



という、後ろからやってきたnagajis氏の、上ずったような声。


私は思った。


…水道じゃなくて、湧き水でしょ?…


怪訝そうな顔をする私に対し、nagajis氏は「ちゃうちゃう」とでも言いたそうな表情。
そして、左の方を指差すのだ。

私から見ても左。

湧き水の裏手の、上の写真の左の暗がりを…。


えらく興奮した表情で。







隧道すいどうあるやん!」

隧道ずいどうだー!!」

なんと、二枚上の写真では死角となっている影に、堀割と隧道の坑口が存在していたのだ。
しかも、明らかにこの軌道向けにあると思われる、小さなサイズの、林鉄さながらの坑口。

nagajis氏は普段から隧道を「すいどう」と発音するのである。
それを勘違いしたのは私だった(笑)。
ちなみに、隧道の読みは「ずいどう」「すいどう」どちらも正解である。




しかも…。





無施錠フリーダム



最新の地形図はもちろん、昭和22年の5万図にも、『鉄歩』にも記載のない隧道を……発見?


この正体はいったい??


そして、内部の状況は如何に?





神岡軌道の未知を探る旅が、いま始まる。







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