田代隧道   その1 
公開日 2005.12.26



 ヤマの夢
 2005.10.9

1−1 本邦一大鉱山


 日本に結局「神風」は、吹かなかった。
しかし、戦争とともに生まれ「神風鉱山」と呼ばれた“ヤマ”は、戦後も暫し生きながらえ、八甲田の奥山に幾つもの人の生を重ねた。

 このレポートは、主に戦中に開発され、本邦随一と称えられた上北鉱山。
かの山間僻地鉱山に働き暮らす人々が、完成を希った隧道の、その現状をお伝えするものである。




 上北鉱山は、青森市の南東に25kmほどの山中に位置し、天間林村に所属する。(現在は町村合併により七戸町)
八甲田連山の北方に深く刻まれた大坪川の源流部に、幾つもの坑口が口を開け、広く鉱山街が形成されていたが、昭和48年6月に全山が閉山している。

 上北鉱山の歴史を簡単に紐解いてみる。
開発が始まったのは比較的遅く、本格的に稼働を始めたのは昭和16年頃からである。
当初硫化鉄鉱を産し、これが窒素肥料の原料となることから、食糧増産の国是に従い急速に開発は進んだ。
間もなく高品位な銅鉱床に逢着し、開発開始から僅か三年目の昭和19年には黄金期を迎えた。
その当時、従業員は1500人を超え、鉱山街の人口も5000人を超えていた。銅の月産量は1400トンに達したと記録され、日本最大の鉱山として「神風」鉱山などと呼ばれていた。
 国情を極めて強く反映した開発に特徴のある本鉱山の歴史で忘れてならないのは、開発当初から多くの朝鮮人が労働し、終戦間際の昭和20年には俘虜収容所もこの地に設置され、米国兵を中心とする捕虜達が強制的な労働を強いられた事である。
 戦後は国土の復興に開発の目的は変わったが、昭和30年代には選鉱場などの設備が増強されたこともあり、鉱山としての絶頂を迎える。
大坪川の両岸には社宅が折り重なるように建ち並び、公衆浴場や学校、病院などの他に、映画館さえあった。
 しかし、昭和40年代にはいると国情の変化や資源の枯渇により急速に失速し、昭和48年にその33年足らずの歴史に幕を閉じたのである。

 饗宴の過ぎた同地に残ったものは、無数の廃墟と、鉱毒問題だった。
現在も、鉱山跡地では鉱毒処理の中和施設だけがひっそりと稼働を続けている。
 青森と八戸を結ぶ山間のハイウェイ「みちのく道路」が傍を通っているが、近くにインターチェンジはなく、彼の地へ向かうには長い砂利道を 揺られねばならない。

 かつて栄華を誇った“ヤマ”が夢見た、青森市へと直結する隧道。
その夢の跡を追って、2004年12月。
雪に閉ざされつつある現地へ、私は一人 旅立った。



12:00

 師走も16日、例年より降り始めの遅かった雪もいよいよ、里へ向かって大行進を始めていた。
青森駅にて輪行を解いた私は、行く手の山の白さに気圧されながらも、最短距離を狙って冬期閉鎖の県道40号線に突撃した。
途中案の定“押し”を強いられはしたが、正午にはなんとか最初のチェックポイント、「雪中行軍遭難者銅像」に到着。
冬期閉鎖ゲートをすり抜け、除雪された区間へと躍り出た。
八甲田環状道路の一環を成す当地は、登り始めの幸畑から13km地点、海抜は700mに達している。
背後に写る雪雲を抱えた高峰は、八甲田連山の最高峰、高田大岳(海抜1570m)である。

 遭難者像から4km。
引き続き県道40号線を東へ走ると、再び分岐路。
直進すれば十和田方面だが、私は左へと折れる。
八甲田温泉がある田代平入口である。
控えめな看板が立っている。




 曲がるとすぐに、警告色の標識が細々とした文字を路傍に並べていた。
そこには、大別して二つの事が書かれていた。
一つは、この先の冬期閉鎖について。(冬期閉鎖期間は11/24〜5/24と滅茶苦茶長い。半年だ!)
もう一つは、この先の道があんまり良くないぞっ と言う警告だ。
その文章を全文引用してみよう。

注意!!
この先4km地点から 道幅の狭い砂利道です。
通行の際には、 運転に十分注意してください。


 道路系サイトに足繁く通っている読者さんなら、この道を知っているかも知れない。
名前を言えばピンと来るかも。

後平青森線 である。
県道番号は242番。
地図上のこの道は、確かに怪しい。興味をそそる。
なにせ、県道色に塗られた細い道が、八甲田北麓の無名の峠をグネグネと越え、みちのく道路のブルーのラインと絡み合うようにして天間林村後平に抜けているのだ。
しかも路線名には、県庁所在地の名前が入っている。どう見ても田代と後平を結んでるだけなのに。だ。



 路傍には、巨大な石碑。
碑面には金色の陰刻で堂々と 『第四中隊之碑』。

 観光ガイドにも名前だけは載っているこの石碑は、例の雪中行軍関係と混同されがちだが、実は全く関係はなくて、戦争から帰還した同地出身の戦役者達が建てた物らしい。

悲壮な最期を遂げた『歩兵第五連隊』の石碑のまわりにはお土産屋が建ち、観光バスが横付けし、ニッコリ笑顔で石碑と一緒にスナップを撮る観光客達。
一方、場所柄か、不幸にも混同されることしきりなこの石碑。
枯れ草の原に鎮座まします様は、はるかに高尚で、威厳ある姿に見えるのは私だけか。



 南を八甲田山、北を丘陵状の山地に挟まれた小さな盆地の田代平。
かつて入植達によって開拓が試みられ、樹海と湿原から変貌を遂げた田代平の景観も、再び元の原野へと戻りつつあるかのようだ。
現在も定住し続けている人は僅かで、空き家や廃屋、もしくは無人の別荘のようなものが、ぽつんぽつんと、広大な草原の中に点在している。
八甲田温泉の旗を掲げる旅館も、どんどんと少なくなってきている。
また、温泉地の一部は将来、田代ダムによって水没する危機にも瀕している。

 目指す上北鉱山は、目の前の山の向こう側にある。



1−2 荒涼たる開墾地

12:13

 真っ直ぐ伸びる立派な舗装路のわき、背丈よりも成長した笹藪に埋もれつつあるサイロの廃墟。

「荒涼」の2文字より相応しい言葉の浮かばぬ、そんな景色が、ここ青森市の一角にある。




 青森市街からここまで辿ってきた道(県道40号線、県道242号線)もまた、上北鉱山の見た“夢”のつづき。
その開発と住民の利便のために、県が開発を進めた道である。

そして、その最大の関門である隧道は、
眼前の山の中に、いまも、のこっているのだ!


 この県道に入って3kmほどで、ご覧のようなやや大仰な冬期閉鎖ゲートが出現した。
見たところ、前方の山並みは高いところの所々が白い程度で、真っ直ぐに伸びる道は秋のままである。
こうしてレポを書いている2005年の冬が、12月に入って早々、山も里も一様に真っ白にになったのとは雲泥の差。
ともかく、2004年のこの日は、冬期閉鎖が馬鹿げて見えるほど、雪はまだ少なかった。

 なお、この先の冬期閉鎖区間は標識によれば25kmにも及ぶ。



 しかし、やはり日影には数日前の積雪がうっすらと残っており、チャリでの進入を躊躇わせるには十分であった。
どこか日本離れしたような稜線の景色が近づいてくる。
スカイラインが妙にくっきりしており、空気がいかに清澄であるかを物語る。

 このどこに、鉱山への隧道があるのか。
私は決定的な情報を持たぬまま、県道の傍の何処かだろうという程度の考えでいた。
その坑口まで、バスが通っていた実績もあるのだ。
県道を辿っていけば、何処かにその痕跡を見つけられると考えていた。

 そして、まず始めに分け入ったこの写真の分岐は、結局誤りで、10分ほどを無駄にして終わった。


 山裾に向かって一直線だった舗装路が、森に入ると同時に未舗装になる。
そして、未舗装になると数日前の雪が解けることが出来ず、路面を薄く覆っている。
チャリで進めないほどではないが、その疲労度は普通の砂利道の倍では効かず、一刻も早く隧道を発見したい気持ちになった。
しかし、ここにもそれらしい分かれ道はなく、真っ直ぐ進むより無かった。

 林道ライダーや荒れた県道が好きな人たちに人気の、本県道の長い長いダート区間(みちのく道路までの14km)は、ここから始まる。
もし、隧道の話を知らなければ、このレポもただの県道レポとして世に出たに違いない。



 砂利道になって200mほどで最初のヘアピンカーブが左に折れるが、ここに待望の分岐地点を発見。

さきほどの失敗ルートのように、此方の分岐も入ってすぐの場所に赤い金属製のゲートの支柱があり、同じように種なしな気もしたが、まわりに人影もないことから、一つずつあたっていく以外に手はなく、後輪を激しく横滑りさせながら、この小道へと進入した。

 なお、県道はこの先登り2km、下り3kmの峠区間となる。
もし隧道を貫通できれば、再び県道へと脱出できるはずだ。
(というか、この積雪量では、隧道をチャリで突破できねば、かなり路頭に迷う予感がした。)



1−3 雪原にみたもの

12:34

 この脇道は、良い具合に少しくぼんだ沢地へ遡り始めた。
もし、私が隧道技師ならば、この沢の上流に掘削するだろう。
そうイメージを重ねながら、足元の悪い道で衰えるテンションを保ちつつ、ザックザックと進む。

 これが正解なら、この道はワンマンバスが通う生活路だった。
隧道は、昭和32年に完成した、比較的新しい道なのだった。



 いくらか進むと、山間に開けた小さな荒れ地に出た。
幾つもの深い轍が刻まれた路面は、土と泥に支配されとても走りづらい。
しかし、はっきり言って隧道がありそうな地形には到底見えない。
この程度の山並みならば、鉄道でもない限り登って降りて、まさに今の県道のような道でも用は足りるように思える。

 だが、そうも行かぬ事情があったのだ。上北鉱山には。

積雪である。

数千の人間が暮らす街ひとつが、冬期間はほとんど陸の孤島となっていた。
これでは、鉱山を掘るなどという重労働が可能なはずはない。

 そこで、この山の向こうの上北鉱山では、様々な冬期の交通手段を検討し、実現させていた。

 鉱山に最初に現れたモータリゼーションは、鉱山から大坪沢に沿って千曳まで下る鉱山軌道だった。(参考写真:「上北新聞」昭和30年6月号より転載)
この鉱山鉄道は、昭和11年頃に敷設されたもので、鉱山の閉山間際まで利用され続けたようである。
その道筋は、現在の県道にほぼ一致する。
冬期間はその軌道敷きの上を馬橇で細々と交通していた。
 次に現実となったのは、昭和30年12月より運行された、雪上車である。この雪上車は、今日の私が辿ってきたのとそっくり同じルートで、青森市街まで運行されていた。
鉱山から、九十九折りの県道を越えて田代平に出て、今の県道40号線のルートで青森市街へ降りたのだ。
片道1時間半で結んだと言うから、当地の冬期交通にとって非常に画期的な出来事だったと思われる。
 また、これらとは別に、年中稼働していた交通手段として、鉱山から青森市の野内へ延々19kmも伸びていた鉄索(索道)もあるが、これは物資輸送に限られていた。
 天間林村と青森市の間の山岳を「みちのく有料道路」が3kmを越える長大トンネルを持って昭和55年に開通する以前には、鉱山から青森市へと抜ける直接の方法は、徒歩で峠を越えるよりなかったのだ。
故に、田代平を経由して青森市へ抜ける、やや遠回りなルートが、唯一の交通の突破口と思われていた。

 季節を問わず青森市へ安全に足を伸ばす手段として、峠の隧道は計画され、昭和30年に掘削が開始されている。


 『上北新聞(昭和30年12月号)』は、隧道掘削開始の報を、やや興奮気味に次の見出しで飾っている。

将来は新交通路の(至青森市)の関門

 その記事には次の下りがある、
隧道は(中略)現在計画中の青森市に至る新路線の一部を成すものであるが、(中略)田代平間の産業道路新設が許可され、田代平〜幸畑〜青森市間の県道が整備されれば、青森市までのバス運行が可能になり、色々な面で我々の生活におおきな明るさをもたらすことになるだろう。

 隧道は、ゆくゆくはバスも通すつもりで掘っていたのだ。

しかし、現在の県道は雪上車が越えた峠を未だになぞっている。

隧道は、どうなってしまったのだろう?



 荒れ地の中に続く、雪に埋もれた泥道を、県道から300mほど進むと、写真の広場で行き止まりとなった。

また道を間違ったかと思いかけたが、よく見ると、奥の日影になにかある。

赤いタンクと… その奥にある櫓のようなものは?

 

 赤いタンク、そして、朽ちかけた櫓。


やはり行き止まりなのか?





 
 おあふぅ!


 あ、穴だ。

 穴が開いている。

櫓の中に、地の底へ続く穴が口を開けている!



1−4  見てはならぬ その内部

12:43
 
 嫌だ!

この隧道ははっきり言って、嫌すぎる!

もし、勝手に入って人が死ぬとしたら、きっとこんなムードの場所だよ。

野晒し雨晒しは廃道の常、荒廃も廃道の味ではあるが、これは…。

私が考える廃道のイメージではなく、 廃坑だろこれ!

廃坑はタブーだって。
しかも、廃坑で一番私が恐れる、酸素に関する問題を…

 こうもあからさまに提示されたら…


無理無理無理!
ムリだって。

これ、本当に死ぬかもしんないもん。
酸素不足は、技術でどうこうなるもんでないって。
まして、絶対に抜けてやるなんて言う覚悟で対処できるわけもない。
酸素が薄けりゃりゃ、有毒ガスがそこにありゃ、人は意志に反して簡単に死ぬ。

山行がは死ぬための冒険ではない。

そーだろぅ、みんな!

 シ〜〜〜ン…


 うわーーーー。
ヤバイ!

 俺の後ろに誰もいないし。
一人だし。
こんなまずい場所へ、一人で来ちゃったし。
足元にレールあるし(涙)

 ヤバイって、絶対に山行がでレポしたらダメだって。
これ、入ったなんて、ぜったい「もーね、あほか、バカかと」って言われちゃうって。


 …正直、私はこの鉄パイプで抑えられただけの蓋が、施錠されていることを願ってしまった。







 逡巡すること2分と15秒。


 2004年に置いて行きたい、究極の愚か者。

 
 入
 洞  ス。
 






田代隧道、 のこり全部









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