『ごくろうさんでした』 というと、
『ヤアー!』『ヤア!』 いかにも嬉しいといつた声が返って来る。
『こんなにぴつたり合つた隧道工事は、初めてですヨ。』 誰かがいつた。
昭和32年3月6日、早朝。
こんなやり取りが、この場所で行われたらしい。(『上北新聞』昭和32年4月号より)
田代側坑口から約600m入った辺りは、完全な素堀のままの姿である。
そして、当時の工事記録に拠れば、鉱山側と田代側の両方から掘り進められていた隧道が一つになったのもまた、この辺りである。
そう言われてみれば、上の二枚の写真の岩肌の様子は、同じ場所のように見えなくもない…。
全長1800mにも及ぶ隧道を、2年弱の期間をかけて掘削し、途中何度かの落盤事故に見舞われながらも一人の負傷者も無かったという。
そして、遂に一つに繋がってみれば、なんと驚く事なかれ、その両側の切羽の誤差は、わずかに5ミリだけだったと言う。
現在のようにコンピュータ制御のマシーンが掘り進めたのではなく、ヤマの男達の手作業である。
ピラミッドやナスカの地上絵も確かにすごいが、この誤差が事実なら、タシロズイドウも世界の不思議遺産なのでは?!
13:08
素堀の区間は長くは続かず、再びアーチ状の鉄筋によって覆工されている。
しかし、どう考えても今度は天井が低い!
記録によれば、隧道は幅・高さとも2.4mということになっているが、実際には部分的に天井が高かったり低かったりというのが相当にあるようだ。
大人が立って歩けないほどの高さの部分もある。
チャリを押して歩くという姿勢のため、幸か不幸か天井に頭を打つことはなかったが。
さらに進むと、またしても、あの問題が再発し始めた。
洞床の泥沼の問題である。
この写真の場所のように、送泥管と書かれたパイプはある。
だが、まるっきり稼働していない。
そればかりか、腐食したパイプは所々で途切れ途切れになってしまっている。
ふたたび、足元には深い泥濘が現れだした…。
またも素堀に逆戻り。
それは良いのだが、進むほどに足元は悪くなる一方。
隧道内部に体感できるほどの勾配はなかったが、この先進むほどに下っていくのだとしたら、いずれは本当に歩けないほどの泥沼となってしまっているかも知れない。
そう考えると、堪らなく不安になる。
身軽ならばまだいい。
いまは、チャリを押している。
これで引き返しなどといわれたら、正気を失うほどに辛いだろう…。
ゴツゴツとした岩壁は、いつしか白から、
赤に変わっていた。
こんなに異様に赤い壁は、これまで見たことがない。
まるで、血の通う肉のような色だ。
地球という体の胎内洞窟をイメージさせた。
この色の原因は、一般的な泥ではなく、鉄や銅である。
硫化鉄と銅鉱石の生産で日本一といわれた時期もある上北鉱山の鉱床を、どうやら隧道はかすめているようだ。
隧道工事の意義を解説する当時の新聞記事も、交通の便としての意義を第一としながらも、探鉱という目的もあったことを隠してはいない。
13:11
異形の造形と変化した隧道。
はっきり言って、洞内のどこの壁にも手を触れたいと思えない。
指を伝って体内に有毒な物質が侵入してくるのではないか?
…そんな馬鹿げたことを考えてしまう。
ねっとりと車輪に絡み付く泥。
浅くなったと思えば、また深みが現れる沼。
こんな朽ち果てたレールを、本当に列車が運行していたというのだろうか。
荷物を運ぶようなトロッコならいざ知らず、記録に拠れば、この隧道には客車が通っていたのだ。
現状を見る限り、とても信じられないというのが本音だ。
まるで、坑道。
それ以下でも、それ以上でもない。
なのだが、本当に旅客運行をしていたという証拠は豊富に記録されている。
例えば、今回何度も登場している『上北新聞』(昭和33年9月号)には、33年の8月12日から隧道内に客車が運行されているとの記事が写真付きで掲載されているのだ。
少し詳しく紹介しよう。
この記事によれば、まず運行時間は以下の通り。
上の沢口 (鉱山側坑口) 発 | 8:00 | 11:00 | 16:30
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田代口 発 | 8:30 | 11:30 | 17:00
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客車列車の運行は一日に3往復だけだった。
しかし、運行開始2ヶ月後の同年10月には、青森駅前から隧道田代口までのバスが開通し、これらは相互に連絡され、日帰りでの青森往復が可能になったと、同紙10月号に報じられている。(写真下)
故に、この鉄道は単純に両側の坑口を結ぶだけの物で、隧道外には延長されず、それぞれの坑口に乗降所が用意されていたようである。
運賃については特に記載がないが、乗車券が存在していたらしく、事前に鉱山事務所に申し込む必要があった。
定員は24名で、これを越える場合には「婦女子を優先」と取り決められていた。
(ちなみに、これと並行して運行され続けていた、鉱山から麓の千曳(東北町)まで下る鉱山軌道については、無料ではなく、昭和30年当時で運賃片道200円を徴収していたという。各地の森林鉄道が(非公式ながらも)無料で近隣の住人を運ぶ慣習だったのとは大違いで、ちゃんと旅客扱いが許可されていたと言うだけではなく、経済的にも鉱山街が先進地であったことを示している様に思われる。)
田代隧道の旅客列車運行開始の記事には続いて、「注意事項」が並べられている。
- 隧道内は危険なので係員以外は歩行禁止。
- 褐鉄輸送車の乗車禁止。
- 乗客の整理及び運行等については、隧道係員の指示に従うこと。
- 飛乗り、飛降りや連結器の上に乗らない。
注目は、「褐鉄輸送車の乗車禁止。」である。
隧道内部が他の坑道などと繋がっていたのだろうか?
それ以外の項目は至って普通な内容であるが、なかなか一人前な旅客鉄道を運行していたムードは十分に感じられる。
最後に、記事に添えられている小さな写真をお見せしよう。
もちろん、洞内に運行されていた客車の写真だ。
こんな小さい列車に乗れるか?!
上の写真を最初に見たときには、思わずそうツッコンでしまった。
だって、どう見ても一緒に写っている大人に比べ小さすぎるだろ。
しかも、
一応有蓋車かよ(笑)。
ただですら狭い隧道内を、こんな棺桶のような窓もない列車で24人すし詰め運行…。
それこそ、酸欠の心配が。
…軌間50cm台の客車運行は、伊達ではなかったのね…。
上北鉱山に暮らされた方々がまとめられたWEBサイトがある。
その名も、『
上北鉱山』というサイトである。
今回のレポートでは大いに活用させていただいた。
(作者様、ありがとうございます。)
そこで、私は目ん玉が飛び出るような衝撃写真に出会った。
これだ(→)
今度は、無蓋車であるが、やはり田代隧道に運行されていた列車だという。
乗客の多さがまず目を引くし、客車と言って良いのか分からないような客車のなりも突っ込まずにはいられない。
だが、最大の問題はそこではない。
先頭車両を、
見て欲しい。
か、か、カッコイイ…
さて、現実に目を向けてもらおうか。
現在、私は田代口から800m、 出口まであと1000mほどの地点にいる。
地図で確認すると、青森市と天間林村との境である稜線は、ちょうどこの真上の辺りだ。
いわば、隧道内で最も地中深い場所と言うことになる。
見て欲しい。
感じて欲しい!
この、あまりにドギツイ圧迫感を!!
なんだか、暑い。
お馴染みの、“熱い”と言うやつではなく、マジで、暑いよ。
泥に足を取られながらチャリを押し歩いているから?
それとも、地熱?
もしかしたら、後者もあるのかも知れない。
地球の息吹を感じたとしても、全く不思議はない。
そんな地中深くに私はいた。
12:57
いつしか、足元はこれまでで最も深い泥濘に支配されていた。
沈んでいる筈のレールと枕木の感触さえ曖昧になり、枕木を踏み外すと、膝まで沈んだ。
ジャブジャブ ジュボジュボ と、 不快な音を立てながら、今更引き返す気にもなれず黙々と前進していた。
異変に気が付いたのは、かき回されたヘドロから発せられる強烈な錆臭さに顔をしかめた、その瞬間だった。
ぎゃーー!
ガスだ!
足元の泥沼に沸き立つ気泡!
そこからは、いままさに
炭酸ガスのようなシュワシュワ音が!!
次回、
まさか 山行がの最終回 か… ?
のこり900m