2007.3.31 8:10 【鎌倉市 材木座】
現在地は国道134号・小坪地内を北上中。
見ての通り、この区間の国道は深い掘り割りになっており、古い地形図に描かれていた“目指す隧道”への道は分断されているようだ。
しかし、今の地形図にあっても隧道の掘られていた山の形に変化は無いように見えるから、道はさておき隧道は現存する可能性が高い。
そう期待しての訪問である。
とりあえず、掘り割りと隧道への道の交点と思われる位置まで北上を続ける。
ちなみに前話の最後でも少し触れたが、現在は国道134号として無料開放されているこの道は、以前は日本道路公団の管理する「湘南道路」という自動車専用の有料道路だった。(開通年および無料開放年度不明。)
そんな由来の道だから歩道も無くて、圧迫感のある掘り割りの底を車に追い立てられるようにチャリで走るのは怖い。
さらに進むと、『逗子小坪プロジェクト マンション建設予定地』と大書きされた真っ青な看板が現れた。
そこから左の山中へ向けて、鉄板敷きの工事用道路が伸びているのだが、すぐ先に高いゲートが設置されており、奥はまるっきり見通せない。
位置的には、この辺りが目指す隧道への入口になると思うのだが…。
長いあいだ沿道利用が進まなかった元有料道路沿いの、ようやく始まった開発のようであるが、嫌な予感がする。
隧道は無事なのか!
そして、一番肝心なのは、私にこの奥へと近づく術があるのか。
ダンプが頻繁に出入りし、守衛が睨みを効かせる入口前で、無惨なはげ山となった現場の山へとカメラを向ける。
…これは…
隧道の現存はもはや… 絶望的 なのでは……。
国道を悶々としながらさらに30mほど進むと、いよいよ行く手に逗子市を画する飯島トンネルが迫ってくるのだが、その手前で左に折れる小道発見!
国道から逃げ込むようにそこへ入った私だが、5m先に門扉が。
その奥には、綺麗に手入れされた庭園路が丘の上に向かって続いており、セレブの薫りがする。
というか、門の前にチャリで止まった刹那、隠されていたスピーカーから「ご用の方はインターホンを…」などと声がいきなりしたもんだから、場違いな私はびびって逃げ出した。
…だめだ。
国道の海側はこの2カ所の枝を除いては全てコンクリの法面だし、枝も全く立ち入り禁止。
正攻法での接近は無理。
湘南で不法侵入となれば、ちょっと泥棒臭くなって笑えないので、裏へ、海岸側へと回ることにする。
この飯島トンネルを鎌倉方向へ進む時の車窓は、他のどの道でも得難い変わったものである。
小坪トンネルと同様に逗子側坑口が最高地点になっているのだが、そこから下っていく大断面のトンネルを窓にして、鎌倉側の風景が見える。
ここまでなら片勾配のトンネルにおいて珍しい事ではないが、この道が特別なのは、そこに見えるのが陸ではなく海一面だということだ。
トンネルの先の道は急な下りのまま急カーブですぐ窓景から消えてしまうので、残るのは由比ヶ浜海岸の遠浅の海だけとなる。
まるで、海面に向かってダイブするような… といえば少し大袈裟かも知れないが、しかし変わった眺めであることは確かだ。
もっとも、私なりのひねた見方をすれば、この線形は欠陥ではないかと思ってしまう。
雪の降らない地方ゆえの、強引な道だ。
トンネル前に下り急カーブで、しかも良好な車窓を得るためかは分からないが、側壁が無くガードロープだけだなんて、「死んでもイイよ」って言ってるようなものだと思ってしまう。…チャリでも普通に下っていれば50キロは出てしまう急な下りだ。
鎌倉市材木座のスタート地点に戻る。小坪トンネルと飯島トンネルを使ってぐるっと全周1kmの周回をしてきたが、肝心の隧道には全く近づけずじまいだった。
本来の隧道へ向かう道が現存しないか、或いはあったにしても立ち入りが出来ないと分かった事が、唯一の収穫だ。
隧道が記載された古い地形図を見直してみる。
この隧道が不思議なのは、海側からの道が描かれていないと言うことだ。
城跡記号とともに描かれた2軒の家屋が、隧道の目的地だったように見える。
当時の海岸線の道から数えて坑口は40mも高い位置に口を開けており、もし両者を結ぶ地図にない道があったとしても、それは非常な急勾配であっただろう。
そのようなことが想像できるゆえ、道が描かれている山側からの接近を成功させたかったのだが…。
ともかく、こうなってはもはや海側よりのアプローチの他はない。
どうにも宅地化していそうな予感がするが……。
今度は、この小坪海岸トンネルを通って小坪海岸へ。
昔の地図だと磯の記号が続いていた文字通りの小坪海岸も、現在では逗子マリーナを中心とした大々的な埋め立てが行われ、海岸はコンクリートに覆われた。
マリーナが出来る前にはその磯伝いの隘路しかなかったようだが、現在は全長250mほどのトンネルで容易に鎌倉市街と行き来が出来る。
数年前に土砂災害によって犠牲者を出した小坪側の坑口部は、矩形のコンクリートボックスで大分延伸されていた。
8:15
これが、高級リゾートマンション地帯と変わった小坪海岸のメーンストリートの様子だ。
生憎の曇り空で、しかもカメラが傾いているので斜陽的な写真になってしまったが、良く管理の行き届いた町並みである。
何百メートルも連なる椰子の並木は、北国育ちの私には刺激が強すぎる(笑)。
目指す隧道の坑口だが、とにかく山沿い、崖沿いを探さねばならない。
とりあえず、怪しい場所を探しに山側へと進んでみる。
現在マンションが建っている平地は全て埋め立てによって出来た新しい土地で、昔の海岸線の崖に沿って対照的な家屋連担の風景が見られた。
そして、車も入れないような小道が縦横に走り、脇には風化した無数の石仏が並ぶ。
…まさしくこれが、隧道と同じ時代の道なのではないか。
そう思えてきて、自然に気分は盛り上がる。
古い海岸線の姿をイメージしながら、辺りを散策するのは楽しかった。
そのうちに、私はひとつの門前にたどり着いた。
「供養山」「海前寺」と、門柱にはそう彫られている。
段々になった崖中の狭い土地にあって、決して広壮な寺院ではないが、清楚な感じがむしろ好感触。
寺の名前らしからぬシンプルなその名も、何か惹かれるものがある。
隧道は、この辺りに口を開けているかも。
そう思い、裏手に回り込んでみると…
首塚があった。
ナムナム…
寺の裏手は狭い墓地になっており、江戸から明治、大正までのものと思われる古い墓標が、その碑面を確かめることが出来ないほどに密集して安置されていた。
その最も奥まった部分、簡素な石の参道突き当たりに小さな窟があって、「首塚」とだけ刻まれた石碑がある。
その由縁を説明するようなものは見あたらない。
気持ちを取り直して(その必要があるのかは謎)、寺よりさらに上へと続く階段を発見したので、これを登ってみることに。
目指す坑口は海岸線から40mくらい高い所にあるはずだから、このくらいの上りは十分あり得る。
というか、この階段はマジで怪しいぞ。
なにやら地形的には谷線になっているし、この奥こそ……!
階段の先にあったのは一軒の民家だった。
失礼してその裏手も拝見したが、コンクリートの壁になっている。
諦めきれず、さらにそこから見上げると、10mほど上部に「!」な窪みが見えるではないか!
落石防止の柵を乗り越え、よじ登ってみる。
残念!
それはただの地形的な窪みでしかなかった。(おそらく地滑りの痕だろう)
しかし、発見もあった。
よじ登った先からさらに山の上を見上げると、そこには禿げ山に変わった稜線の姿が見えた。
そして、重機の嘶きが鮮明に聞こえてくる。
この山の裏側がマンションの建設現場なのである。
仮に隧道がこの辺りにあったとしても、向こうの坑口はマンション建設予定地に呑み込まれているに違いない。
しかし、せめてこちら側だけでも、何かを見付けられないものだろうか…。
どうも、この辺りには坑口はないようだ。
一旦下山して、古地形図を見直してみる。
すると、今まで探していた場所は少しずれていた事に気づく。
地図中には注記無しで記号だけの寺院があるが、これを海前寺だとすれば、捜索すべき場所はもっと北側である。
北へと移動する。
ねぇ。
隧道、どこにあるの?
ねぇ 知ってるんでしょ?
8:40 【現在地】
海前寺から西側に小さな尾根を一本隔てた谷線が怪しいと言うことになり移動する。
そして、小坪海岸トンネル坑口のすぐ西側に、山へと登る小道を見付け出す。
写真では、ニャンコの左奥に入る道が、その登り口だ。
小坪海岸トンネル南側坑門が延伸されたことにより、このトンネル区間の旧道たる海沿いの街路はそこで分断されており、わざわざ鎌倉市側から回り込んで来る必要があった。
如何にも古びた坂道である。
車も通るようだが、普通車にはかなり厳しい狭さだ。
麓まで先導してくれた地元猫のN氏は「あとは行けばわかるにゃ。」と言っていたが、今のところそれらしい物はない。
というか、登れども登れども登っており、このまま行ったら山の上まで続きそうだが…。
100mほど登った所で、右に折れる細道があった。
真っ直ぐの道もまだずっと続いているようだが、いよいよ坂が急になって来たのと、何となくこの細道に惹かるものを感じ、曲がってみた。
すぐに舗装は途絶え、踏みならされた土道に。
方角的には東へ向かっている。
そして、怪しいと思っていた谷線のまっただ中へと入っていく。
小道を辿っていくとそこには一宇のお堂があった。
そして、道はその石段の前で終わっていた。
この神社が、今の地形図に二軒の家屋として描かれている建物なのではないか。
位置的にはかなり一致している。
とすれば、目指す隧道の坑口も、この辺りにある筈だ?
8:50 【住吉城跡】
神社の名前はわからないが、そこには「住吉城跡」と書かれた案内看板が置かれていた。
昔の地形図で城跡の記号が描かれていたのと一致する。
社の前に立って振り返ると、そこには鈍色の海に浮かぶ江ノ島が見えた。遙か遠くには伊豆半島の山々だ。
ちなみに、案内板によると住吉城は戦国時代初期に使われた山城で、三浦道寸・道香の兄弟がここを拠点に北条の軍勢と戦を交えたそうだ。
結局兄弟はその戦で敗れ悲惨な末路を遂げているとのこと。
城跡を取り囲むように立つ神社や寺院もまた、それら戦国武将達の魂を鎮めるために建てられたものかも知れない。
しかし、神社の裏山の向こうからは、絶え間なく工事機械の音が聞こえてくる。
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にょにょにょ
にょにょにょ
にょにょにょにょにょ
出たー! よね?
城跡の片隅に口を開ける、闇の口。
地図上の姿から想像していたよりも、遙かに小さい。
果たしてその正体は?
次回最終回は必ず、
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