奥羽本線 小繋の廃隧道群 前編
県内最後の長大旧線遺構
秋田県ツ井町 〜 鷹巣町

 今回紹介する区間で、県内に残る奥羽本線の廃トンネルは打ち止めだ。

奥羽本線二ツ井〜前山間は、全国的にも有名になった恋文コンテストの舞台きみまち坂を通過する区間だ。
白神山地の南端が米代の流れを湾曲し、深い淵に切り立った岩肌が洗われる。
崖沿いに開削された狭い国道7号線と、寄り添って走る単線の線路。
ゆったりと流れる米代と、その畔に連なる車の群れ。

その眺めは、もうない。
国道は昭和54年バイパス化、かつての国道は県道に降格となった。
そして、奥羽本線の鉄路は、さらに遡ること8年、昭和46年には長大なトンネルを供する現線に切り替えられている。
発生した旧線は、総延長3.9km、4本の隧道を有する、長大なものだった。


当レポートはその痕跡を辿りつつ、二ツ井から前山方向へと進行する。




 2003年4月10日、午前8時30分。
この日は、奥羽本線の廃隧道を一挙に攻略する目的で、能代市富根で輪行を解いた。
間も無く富根の廃隧道を攻略し、続いてのターゲットとなったのが、このきみまち坂に眠る小繋廃隧道群だ。
天候は快晴であり、4月は廃線探訪には最も適した時期である。
未知を暴くことへの興奮は、既に最高潮に達していた。
テンションの高い状態だ。


 写真は、二ツ井市街地を貫流する米代川の畔から、これから挑むきみまち坂方面を望んだものだ。
正面にある山がきみまち坂で、手前に写る水色の6連ポニートラス橋は、旧国道7号線、現一般県道322号線の琴音橋である。
右端には雪解けを水を集め、濁流のように増水した米代の灰色の水面も見える。



 藤琴川に架かる琴音橋の袂である。
かつては国道であったが、この橋と、この先のトンネルの狭隘、および老朽化がバイパス化の主要因であった。
琴音橋が始めて架橋されたのは、明治17年のことである。
それ以前は橋がなく、渡し舟に頼っていたという。
現在のトラス橋が架設されたのは、昭和27年のことである。
この素敵な橋名が、誰によって、どのような経緯で決定されたものなのかは、気になるところである。

琴音橋からきみまち坂へ…
よくは分からないが、地名としては最高のレベルだろう。



 一つ前の写真にも写っているのだが、路上に設置されているこの標識も、年代を感じさせる。
はたして、左側にはどのような標識が設置されていたのだろうかと思い巡らすのも、楽しい。
復員制限か、重量制限か??
あなたの推理は??




 琴音橋から続くきみまち(正式には、“后”と記す)坂隧道への侵入は、現役当時ここが県下の国道7号線最悪のボトルネックだったことを容易に理解させる。
隧道手前に微妙な屈曲があり、狭くて暗い隧道内部には、観光地であるが故の歩行者の姿も多かったらしい。
迂回路の一切も存在しなかったという。

現在は、国道のバイパス化によって通行量は激減。
さらには、写真にも小さな坑門が見えるが、並行する歩行者用のトンネルも開通している。
それでも、朝夕には生活道路として結構な通行量がある。

このきみまち坂隧道は、記録上明治22年の竣工であり、これは東北でも有数の、もちろん秋田県内ではダントツの最古隧道である。
この隧道については、別項を参照されたい。(ただし、この内容は古く、今後修正予定あり)


 さて、いきなりだが本題だ。
この坑門こそが、明治34年竣工、昭和46年廃止の第四小繋隧道である。
二ツ井側の坑門は、きみまち坂隧道の坑門からさらに30mほど藤琴川の河川敷を遡った場所にぽっかりと口を開けている。
アクセスは大変容易だが訪れる者は少ないようだ。
廃材などが辺りに散乱し、侵入は容易では無い。
だが、なんとか通り抜け出来そうなので、チャリごとの通過にチャレンジすることにした。

それはそうと、この坑門は他の同時期の廃隧道とは明らかに異なる。
よく見ると、坑門から3mほど奥の内壁に一段せり出した痕跡があるので、竣工後に坑門部だけ改築されたのかもしれない。



 侵入20m地点にて、振り返り撮影。
隧道の外はすぐに藤琴川を渡る橋梁だったはずだが、その直線上には国道のバイパスのきみまち大橋が見えており、痕跡は残されていない。
橋梁の正式な名も、今のところ不明である。
また、バイパス工事と宅地化によって、二ツ井市街地内の旧線跡も判然としない。




 画像処理によって、やや明度を上げているがこれが内部の様子だ。
内壁の剥離などは、年代相応に進んでおり大規模な崩落の危険性も少なくはなさそうだ。
この廃隧道の特徴としては、写真に写る、足元に続く飛石のような歩道である。
現在では利用されていないのは明白であるが、観光地という立地上、観光歩道として利用していた時期があるのかもしれない。
それ以外は、いたって普通の不気味な廃隧道である。





 げっ、普通じゃねーーー!


ものすごい泥濘に、装備した長靴すらズボズボと沈み、身動きが取れない状態に陥る。
ここの泥は悪臭もひどく、ヘドロに近い。
踏み込むと、メタンのガスがボコボコッと、隧道内に充満する感じだ。
グワッ、これは辛い。

 飛び石の残骸がここにもあり、何とかこれを利用しつつゆっくりと進んだ。
ちょうど、出口側の坑門の前で、県道の工事のおじさんたちが談笑しており、隧道内からものすごい形相でチャリと共に接近してくる私を一瞥して、

  無言  でした…。



 対に脱出するも、チャリなどはギアからチェーンから、駆動部の大半に泥がつまり、この後の走行に悪影響を及ぼした。
外から見ると、穏やかな様子で簡単に通行できそうなのだが、第四小繋隧道(延長175m)は、意外な難所であった。
そして、こちら側の坑門の造型も、現代的である。
どのような経緯でこうなっているのか、気になる。
坑門の右に写る白い札には『奥羽本線旧トンネル』と記されており、公園の隅にぽっかりと口を開けた一見意味不明なこのトンネルの由来を示している。



 隧道を出ると、そこはきみまち坂県立公園だ。
白神山地の玄関口としても、紅葉の名所としても、また最近は道の駅も出来て国道の休憩地としても、重要なスポットである。
県内でも非常に古い時期から整備された経緯を持つ公園であり、もともとのきみまち坂の名の由来となった明治天皇の行幸以来、ここから眺める米代川は、秋田県を代表する絵葉書の題材となった。
特に、川に落ち込む切り立った懸崖に赤く紅葉の映える秋は、最も美しい。

写真中央下に見えるのが、今通過してきた隧道だ。
現役当時、車窓から見えた紅葉は如何ほどであったろうか?

 広く盛り土が成された公園の北側の隅、廃線跡は消えている。
当初は、ここにも隧道が穿たれていたというが、残念ながら発見できなかった。
第三小繋隧道(延長155m)だ。
まず間違いなく、公園の造成によって消えてしまったと思われる。



 旧国道である県道322号線を川沿いに辿り、すぐに第三小繋隧道の前山側坑門のあったと考えられる地点に着いた。
無人のビデオ販売機の裏、雪崩防止柵の裏が怪しいとにらみ、枯れ草を掻き分け探索するも、遺構と思われるものは何も発見できなかった。
帰宅後地形図などを確認したが、155mという延長と私の探索した箇所はアンマッチであり、坑門の位置は以前不明である。
並走する国道のバイパスにあるきみまち坂トンネルによって、こちら側の坑門が取り壊された可能性もあると思われる。

これについては、机上調査を含め、今後更なる調査を必要としそうだ。



 ここまでは、1勝1敗。
そして、さらに2本の隧道がこの先に眠っているはずだ。

次回、その実態が明らかに。




第三小繋隧道   延長 154.87m  1901年竣工 1971年廃止
第四小繋隧道   延長 175.41m  1901年竣工 1971年廃止

第四については、県道からのアクセスが容易で内部も通過可能。
一方、第三については、公園の造成や国道バイパス工事によって地形が変っており、その痕跡は消失したものと思われる。

※なお、上記二隧道の隧道名や延長などは、書籍『奥羽鐡道建設概要』内の表記を、 『NICHT EILEN 「ニヒト・アイレン」』 の管理人 TILLさま よりご紹介いただいたものです。
ありがとうございました!

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2003.7.11